35.

 今度こそパパときちんと話さなければならない。
人と話し合いをする事は死ぬほど苦手だけど、今度だけはパパとしっかり向き合って自分の意思を伝えなければならない。
僕はそう思い、どんな言葉で彼と話すかをずっとずっと考え続けた。なのにその日、パパは遂に家へ帰ってこなかった。
僕が翌朝ちゃんと学校へ行ったのは、若葉に会いたいと思ったからだった。
本当は学校なんかサボっても構わなかったのに、僕はどうしても彼の笑顔が見たかったのだ。

 登校して教室のドアを開けた時、若葉はちょうどすぐ目の前にいた。 ドアの横にはゴミ箱があって、そこへ何かを捨てにきたところだったようだ。
実際に教室で彼の顔を見た時、僕は心からほっとした。若葉の笑顔は人に安らぎを与える力を持っていたのだ。
パッチリした優しい目が自分に向けられると、心の中が少しずつ温かくなってきた。
ところが僕の顔を見るなり彼の顔色が曇った。若葉の笑顔が目の前から消えると、なんだかとても切なくなった。
「滝沢くん、大丈夫?」
若葉は僕の顔を見上げてそう言った。でも僕には彼が何故そんな事を言ったのかよく分からなかった。
教室の中はいつものようにざわついていた。皆がそれぞれ仲のいい友達と集まってお喋りをしていたからだ。
僕には若葉の声が遠く感じた。そして教室のざわめきもどこか遠くから聞こえてくるような気がしていた。
何故だか視点が定まらず、目の前にいるはずの若葉の顔が遠くに見えたり近くに見えたりした。 目線が不定期に揺れ動くと、少しだけ息苦しさを感じた。
自分の席へ着こうとして歩き出した時、とうとう視界が真っ暗になった。
すると突然大きな音が耳に響き、やがてあたりが静まり返った。
僕はそれから先の事を一切覚えていなかった。


 「はぁ…」
そばで小さなため息が聞こえた時、一瞬とても清潔な香りがした。それはせっけんによく似た香りだった。
僕の頭の中は真っ白だった。そして瞼の向こうに微かな白い光が見えた。
ゆっくり瞼を開けると、やっぱりそこには白い物が見えた。 それがどこかの天井である事に気付いた時、すぐそばで若葉の声がした。
「滝沢くん、目が覚めた?」
若葉は僕の顔を見下ろしてほっとしたような笑顔を見せていた。その時僕は今の自分の状況をまったく理解していなかった。
彼のパッチリした目が光っていて、小ぶりな唇は少し濡れていた。
ぼんやりとその笑顔を見つめていると、若葉の小さな手が僕の額にそっと触れた。
「顔色もよくなったし、熱はないみたいだね。3時間目は自習になったから、もう少し横になってた方がいいよ」
そう言われた時、やっと自分がベッドで横になっている事に気付いた。
その時は頭がスッキリしていた。僕はそこで目が覚めるまでぐっすり眠っていたに違いなかった。
ベッドの横の窓は白いカーテンで覆われていた。そしてわずかな外の光が僕の目に届いていた。
彼は低い丸椅子に座って優しく微笑んでいた。僕が感じた清潔な香りは、きっと若葉の香りだったのだ。
「ねぇ…ここはどこ?」
「保健室だよ。何も覚えてないの?」
「保健室?」
「滝沢くんは貧血で倒れちゃったんだよ」
僕はそう言われてもピンとこなかった。その時はまだ頭の中が真っ白だったからだ。

 白いベッドと白い布団。白いカーテンと白い天井。
僕の視界は真っ白だった。頭の中も目の前も、とにかくすべてが真っ白だった。
僕がしばらく黙っていると、突然若葉の顔色が曇った。彼が笑顔を失った時、ようやく少しずつ記憶が蘇ってきた。
昨夜はパパを待ち続け、朝になるまでほとんど眠る事ができなかった。 それでも僕はちゃんと制服を着て学校へ向かった。
パパのいない家に1人きりでいるのが不安だったから。 そして、若葉の笑顔を見ればその不安を全部忘れられると思っていたから。
「最近元気がないけど、どうしたの?」
僕が記憶の糸を辿っていると、彼が遠慮がちにそう言った。若葉の声は妙にしんみりとしていた。
「もしかして、お父さんと何かあった?」
突然そう言われた時、急に胸がドキドキしてきた。
若葉はいつからそこにいたのだろう。僕はもしかして寝言で何か言ったのだろうか。
そう思った時、彼が突然ある告白をした。
「滝沢くんのお父さんは随分若いみたいだけど、本当のお父さんじゃないよね?僕のお父さんも、本当のお父さんじゃないんだ」
それは思いもよらぬ告白だった。若葉が伏し目がちにそう言った時、胸のドキドキが更に激しくなった。
一見まったく違うタイプに思える僕たちには、実は大きな共通点があったのだ。
若葉は思わぬ方法で僕の不安を吹き飛ばしてくれた。
僕は彼の告白にすごく驚いて、不安も何もかもいっぺんに忘れてしまったのだった。
彼はベッドの隅に両手をついて笑顔を見せた。でもそれは無理をして笑っている作り笑顔だった。
本当は笑っていない彼の笑顔を見た時、僕はすぐに気が付いた。若葉はきっと、血の繋がらない父親とあまりうまくいっていなかったのだ。

 伏し目がちな若葉はそれから少し黙っていた。彼は明らかに僕が何か言うのを待っていた。
保健室には僕たち2人以外に誰もいない様子で、そこはあまりにも静か過ぎた。
僕が布団の下で少しだけ体を動かすと、シーツと足の擦れ合う音が妙に大きく部屋の中に響いた。
「若葉、お父さんと何かあったのか?」
僕は彼に言われた言葉をそのまま返した。すると彼は白いシーツをぎゅっと掴んで小さくため息をついた。
「お父さんとはあまり話した事がないんだ」
「そうか」
「僕、学校から真っ直ぐ帰ると家でお父さんと2人きりになっちゃうんだ。それが嫌だからバイトを始める事にしたんだよ」
その時僕は若葉と初めて話した時の事を思い出した。
学校帰りにバスに乗ろうとしていた時、彼は必死に走って僕を追いかけてきた。
それから2人でバスに乗り込んだ後、若葉はたしかにこう言ったのだった。
「滝沢くんもバイトしてるの?」
彼はあまり多くを語らなかったけど、僕にはもう分かっていた。
若葉が僕に近づいたのは、僕が自分と同じ境遇だと知ったからなのだ。彼はきっと、僕となら分かり合えると思ったのだ。
彼が無理をして微笑むと、すごく胸が苦しくなった。
ママを守ると誓ったように、若葉の事も守ってあげなければいけないと思った。
僕たちは同志みたいなものだから。若葉は僕の、たった1人の友達だから。

 カーテン越しの光が彼の頬を照らしていた。
僕はほくろ1つないその頬に手を伸ばし、彼の体温を指先で感じ取ったのだった。
「お父さんは、本当は若葉と話したいんだよ。絶対そうに決まってるよ」
その時僕は自分にそう言っていたのかもしれない。
あれほどひどい別れ方をしたママでさえ、話せばちゃんと分かり合えた。 僕はひどい息子だったけど、ママはすべてを許してくれた。
だったらパパとだって分かり合えるはずだ。僕たちは愛し合っているのだから、絶対にうまくやっていけるはずだ。
僕の心の中にはいつの間にかそんな自信が芽生えていたのだった。

 若葉の頬はとても温かかった。彼はやっといつもの子供っぽい笑顔を取り戻していた。
彼は笑うとすごくかわいくて、純真で、真っ白で、誰よりも素直な少年だった。
若葉の笑顔はいつも僕を癒してくれた。
彼と一緒にいれば、きっと誰でも幸せな気分になれる。僕もそうだったし、彼のお父さんだってそうに決まっていた。
「大丈夫だよ。一度お父さんとじっくり話せば、きっとすべてがうまくいくよ。若葉はかわいいから、絶対大丈夫だよ」
素直にそう言った時、指先に感じる彼の体温が急激に上昇した。若葉の頬は真っ赤になり、彼はそのまま恥ずかしそうに俯いた。
ちょうどその時、廊下の方からチャイムの音が聞こえてきた。
若葉はスッと立ち上がり、両手で真っ赤な頬を覆い隠した。
「昼休みになったみたいだから、教室に戻ってお弁当を取ってくるね。 滝沢くんはもう少し寝てた方がいいと思うから、ここで待ってて」
そして僕は柱の陰に消えていく彼の背中を見送った。 それからすぐに保健室のドアの開く音がして、彼の足音が一旦僕から離れていった。
保健室には彼の残り香が漂っていた。せっけんのようなその香りは僕の心を落ち着かせてくれた。
窓を覆うカーテンをわずかにめくると、外の強烈な日差しが白いベッドを強く照らした。 すると目が幻惑されてしまい、白かった視界がいきなり真っ黒なものへと変わった。
僕は体を起こし、幻惑が解消される前に上着のポケットから携帯電話を取り出した。


 僕はそこから迷わずパパに電話をかけた。
幻惑が解消されて視界が元の白に戻ると、電話の呼び出し音が耳にはっきりと聞こえてきた。
どうしてもっと早くパパに電話をしなかったのだろう。どうして僕は何もせずにぼんやりとパパを待ち続けていたのだろう。
そんな後悔が頭をよぎった時、遂に電話が繋がった。
「パパ?」
「あぁ、雅巳くん?」
電話の向こうから響くのは、いつもと変わらぬパパの声だった。電話を通していても、その声はちゃんと僕の耳をくすぐってくれた。
「パパ…今どこにいるの?僕、今日どうしてもパパと話がしたいんだ」
「今は家で仕事をしてるよ。雅巳くんはまだ学校だろ?」
「ねぇ、今日は僕が学校から帰るまでちゃんと家にいて」
「分かったよ」
「僕が帰るまで絶対にそこを動かないで。約束だよ!」
「うん」
掠れた声が短くそう言った時、僕の目にわずかな光が射した。

 厳密に言うと、パパは僕との約束を破った。
僕が急いで家へ帰った時、彼はすでにそこにはいなかったのだ。
リビングに彼の姿がない事を知った時、僕はパパがいると信じてすぐに彼の仕事部屋へ向かった。
すると、薄暗いその部屋に1つの光を見つけた。
机の上で光を放つ真っ白なブラウザ。
彼の姿はそこにはなかったけど、パパはたしかにその光の中に存在していたのだった。