41.

 翌週の金曜日は学校で避難訓練があり、その後すぐに全校生徒が解散した。 その日はいつもより1時間以上も早く放課後がやってきたのだった。
若葉のバイトが始まるまでしばらく時間があったから、僕たちは少し寄り道をする事にした。
寄り道といってもそれほどたいしたものではなく、校舎の裏手にある店でたこ焼きを買ってそれを一緒に食べる事にしたのだ。
ちょうど近くにサイクリングロードがあったから、たこ焼きを買った後はすぐにそこへ向かった。
サイクリングロードの両側に芝生が敷き詰められているのを知り、僕たちはそこへ腰掛けてアツアツのたこ焼きを頬張ったのだった。

 「8つ入ってるから、4つずつね」
若葉は僕の隣に座り、たこ焼きの入った箱を開けて機嫌よさそうにそう言った。
空は曇っていたけど、外の空気は温かかった。1つたこ焼きを頬張ると、あまりの熱さに口の中を火傷しそうになった。
「おいしい」
若葉はすぐに1つを食べてしまい、白い歯を見せてにっこりと微笑んだ。
僕は彼の歯に青のりが付いている事に気付き、すぐにそれを指摘した。 すると彼は頬を真っ赤にして小さな手鏡を取り出し、鏡に自分の歯を映し出してそれを取り除こうとしていた。
「唇の端にソースが付いてるよ」
別な指摘をすると、若葉の中指がゴシゴシと小さな唇を擦った。僕の言葉にすぐに反応する彼は、すごくかわいらしく見えた。
「若葉、お父さんと話した?」
不意にそう尋ねた時、若葉は黙って俯いた。
彼は右手で青々とした芝生を引きちぎり、そうする事で何かの感情を抑えているようだった。

 パパは2度と若葉の事を口にしなかった。
本当は彼の事が気になっているくせに、僕の前ではまったく気にしていないかのように振舞っていた。
僕のパパは世界で1番美しく、世界で1番かわいいのだ。
何も知らない子供のような若葉に対抗意識を持つなんて、そんなのあまりに素敵すぎる。
「滝沢くんは、お父さんとよく似てるね。血が繋がっていなくても、一緒にいると似てくるものなのかな?」
若葉は顔を上げずにそう言った。
たしか前にも誰かに似たような事を言われたような気がしていた。でもそれが誰だったのかすぐには思い出せなかった。
「滝沢くんは綺麗だよ。お父さんも綺麗だけど、それよりもっと綺麗だよ」
彼は顔の火照りを隠さずにそう続けた。若葉は尚も芝生を引きちぎっていた。
いきなりそんな事を言われて、僕はすごく驚いていた。
サイクリングロードを1台の自転車が走っていった。僕は漠然とその姿を追いかけた。 黒い自転車を操る人影は、あっという間に遠くへ行ってしまった。
僕はやっと思い出した。僕とパパがよく似てると言ったのは岡本だ。 彼は若葉と同じように僕の事を綺麗だと言った。
岡本にあれこれ言われた時は何も感じなかったのに、素直な彼にそう言われると心臓がドキドキしてきた。
僕はその時になってやっと自分の美しさに気付き始めていたのだった。
僕のパパは誰よりも綺麗で誰よりも素敵な人だった。なのに若葉はそのパパよりも僕の方が綺麗だと言った。 彼のそんな一言が、僕の心を揺さぶっていた。
僕は急いで2つ目のたこ焼きを頬張り、気持ちを落ち着かせるためにムシャムシャとそれを噛み砕いた。
若葉のちぎった芝生のかけらが、風に乗って足元にパラパラと舞い落ちてきた。口の中にはたこ焼きの甘じょっぱい味が広がっていた。
右手の指で自分の顔をなぞってみても、1つ1つのパーツが綺麗なのかどうかよく分からなかった。


 やがて僕たちは帰りのバスに乗り込んだ。若葉のバイトの時間が迫ってきたから、必然的にそうしたのだ。
いつものバスは珍しく混み合っていた。その日は早めに解散したから、のんびり帰る生徒たちと一緒になってしまったのだ。
車内を見回しても空いている座席は目に付かなかった。そして僕たちはつり革に掴まってバスに揺られる事にした。
「滝沢くん!」
いきなり誰かに呼ばれたのは、がっちりとつり革を掴んだ時の事だった。
乗客の大半は同じ学校の生徒たちで、車内には学ランの群れがいくつも存在していた。
キョロキョロと周りを見つめてその声の主を探すと、後方の座席に座って僕を手招きしている人と目が合った。
銀縁メガネをかけた茶色い髪の少年。その人は、同じクラスの神埼信也だった。 僕は神崎とはほとんど話した事がなかったから、彼の行動はちょっと意外だった。
「滝沢くん、こっちだよ!」
神崎はそう叫んで再び僕を手招きした。その声があまりにも大きかったので、僕は一時すべての乗客から注目されてしまった。
その時若葉は少し複雑な表情を見せていた。僕はあまり深くは考えず、彼を伴って神埼に近づいた。
「今帰りなの?ここに座ってよ」
バスの揺れにフラつきながら神崎のそばへ行くと、僕はその隣に座るように勧められた。
神崎は2人掛けの座席に1人で腰掛け、隣に大きなかばんを置いていた。 彼は僕らが行くとそのかばんをサッとよけ、空いたスペースをトントン、と叩いてそこへ座れと僕に合図したのだ。
「若葉、座れよ」
僕はそう言って若葉を神崎の隣へ座らせた。すると一瞬あたりの空気が険悪になった。
神崎はムスッとしていたし、若葉は笑顔を失っていた。空の方も不機嫌になりつつあり、窓の向こうには黒い雨雲が見えた。

 「いつもこのバスで帰るの?」
神崎は気を取り直した様子でニコニコしながらそんな質問を投げ掛けてきた。なんだかよく分からなかったけど、彼は僕に好意的だった。
「うん。いつもこのバスだよ」
「本当?じゃあ俺も同じバスで帰るようにしようかな」
そんなふうに言われても、何と答えていいのか分からなかった。
神崎はその後も無邪気にいろいろな言葉を僕に投げ掛けてきた。鼻の頭をポリポリと掻くのは、どうやら彼の癖のようだった。
彼と話している間は、視線の隅に常に若葉の姿があった。
若葉は椅子に深く腰掛けてずっとおもしろくなさそうな顔をしていた。 彼が唇を尖らせている様子は、ちゃんと視界に入っていたのだ。
神崎は若葉の存在を完全に無視していた。そして若葉も決して僕たちの会話に加わろうとはしなかった。
周りにいる生徒たちは皆楽しそうに談笑しているのに、僕たち3人だけは微妙な空気に包まれていた。


 若葉は明らかに怒っていた。いつもの停留所でバスを降りた後、彼はバイバイも言わずに走り去ってしまったのだ。
僕はそんな状況に戸惑いを覚え、彼を追いかけてその訳を聞こうとした。 なのに一緒に降りた神崎に腕を掴まれ、若葉を追う事ができなくなってしまった。
バスを降りた人たちは、四方八方へと散らばっていった。 そこは大きな繁華街だったので、電車の駅へ向かう人や遊びに出かける人が大勢いたのだ。
バスの中で談笑していた学ランの群れは、ほとんど全員がスクランブル交差点を渡っていった。 ファッションビルの前では女子高生がたむろし、デパートの入口には待ち合わせをしている様子の人たちがたくさんいた。
若葉の小さな背中は、人ごみに混じってあっという間に見えなくなってしまった。
「滝沢くん、これから俺と遊びに行こうよ」
若葉を見失った時、神埼が不意に弾むような声でそう言った。彼はまだ僕の腕をしっかりと掴んでいた。
交差点の青信号が点滅を始めた時、僕はやっとすべてを理解していた。

 神崎はずっとニコニコしながら僕を見つめていた。若葉など鼻にもかけないといった様子で、ずっとずっと僕だけを見つめていた。
彼は僕と同じぐらいの身長があり、体つきはわりとがっちりしていた。 とても健康的で、どちらかというと男っぽいタイプの人だ。
そしてメガネの奥に覗く目にはわずかに艶っぽさがあった。その目が僕を求めている事は、すぐに分かった。
僕は頭上に浮かぶ雨雲を見つめた。 右手の指で自分の顔をなぞってみても、1つ1つのパーツが綺麗なのかどうかよく分からなかった。
でももう指で何かをたしかめる必要などなかったのだ。僕を見つめる彼の目が、はっきりとした答えをくれたから。
「日に日に綺麗になっていく君を見ていると、不安で不安でたまらなかった」
僕はパパの言葉をやっと本当の意味で理解したのだった。
パパは僕の気持ちが若葉に傾くのを心配したというよりは、若葉の気持ちが僕へ向く事に不安を感じていたのだ。
結果として、もしもそうなった時に僕の心が揺れ動く事を心配していたのだ。

 少しずつ綺麗になっていく僕には、きっとこれからもっとたくさんの人たちが近づいてくる。
僕はもう暗い目をして俯いていた頃の僕ではないから。
僕はもうパパが安心して愛する事のできる僕ではなくなってしまったから。