36.

 学校から帰った時、リビングにパパの姿はなかった。
息を切らしてパパの仕事部屋へ行くと、そこにも彼の姿を見つけられずに落胆した。
ただ机の上で光を放つ白いブラウザを見つめた時、僕は吸い込まれるようにゆっくりとその光へ近づいた。
いつもパパが座っている椅子に腰を下ろすと、尻の下にわずかに彼の温もりを感じた。
目の前にある光はとても眩しかった。その光は僕に何かを訴えかけているかのようだった。
そしてそれは事実だった。パパはブラウザ上に僕へのメッセージを残していたのだ。
親愛なる雅巳くんへ
彼のメッセージはその一言で始まっていた。
僕は冷たいマウスに手を掛けて、少しずつ少しずつ彼の残した言葉を読み進めたのだった。


親愛なる雅巳くんへ

今日は君が帰ってくるまで待っていると言ったのに、約束を守れなくてごめん。
実は俺も雅巳くんに話したい事があるんだ。 でも君の顔を見るとうまく話せなくなりそうだから、こんな形で今の思いを伝えたいと思う。
俺は今すごく急いで君に手紙を書いている。
きっと文章もメチャクチャだし、自分の気持ちをうまく伝える自信もないけど、どうか最後まで読んでもらいたい。

昨日俺に2本の電話がかかってきた。
1本は君のママからで、もう1本は岡本という男からだった。
冴子さんとは久しぶりに長話をさせてもらった。君と彼女が和解した事を知って、今は心からほっとしている。
雅巳くんは岡本と会って話をしたようだから、彼についての説明はここでは省く事にしようと思う。

君はあの写真を見てしまったんだね。俺がどうしても捨てられなかったあの写真を、とうとう見つけてしまったんだね。
最近君の態度がなんとなくおかしかったのは、もしかしてそのせいだったのかな。
雅巳くんに嘘をつくのは嫌だから、今日は思い切って本当の事を言うよ。
岡本は君にいろんな事を話したようだけど、彼が言った事は概ね事実だ。
俺は小説家として成り上がるために君を利用したんだ。 最初はそんなつもりはなかったんだけど、結果としてそうなってしまった事は認めざるを得ない。

俺が小説家になろうとした理由は前に話したと思うけど、本当はまだ君に言っていない事がある。
俺は昔から人と話すのが苦手だった。でも作文を書くのはわりと好きで、思っている事を文字で表現する事は得意だったんだ。
それだけでも小説家になる動機としては十分だけど、本当の動機はもっと深いところにある。
これは前にも話したと思うけど、俺の両親は仕事に夢中で家庭を顧みない人たちだった。
父親も母親も同じような体質だったから、2人はきっとお互いを尊重し合ってうまくやっていたんだろう。
だけど俺はすごく淋しい幼少期を過ごした。家にいるのは無口な家政婦と犬ぐらいのもので、話し相手なんか誰もいなかった。
ずっとそんな環境で育ったから、温かい家庭に対する憧れは相当強いものだった。
俺の本当の夢は小説家になる事ではなく、温かい家庭を持つ事だったんだ。
小説家になる事はそのプロセスでしかなかった。 いつか誰かと結婚して子供が生まれた時、俺はずっと家にいるような父親になりたかったんだ。
ちゃんと毎日子供の成長を見つめて、その子の事ならなんでもすぐに分かるような、そんな父親になりたいとずっと思っていたんだよ。
ただ、結婚とか子供とか…そんな事はもっと年をとってから考える事だと思っていた。
だからやっぱり当面の目標は小説家になる事だったと言っていいのかもしれない。

だけど何事もそう簡単にはいかなかった。
半ば親と絶縁したような状態で家を出たのはいいけど、小説家として食べていく事は難しくて、俺はホストとして働く決断をした。
ホストになって客の話をたくさん聞く事は、絶対に夢を叶える事に繋がる。
客に聞いたおもしろい話をどんどん頭に記憶して、いつかそれを小説にすればいい。
初めてホストとして店に出た時、俺は心の中で自分にそんな言い訳をしていた。
小説のネタを仕入れるためにホストになったというのは後付けの理由でしかない。
あの頃の俺はとにかく余裕がなくて、生きていく事だけで精一杯だったんだ。

君のママが初めて店に来た時の事は今でも鮮明に覚えている。
彼女は特に常連だったわけではなく、ある時フラッと店に立ち寄ったんだ。
冴子さんは綺麗で上品で光り輝いていた。
黒いドレスと真っ赤な唇が印象的で、ちょっと淋しげな笑顔がすごく魅力的だった。
ホストクラブの従業員の中で彼女の事を知らない者は俺しかいなかった。 冴子さんは高級クラブの人気ホステスで、歓楽街の女王様みたいな存在だったんだ。
そんな彼女と俺が深い仲になった事は、君にとっては不運だったような気がする。
あの頃の俺にとって、君のママはとてもありがたい存在だった。店に来る客の中で俺に1番投資してくれたのが彼女だったからだ。
冴子さんに何人ものスポンサーが付いている事は噂で聞いて知っていたけど、そんな事は何とも思っていなかった。 自分に回ってくる金の出所なんて、一切興味がなかったからだ。

冴子さんが君の事を話してくれたのは、彼女と知り合って1ヶ月が過ぎた頃だった。
「ねぇ、どうして俺に投資してくれるの?」
ある夜俺は彼女になんとなくそんな事を聞いた。シティーホテルの、眺めのいい最上階の部屋のベッドで。
俺がそんな事を聞いたのは、単なる好奇心からだった。
ホストクラブには人形みたいに綺麗な顔をした男や話し上手な男が山ほどいたのに、彼女がどうして俺に目を掛けてくれたのかとても不思議だったんだ。 すると彼女はわりとあっさりその質問に答えてくれた。
「きっと、あなたが私の息子によく似てるからよ」
彼女がきっぱりとそう答えた時、俺はすごく興奮した。
独り身で通っている女王様に隠し子がいたという現実は、すごくショッキングな事だったからだ。
冴子さんはその時ひどく酔っていた。
彼女は酔った勢いで携帯電話で撮影した君の写真を見せてくれた。 液晶画面に浮かぶ君は、突然カメラを向けられてびっくりしたような顔をしていた。
冴子さんに子供がいる事を知った夜、やっとチャンスがきたと思った。
俺は彼女の生き様を全部まとめて小説にしてやろうと思ったんだ。

俺が君の写真を撮ったのは、それから3日ぐらい後の事だ。
俺は本気で冴子さんの事を小説にしようと考え、そのためにどうしても本物の君を見てみたいと思った。
つまり俺は野心をたっぷり抱いて君に会いに行ったんだよ。
俺は当時君とママが住んでいたマンションのそばで雅巳くんが学校から帰ってくるのを待っていたんだ。
遠くの方にジャージ姿の少年を見つけた時、それが君だとすぐに分かった。
自分では気付いていないかもしれないけど、君の歩き方は冴子さんにそっくりなんだよ。
俺は古い建物の陰に立って君の写真を何枚か撮った。通りかかった人が俺を変な目で見ていたけど、そんな事は気にもせず君にカメラを向けていた。
それからもっと近くで雅巳くんを見たくて、少しずつ君に近づいていったんだ。
君との距離が近づくと、すごく胸がドキドキした。
君の髪は秋の風に吹かれていた。どこかで子供たちの笑い声がしたけど、君はその声にまったく反応しなかった。
雅巳くんはすごく華奢に見えた。背が小さくて、腕も細くて、とても弱々しい印象を受けた。
君はずっと俯いていた。俺とすれ違う時も、決して顔を上げようとはしなかった。

君はあっさりと自宅の前を通り過ぎて、フラフラと街をさまよっていたね。
道路にしゃがみ込んで何かを拾ったり、アパートの階段に腰掛けてため息をついたり、時には負の感情をぶつけるように石ころを蹴ったり。
君はニコリともせず、つまらなさそうな顔をして延々とそんな事ばかりしていた。
そんな雅巳くんの姿はすごく衝撃的だったよ。それは、あの頃の君が昔の自分とあまりにも似ていたからだ。
俺も子供の頃はたった1人で街を徘徊していた。家にいてもちっともつまらなかったからだ。
道路を歩くアリを観察したり、ただぼんやりと芝生に寝そべったり。昔の俺はいつもそんな事ばかりして退屈な時間をやり過ごしていたんだよ。

気が付くと遠くから夢中で君の写真を撮り続けていた。その時は完全に昔の自分と君とを重ねて見ていた。
俺は初めて会った時から雅巳くんの事が好きだった。それは絶対に嘘じゃない。
あの時、本当は君に駆け寄って抱き締めてあげたいと思っていた。
君を愛する事は自分を愛する事だと思っていた。君を愛する事は自分を肯定する事だと思っていた。
君の温もりを感じてみたかった。君の笑顔を見てみたかった。
俺はあれから毎日君の写真を見つめて雅巳くんの笑顔を想像していたんだよ。
決して触れられない相手にあれほどの思いを抱いたのは生まれて初めてだった。
俺はいつも君の事を考えていた。君の笑顔を想像したし、君を抱く事も想像した。
でも実際に雅巳くんと会って話した時、君の笑顔は想像よりもずっと素敵だと分かったよ。
そして君と話した瞬間に俺の考えは変わっていた。俺はいつか君の物語を書こうと思い始めていた。
それは後々現実になったけど、今の俺にはそうした事が正しかったとはとても言えない。
俺はあの小説を書く事で親に復讐したかっただけなんだと思う。
自分の中でくすぶっていた両親への憎しみ。俺はあの小説にそのすべてをぶつけた。
冴子さんの事はひどい書きようになってしまったけど、それは自分の母親に対する憎しみの表れだったような気がする。
物語の主人公は、雅巳くんではなく俺だった。
1人ぼっちで淋しくて、いつも誰かに愛されたいと思っていた。それは間違いなく昔の俺の姿だった。

君たちと一緒に暮らした事で、俺の当面の目標は達成されたようなものだった。
小説を書く事に専念するとそのうちに仕事の依頼も増えてきたし、俺たちの物語はすでに書き進めていた。 そしてそれがいい物になるという予感もあった。
俺はその事だけで満足していればよかったのかもしれない。
金と、小説のネタと、雅巳くん。
君のママは俺にたくさんのものを投資してくれた。そしてその事に対してはすごく感謝していた。
でも小説家としてなんとか食べていけそうだと分かった時、すでに冴子さんと別れる事を考え始めていた。
彼女からの投資はもう必要ないと思った。俺には冴子さんと一緒にいる理由がなくなってしまったんだ。
今のマンションは彼女と別れるずっと以前に購入したものだ。
俺は冴子さんと別れて、自由で優雅な暮らしを始めようと思っていた。 彼女とあんな別れ方をする前から、漠然とそんなふうに思っていたんだよ。
でも、どうしても気がかりなのは君の事だった。俺は彼女とは別れたかったけど、君とは一緒にいたかったんだ。
それでも俺はやっぱり君を諦めるべきだったんだと思う。
それは分かっていたはずなのに、どうしても君を離したくなかった。
俺の最大の誤算は、君を愛してしまった事だった。

「久しぶりにまぁちゃんの顔を見たけど、ちっとも幸せそうじゃなかった。あの子を不幸にするなら、私に返してほしい」
昨日君のママにそう言われた。
彼女は君を手放した事をすごく後悔しているようだった。
君と離れるのは悲しいけど、雅巳くんはママのところへ戻った方がいい。
俺はそうするのがベストだと思っている。俺と一緒にいれば君が不幸になると本当に分かったからだ。
冴子さんと別れた時、彼女に君を返しておけば今のような問題は起きなかった。
君の親権を取ったり君と2人で暮らしたりしなければ、岡本のような男に付きまとわれる事は絶対になかったはずだ。

最後になるけど、岡本が君に言った事は何も心配しなくていい。
トラブルの種をまいたのは俺だから、自分でしっかりとけりをつけるつもりだ。 ホスト時代に稼いだ金があるから、それでなんとかなるだろう。
雅巳くんにも冴子さんにも決して迷惑はかけない。俺はちゃんと責任を持って彼と話をつけるよ。
こんな事になって本当に済まないと思っている。君にも冴子さんにも会わせる顔がない。
今までどうもありがとう。
俺の話はこれで終わり。俺たちの物語は、これで完結したいと思っている。

滝沢丈二