38.
僕は最後にもう一度だけゆっくりと頬を濡らす涙を両手で拭った。
悲しみがすべて吹き飛んで、流した涙の意味がその瞬間に突然変わった。
1番最後に残されたメッセージを何度も読み返すと、徐々に徐々に胸が熱くなってきた。
パパはこのブラウザに映る僕の写真を、時々ここで眺めていたのだろうか。
僕と同じように胸を熱くして、昔の僕をじっと見つめていたのだろうか。
ふとそんな事を想像すると、僕自身も昔の自分を受け入れられそうな気がしてきた。
パパに会いたい。今すぐ会いたい。今すぐ彼を抱き締めたい。
僕はもう体の奥から溢れ出す欲求を抑える事ができなかった。
素早く席を立つと、パパの愛用している椅子がキーッと小さく唸りを上げた。
薄暗い部屋の中で光り続けるブラウザは、パパと同じぐらいに眩しく見えた。
白い光に背を向けて部屋を飛び出すと、とにかく一目散に駆け出した。
その時は玄関で靴をはく時間さえもどかしかった。
玄関のドアがオートロックだった事は幸運だった。家を出た後、ドアに鍵を掛ける時間を省く事ができたからだ。
エレベーターが最上階へやってくると、逸る気持ちを抑えて颯爽と四角い箱へ乗り込んだ。
その時はあまりにも胸が熱くて、体の内側が火傷してしまいそうだった。
玄関でちゃんとスニーカーをはいたつもりだったのに、何故か左の足だけがかかとを踏んでいた。
自分の靴音に少しだけ違和感を覚えたのは、きっとそのせいだった。
四角いエレベーターに乗ると、急いでドアの右側にある1階のボタンを押した。
高速エレベーターの動きが、その時だけは妙にゆっくりと感じた。
ドアが閉じる速度も、降下するために動き出す速度も、何もかもが僕の逸る気持ちに追いついていなかった。
僕はとにかく1秒でも早くパパに会いたかったのだ。
マンションの1階へ着いて四角いエレベーターを降りると、玄関ホールのガラス戸の向こうがブラウザと同じように眩しく光って見えた。
白いブラウザの最後に書かれていた短い言葉。
その言葉は僕の目にしっかりと焼き付いていて、一瞬ガラス戸の上にそれと同じ幻の文字が浮かび上がった。
俺たちの物語は完結しました。
最後まで読んでくれてどうもありがとう。
ママの所へ帰るなら、これから車で送っていきます。
続きを書かせてくれるなら、今すぐ俺を抱き締めて。
決めるのは雅巳くんです。下で待ってます。
小さな幻の文字は幻らしくすぐに目の前から消え去った。
すると今度は消えた文字の向こうに見慣れた細い背中が浮かび上がった。
紺色のスーツを着たパパは、ドアの向こうに立って青い空を見上げていた。
僕の目はもうすっかり乾いていた。
僕は彼が真っ白な指で茶色の髪をかき上げるのをはっきりと見た。
春の光の中に立つ彼の姿と、サラサラな髪をかき上げた白い指。そして、真っ青な空と遠くに見える小さな雲。
僕はその時見た光景を、ずっとずっと忘れないようにしようと思った。
僕たちの物語は本になって書店に並ぶまでは僕たち2人だけのものであり、それを完結させるかどうかは僕とパパが決める事だった。
物語がフィクションとなって世に出るまでは、いくらでも中身を書き換えられるのだ。
「パパ!」
ガラス戸を力いっぱい押して外へ出ると、彼が僕の声に反応してすぐに振り返った。
パパはどんな時でも目の輝きを失わない。冷徹な目が銃口のように自分に向けられると、僕はゾクゾクするほど興奮した。
彼の髪は春の風に揺られていた。パパは花壇の横に立って美しく咲き乱れる花たちに囲まれていた。
不ぞろいな前髪はすっかり伸びていて、心なしか以前より頬がほっそりしたように見えた。
僕はその時、5〜6歩前進すれば彼に手が届くところに立っていた。
今すぐ彼を抱き締めたい。今すぐ彼とキスをしたい。
その思いはすごく強かったのに、やつれた様子の彼を見ると突然熱い思いにブレーキがかかった。
僕はその時ふと思ったのだ。
僕と一緒にいても、パパは幸せになれないんじゃないだろうか。
若くて優しくて綺麗なパパには、本当はもっと別な未来があるんじゃないだろうか。
僕たちは男同士で、恋人同士で、同時に親子でもあった。
そんな2人の関係は、きっと誰にも理解されない。僕たちは一緒にいる限り一生孤独を共有して生きていかなければならないのだ。
それでも僕は、パパを抱き締めていいのだろうか。
好きだからという理由だけでその人を縛り付けるのは、自分のエゴではないのだろうか。
複雑な思いが胸に溢れて、足が鉛のように重くなった。
僕はこの時になって初めて彼のメッセージの深い意味を悟ったのだった。
僕はパパと初めて会った時の事を思い出した。
2年前にママが彼を連れて家へ帰ってきた時、パパはしばらくリビングへ足を踏み入れる事をためらっていた。
廊下とリビングの狭間に立って、冷たい目で僕を見つめていた彼。
近づきたいのに近づけない。
好きだからこそためらってしまう。
2年前より少し大人になった僕は、あの時の彼の気持ちをようやく理解していた。
パパの様子がおかしくなったのは、写真のせいでもなければ岡本のせいでもない。
これは僕たち2人の未来の問題だったのだ。
僕は自分に自信が持てず、人に愛される資格なんかないと思って生きてきた。
そんな僕がパパのような人に優しくされたら、必ずその手に堕ちる。彼にはきっとそれがよく分かっていた。
彼と僕との事は間違いなく出来レースだった。彼が一歩足を踏み出した時から、すでに僕たちは始まっていたのだ。
パパはあの時、最終的には自ら足を踏み出した。でもその反動が今の彼を苦しめている事は明らかだった。
僕がいくらパパを好きだと叫んでも、最近の彼はその言葉を真っ直ぐに受け取らなくなっていた。
僕にはパパを好きになるしか道がなかったから。そしてそう仕向けたのは彼本人だったから。
もしもパパとの事がなかったら、僕はいつか平凡な恋をしていたのかもしれない。
恋をした相手と堂々と手をつないで歩き、戸惑いがちにキスをして、ゆっくりと穏やかな愛を育てていく。
そうすれば、もっと楽に生きられたのかもしれない。
パパの愛は一種の押し付けであり、それに気付かない僕には彼以外の選択肢が与えられなかった。
僕にはもっと平凡な幸せがある。僕にはもっと平凡な未来がある。
それがパパの本当のメッセージだったのだ。そして彼は、この時初めて僕に他の選択肢を与えたのだ。
このままパパと別れたら、彼はきっと手の届かないところへ行ってしまう。
今すぐパパを抱き締めたら、彼は僕を愛し続けてくれる。
始めてしまったら、終わりまでいくしかない。
終わりまでいく自信がないのなら、始めるべきではない。
パパとは手をつないで外を歩くような事はできない。
ママ以外の誰かに僕たちが恋人同士である事を打ち明ける事もできない。
時々傷付けあったり、面倒に巻き込まれたり、お互いの愛を疑ったり。
それが永遠に繰り返されても、俺と一緒にいてくれるのか?
パパの冷徹な目は、その答えを今すぐ求めていた。