39.

 僕はパパを抱き締めるつもりで下りてきたのに、なかなか彼に歩み寄る事ができなかった。
僕はうかつな自分を反省していた。 パパはちゃんと僕に考える時間を与えてくれたのに、何も考えずに突っ走ってきた事をすごく後悔していた。
自分は今までパパをしっかり愛してあげていただろうか。その答えは、恐らくNOだった。
如何にしてパパに愛されるか。
僕は常にそればかりを考えていた。愛される事に夢中で、愛する事をすっかり忘れていた。
パパの幸せを真剣に考えたのはこの時が初めてだった。 パパは最初からずっと僕の幸せを考えていてくれたのに、僕には彼を思いやる気持ちが欠けていた。
パパは黙っていても抱き締めてくれたし、僕にすごく優しくしてくれた。
僕はいつの間にかパパに愛される事に慣れてしまい、それが全部当たり前の事だと錯覚するようになっていたのだった。
パパは何も言わなくても分かってくれる。
僕の心の中には常にそういう思いがあった。そしてパパが思った通りにしてくれないと急に不安になった。
家にいるはずだと思ったのに出かけていたり、抱いてほしいのにそうしてもらえなかったり。
そんな小さな事で心が揺れたのは、いつも愛される事ばかりを考えていたせいだった。
いつも求めてばかりで、甘えてばかりで、思い通りにならないと勝手に不安になる。僕がやってきた事は、ずっとそれの繰り返しだった。
如何にしてパパを愛するか。
本当に大事なのはその事だったのに、僕はいつも与えられるばかりで与える事をしようとしなかった。

 遠い所に見える雲が、ゆっくりゆっくり西の方へ移動していた。
花壇に咲く白や黄色の花たちは、太陽に向かって大きく花びらを広げていた。
僕がすぐに歩き出せないのは、いつもそうしてこなかったからだった。
黙ってここに立っていれば、そのうちパパの方から近づいて僕を抱き締めてくれる。 意識の奥深くに刷り込まれたそんな思いが、常に僕の足を止めさせていた。
ここで勇気を出さないと、パパとは本当に終わってしまう。 それは重々承知していたのに、鉛のように重い足は簡単には動いてくれなかった。
パパは冷徹な目で僕を見つめ、根気強く答えを待っていた。
少しやつれてしまっても、彼は十分に美しかった。
決して輝きを失わない目と、白い肌と、人目を引くスタイル。僕はそのすべてにドキドキしていた。
いったいどうすればパパを幸せにしてあげられるのだろう。僕がいったい彼に何をしてあげられるというのだろう。
いくら必死に考えても、僕にはその答えがさっぱり分からなかった。 だいたい今頃になって急に考えても、最初からまともな答えが出るはずなどなかったのだ。


 「こんにちは。今日はいいお天気ですね」
心臓の動きがやけに激しくなった時、すぐそばでそんな声がした。
その声の主は同じマンションに住む30代ぐらいの女の人だった。
彼女は買い物帰りのようで、両手に白いレジ袋をぶら下げていた。 何も知らない彼女はそう言って微笑み、僕たち2人の間をさっと通り抜けていったのだった。
僕はゆっくりと玄関ホールへ消えていく彼女の背中を見送った。
彼女は僕よりずっと背が高くて骨太な印象だった。高価なジャージを着ている事から、その姿はスポーツ選手を思わせた。
その人はどことなくママに似ていた。その雰囲気や背格好は似ても似つかなかったのに、僕は何故だかそう思った。
僕がそう感じた原因は、実はもっと別なところにあったのだ。
彼女が僕たちの間を通り過ぎると、春の風に乗って甘酸っぱい香りが漂ってきた。
僕はその香りをずっと前から知っていた。それはママが時々使っている香水の香りだった。
スッと息を吸ってママの匂いを嗅ぐと、気持ちが落ち着いてほんの一時だけ冷静になれた。
離れていてもママは僕の事を応援してくれている。
ママを傷つけてまでパパを手に入れたのに、簡単に彼を諦めたりしてはいけない。
ママはきっと僕にそれを伝えるために風に乗ってやってきたのだった。

 「ちゃんとパパと話すのよ」
僕はふとママの言った言葉を思い出した。
その時僕はまだパパと何も話していなかったのだった。
僕がパパの事を本当に大好きだという事や、パパを幸せにしてあげたいと思っている事。
そして僕たちの関係を公にできなくても仕方がないと思っている事。 それとは逆に、岡本が僕らの事を書き立てても一向に動じないという事。
今こそ彼と話さなければならない。 これが最後のチャンスになるかもしれないから、とにかく思っている事を全部話さなければならない。
たとえうまく話せなくてもいい。とにかく僕は、今の気持ちを正直に彼に打ち明ければいいのだ。
それが分かると、始めの一歩をあっさりと踏み出す事ができた。
そこにいないはずのママが、僕の背中を強く押してくれたような気がしていた。
パパの目の前に立つと、彼の表情が少し和らいだ。遠慮がちに握ったパパの真っ白な手はとても温かかった。
ママの匂いは風に乗ってどこかへ消えてしまった。それはきっと、ここからは1人でがんばりなさいというママの意思表示だった。


 「僕は、どうしたらパパを幸せにしてあげられるんだろう」
そっと語り掛けると、パパは何も言わずに微笑んだ。不思議な事に、彼が微笑むと花壇に咲く花たちも風に揺られて一緒に微笑んだ。 できれば僕も笑いたかったけど、徐々に感情が高ぶるとそんな余裕は失われてしまった。
「僕、パパの事が好きなんだ。信じてくれないかもしれないけど、本当にパパが大好きなんだ。 でも僕にはよく分からない。どうしたらパパを幸せにしてあげられるのか、どんなに考えても分からないんだ。 パパは僕にどうしてほしい?僕はパパと違ってバカだから、ちゃんと言ってくれないと分からないんだよ」
もう泣きたくなんかなかったのに、ポロポロと涙が零れて冷たい頬に流れ落ちた。
パパの笑顔が涙で滲んだ。ちゃんと彼の目を見つめて話をしたかったのに、溢れ出す涙がすべての景色を歪ませていた。
すぐに涙を拭おうとしたけど、僕にはそれができなかった。 パパの温かい手が僕の両手をきつく握り締めていたから、どうしても涙を拭う事ができなかったのだ。
春の風が何度頬を撫でても、決してその涙が乾く事はなかった。 花壇に咲く花が僕を励ますように微笑んでも、僕の涙はちっとも止まらなかった。
「俺がどうしてほしいか、君は知ってるはずだよ。だって、手紙を読んでくれたんだろ?」
パパの掠れた声が、僕の耳をくすぐった。
僕はパパを抱き締めるつもりで下りてきた。でも本当にそうするべきかどうか迷っていた。
僕はパパの事が大好きだったし、できればずっと一緒にいたいと思っていた。ただ、それ以上に彼を傷つける事が怖かった。
ちょっとした事で気持ちがすれ違って彼を不安にさせたり、愛されたいという思いが先走って愛する事を忘れてしまったり。 僕はもうそんな事になって彼を傷つけるのが嫌だったのだ。
だけどそれとは別な思いが心の中に溢れ始めたのも事実だった。
ママはきっと相手が僕だったからパパを譲ってくれたのだ。だったらパパと別れてしまう事は、ママに対する裏切りだ。
僕はママを守ると決めたはずだ。だったらママを裏切ったりしてはいけない。 ママを裏切るような人間に、彼女を守れるはずはないのだから。
絶対にパパを離さない。自分以外の人間に決して彼を渡したりはしない。
僕はきっとパパを幸せにする。彼が死ぬ時には、僕と一緒にいて良かったと言わせてみせる。
その思いが心の中を占領した時、パパの手を振りほどいてすぐに彼を抱き締めた。
自転車に乗って道路を走る人の姿が横目に見えた。どこか遠くの方で、車のクラクションが鳴っていた。
近所の人が通りかかろうと、誰かに指をさされようと、もうそんな事はどうでもよかった。
パパは以前僕の強さを好きだと言ってくれた。 その時は彼の言う事がよく分からなかったけど、僕は自分が思っているよりずっとずっと強い人間だったのだ。


 やがてパパは僕の手を引いてゆっくりとマンションの玄関ホールへ向かった。
涙を拭いながら彼の後ろを歩き出した時、僕たちの物語がもう一度動き始めた。
エレベーターはガラス戸の向こうで僕らの帰りを待っていてくれた。2人でゆっくりと四角い箱へ乗り込むと、間もなくそのドアがスーッと閉じた。
パパは奥の壁に寄り掛かり、優しい目で僕を見つめていた。
体に軽い衝撃を感じてエレベーターが上昇し始めた時、彼の両手が僕の濡れた頬を包み込んだ。
高速エレベーターは一瞬にして2人を最上階へ連れて行ってくれる。それが分かっていたから、僕たちは急いで短いキスを交わした。
渇いた唇が触れ合うと、また僕の目にじわっと涙が浮かんだ。でもそれは決して悲しい涙ではなかった。
「泣いちゃダメだよ」
パパの掠れた声がエレベーターの壁に反射した。彼はその時優しい笑顔を見せていた。
彼の細い腕が強い力で僕を抱き締めた。温かい胸に顔を埋めると、すごく安心して肩の力が抜けていった。
「パパは僕の答えをちゃんと分かってた?」
僕は温かい胸にそう問い掛けた。ひどく湿った頬にはパパの心臓の音が伝わってきた。
「もちろん分かってたよ」
「本当?」
僕が聞き返すと、パパが一瞬口ごもった。
頬に伝わる心臓の音は、少しずつ少しずつ大きくなり始めていた。
「ちゃんと分かってた。分かってたけど…本当はすごく不安だったよ」
搾り出すようなその声が僕の耳をくすぐった。するとその時、エレベーターが静かに止まった。


 それから後の事は、あまりに興奮していたせいか所々の記憶が飛んでいる。
とにかく僕たちは2人で家に戻り、気付いた時には裸でベッドの上に乗っかっていた。
僕の洋服を脱がせたのはパパだったのか。パパの洋服を脱がせたのは僕だったのか。 よくよく考えて思い出そうとしても、そのあたりの事は記憶が曖昧だった。
窓の向こうはまだ十分に明るく、パパの肌は太陽に透けていて、彼の腕に抱かれると心が浄化されて真っ白になれそうな気がした。
ウォーターベッドの上は居心地がよかった。背中に感じる水の弾力が、僕をすごくいい気分にさせてくれた。
ベッドの上で仰向けになるとパパの唇によって口を塞がれ、舌を食いちぎられそうなほど何度も強く噛まれた。
きつく目を閉じると、興奮が高まって意識がすぐに遠いところへ飛んでいった。
頭の中が空っぽになり、全身が痺れて寒くもないのに体がブルブルと震えた。
パパの髪が僕の頬をくすぐった。彼の指は僕の肌の上を緩やかに滑っていった。
彼の唇が僕の口を離れ、ツンと先の尖った温かい舌が首筋にわずかに触れた。
「あーっ!」
体が大きく痙攣して熱いものが皮膚の下を駆け抜け、その衝撃で思わず声を上げてしまった。
僕はたったそれだけで限界を感じた。 体の1番敏感な部分はまだ野放しだったのに、彼の愛撫がそこへ辿り着く前にいってしまいそうな気がした。
両腕を強く押さえつけられ、パパの全体重が体の上に圧し掛かると、僕は身動き1つできなくなった。
パパの舌はゆっくりと移動を始めた。
円を描くように胸のあたりを舐められ、その中心部を強く吸われた。 その時、軽い痛みと激しい快感が全身を突き抜けた。
「あ…あぁ…!」
その余韻が消えないうちに今度は乳首の先を舌で突かれ、僕はまた大きな声を上げてしまった。
心臓がドックン、ドックン、と脈を刻み、全身に大量の汗をかいた。
「パパ、お願い。入れて」
僕は彼が欲しくてたまらなかった。
早く2人でベッドを揺らしたかった。パパの肉片を体の奥に感じて、温かい体液を僕の中へ注入してほしかった。
強く押さえつけられていた両腕が解放され、彼の体が一時僕から離れた。でもほっとしている時間は1秒たりともなかった。
パパが強引に僕の両足を掴んで大きく開かせ、あっと思った瞬間に尻が軽く持ち上げられた。
すると硬い肉片が遠慮なく体に入り込み、それは僕の中で上下左右に激しく動き回った。
「あぁ…!」
ベッドが小刻みに揺れ動き、自分の意思に関係なくまた大きな声が出てしまった。
腰に伝わる圧迫感と、全身を駆け抜ける快感。
そのすべてをどうしようもなく受け止めると、ますます意識が遠のいて気絶してしまいそうになった。
枕もシーツも僕の汗を吸ってびっしょり濡れていた。 体の痙攣は止まらなかったし、全身を包み込む激しい快感もとどまるところを知らなかった。

 「雅巳くん、いっちゃったんだね」
パパはきっと僕が射精する瞬間を見届けてそう言ったのだろう。
でも僕にはいつその瞬間がきたのかまったく分からなかった。 ずっとずっと絶頂が続いていたから、本当にいったのかどうかさえよく分からなかったのだ。
パパはそれだけ僕をかわいがってくれて、それだけいい気持ちにさせてくれたのだった。
「あぁ…俺もいきそうだ」
呻くようなパパの声が僕の脳を刺激した。パパの荒々しい息遣いが、両の耳に小さく響いた。
早くパパをいい気持ちにさせてあげたかった。 僕は十分いい思いをさせてもらったから、彼にもそれ以上の快感を味わわせてあげたかった。
2人でベッドを揺らして、2人でいい思いをしたかった。 どちらか片方だけがいい思いをするのなら、それはマスターベーションと変わらないのだから。
「早く出して」
僕は震える両手でパパの尻を引き寄せた。
ベッドの揺れが突然止まったのは、まさにその瞬間の事だった。
パパの肉片が体の奥でピクピクと痙攣を始めた。彼の吐き出した温かい体液が、中に入りきらずに少しだけ外へ漏れ出した。
彼はこの一瞬に幸せを感じてくれただろうか。だとしたら、僕もすごく幸せだった。