10.

 10月に入って最初の火曜日。
この日僕は担任の教師からプリントを整理する手伝いを頼まれ、放課後たった1人で教室に残っていた。
昼頃から降り続いていた雨はその頃すでに止んでいて、気まぐれな秋の空には太陽が輝いていた。
たった1人席に着いてプリントを折り続ける僕の頬は教室の窓から斜めに入り込む秋の日差しに照らされていた。
黒板の真ん中には誰かが消し忘れた落書きがわずかに残されていた。 その小さな絵は半分以上が黒板消しで消されていて、それがいったい何を描いたものなのかは識別する事が難しくなっていた。
山のようなプリントをすべて二つ折りにした後、僕はそれを3枚ずつ重ねてホチキスで留めていった。 すると明るい教室の中にパチン、パチン、という音が小さく響き渡った。
遠くの方から歌声が聞こえてくるのは、恐らく合唱部が練習をしているためだった。
10月から学校の制服が冬服に変わり、この時僕は当然のように真っ黒な学ランの上下を身に着けていた。
黒い色は太陽の熱を吸収しやすいようで、秋の日差しを浴び続けていると体が少しずつポカポカしてきた。
僕は何も考えずにひたすら単純作業を続け、遠く聞こえる歌声に合わせて足でリズムをとっていた。


 僕がその作業を終えて校舎を出たのは午後4時半頃の事だった。
その頃帰宅部の人たちはほとんど家路に着いていた。でも校庭では100名近くいる野球部員たちが守備練習を重ねていた。
空には太陽が輝いていたけど、さっきまで降っていた雨のせいで校庭の所々に水たまりができていた。
白いユニフォーム姿の野球部員たちを横目に歩くと、やがて正面に灰色の校門が見えてきた。 そして校門を出ると、同じく灰色のアスファルトがすぐ目に入った。
Y 高校は自宅から離れた郊外に位置しているため、周りには山と緑しかなかった。
校門から帰りのバス亭へ続く通学路が舗装されたのはつい最近の事で、それまでそこは砂利道だった。
いつもは校門を出ると緑の匂いがするのに、この時僕は雨に濡れるアスファルトの匂いを鼻に感じていた。
アスファルトの道はだいぶ乾いていたけど、僕の行く手にはまだ時々水たまりが残されていた。
通学路には僕以外に誰も歩いていなかった。 僕はこの時買ったばかりの黒いスニーカーをはいていて、それを濡らさないように水たまりをすべて迂回して歩いていた。
僕の左側には校庭を囲むフェンスが続き、その向こうには白いボールを追いかける野球部員たちの声が響いていた。
しかしそのフェンスが途絶えると、道の両側に見えるのは50センチぐらいの高さの雑草の群れだけになった。
たまに車が通りかかると、そのタイヤはバシャッと音を立てて水たまりの水を跳ね飛ばした。 僕はそのたびに跳ね飛ばされた水を浴びないよう最善の注意を計って歩き続けていた。
3〜4時間降り続いた雨が外の空気を浄化し、雑草の緑がいつもより色鮮やかに見えた。
見上げた空は綺麗な水色だった。でも広い空のあちこちにまだ少し灰色の雲が残されていた。

 ズボンのポケットには、相変わらず携帯電話が入っていた。でもここ数日それが震え出すような事はほとんどなかった。
僕は電話で長話をするのがあまり好きではなかった。友達や両親から電話がきても、用件が済んだらさっさと電話を切る方だ。
そのせいか、好んで僕に電話をしてくる友達はほとんどいなかった。僕は退屈な人間のお喋りの相手には最も不向きだったのだろう。
彼が僕のそんな性質を知っていたかどうかは分からないけど、退院してからこの時までつかさから電話がくるような事はまったくなかった。
下を向いて水たまりを避けながら歩いて行くと、時々低空飛行する赤とんぼの姿が目に入った。 この季節になると郊外ではいつも赤とんぼが飛び交うようだった。
校門を出てから帰りのバス停までは歩いて15分ほどの道のりで、僕はその間に何十匹もの赤とんぼとめぐり会った。

 僕が道の上で突然立ち止まったのは、バス停まであと5分で着くという時の事だった。
その時何故立ち止まったのかというと、道幅いっぱいに広がる大きな水たまりが僕の行く手を阻んだせいだった。
その水たまりは本当に巨大だった。それを飛び越える事は不可能に思えたし、かといって迂回する事もできそうになかった。
僕は水たまりの手前で立ち止まって買ったばかりの黒いスニーカーを見つめ、思わず唇を噛んだ。
水たまりを越えなければバス停へ辿り着く事はできない。だけど水の中をバシャバシャ歩いて靴を濡らすのも嫌だった。
どうしよう……
僕はそう思ってふと水たまりの鏡に映る自分を見下ろした。そこには暗い表情をした学ラン姿の少年がはっきりと映し出されていた。
水性の鏡に映る少年の目はうつろで、何かに耐えるようにぐっと唇を噛み締めていて、更に随分と顔色が悪く見えた。
僕はいったいいつからこんなひどい顔をしていたんだろう……
でも、その答えは明白だった。
僕はつかさと会えない日が増え続けるのと共にだんだん気分が落ち込んでいった。
彼が僕に連絡してこない理由を考え始めるとますます落ち込むから、最近ではもう何も考えないように心掛けていた。
でもやっぱり気持ちは顔に出るものらしい。行く手を阻む水たまりは、僕の感情を映し出す鏡のようだった。
うつろな目をした少年と向き合うと、今まで心の隅に押し込んできた思いが急に爆発しそうになった。 それは怒りによく似た感情だった。

 誰でもいいわけじゃない。
つかさは薄い月明かりの下で僕にそう言った。
誰でもいいわけじゃないという事は、僕じゃないとダメだっていう事だ。
僕はそう思ったからこそ彼に触れる決心をしたのだった。 つかさが僕に好意を持っているという意思表示をしてくれたからこそそんな決心をする事ができたんだ。
でもつかさが口にした言葉は真実ではなかったのかもしれない。
彼が本当に僕に対して好意を抱いているのなら、とっくに連絡してきてもいいはずだった。なのに、現実はそうじゃなかった。
つかさはただ自分の性欲を発散させるための道具として僕を利用しただけなのかもしれない。 両手が不自由だった彼は、自分の手の代わりに僕の手を使っただけなのかもしれない。
自分の思いがそこへ行き着くと、例えようのないほど大きな空しさを感じた。
自分が世界中で1番バカに思えた。彼の策略に乗ってしまった自分の愚かさに無性に腹が立った。
悔しくて、悲しくて、瞼の奥から突然熱いものが込み上げてきた。水たまりに映る自分の姿が、わずかに滲んで見えた。
ずっと堪え続けてきた涙の雫が、今まさに頬に零れ落ちようとしていた。

 僕は思い切り声を上げて泣いてしまいたいと思った。 今までずっと我慢してきたけど、誰もいない道の上で気の済むまで涙を流し続けたいと思った。 そうすれば、少しはスッキリするような気がしたからだ。
なのに僕は、結局ギリギリのところでぐっと涙を堪えた。それは僕の背後に近づく誰かの足音が耳に入ったせいだった。
いくらなんでも人前でポロポロと涙を流す勇気はなかった。僕は一瞬ここが通学路である事を忘れていた。 ここは1人きりになれる自分の部屋とは違うのだから、見知らぬ誰かが通りかかってもしかたのない事だった。
僕の背後に近づく人は、バシャバシャと音を立てて水たまりを踏んづけながら歩いているようだった。
その人は随分と急いでいるらしく、水を蹴る足音はすごくリズムが早かった。
この調子ならきっと足音の主は目の前に広がる巨大な水たまりの中をためらわずに通り過ぎていく事だろう。
そう思った僕は、背後に近づく人が僕を追い抜くまではなんとか涙を堪え続けようと思っていた。
バシャバシャバシャ……
豪快に水を蹴る足音が徐々に近づいてきた。
目の前の大きな水たまりに映るのは、涙を堪えて奥歯を噛む少年とゆっくり空を流れていく灰色の雲だけだった。
僕が泣いてしまったら、流れ行く雲は水たまりに映る僕の泣き顔を覆い隠してくれるだろうか。
僕はぼんやりとそんな事を考えながら尚も水たまりに映る泣き出しそうな少年の姿を見つめていた。


 ところが、例のバシャバシャ水を蹴る足音は僕の横へきてピタリと止まった。
すると信じられない事に、水たまりに映る僕の横に突然目のつり上がった男の姿が映し出された。
その人は満月に似て丸顔だった。水たまりに映る彼は明らかにつかさだった。でもそこに映っている人は僕の知っているつかさとは違っていた。
僕の知っているつかさは髪がボサボサで、両腕を真っ白なギプスに包まれ、いつもパジャマを着くずしていた。
ところが水たまりに映る彼の真っ直ぐな髪は外側に跳ねる事もなく綺麗にまとまっていた。 そして両腕はベージュのトレーナーの長い袖に包まれていた。
つかさは左手に黒い傘を持っていた。そして右手を自由に操った。
水たまりに映る彼が大きな右手で頭をかくと、とても不思議なものを見ているような気分になった。 それはきっと彼の手が動くところを初めて見たからだった。

 やがて水たまりの中で僕とつかさの視線がぶつかり合った。その時通学路には張り詰めた空気が流れていた。
つかさは僕を睨み付けながらふっくらした唇を上下左右に動かして腹立たしげにこう言った。
「お前、どうして電話に出ないんだよ」
心外だった。 僕は彼からの電話を待ち続けてずっとずっと携帯電話を手放さなかったのに、そんな事を言われるなんてまったく不本意だった。
「電話、鳴らないもん」
僕はズボンのポケットの上から携帯電話を触ってそう答えた。その時もちろん携帯電話は震えていなかった。
「俺、お前に何度も電話したんだぞ」
「嘘だ!」
僕たちはお互いに譲らず、水たまりの中でじっと睨み合った。
つかさのつり上がった目は最初に会った時と同じでコワモテな印象を僕に与えた。
「お前の番号……」
彼は水たまりの中の僕を睨み付けながら僕の携帯電話の番号をゆっくりと暗唱した。でも、その末尾は明らかに間違っていた。
「最後、ロクじゃなくてゼロだよ」
「はぁ?」
水たまりに映るつかさは困惑した表情を見せた。彼は眉間に深くシワを刻み、ふっくらした唇をツンと尖らせていた。
その時、空をゆっくり流れていく灰色の雲がまた水たまりに映し出された。
「お前、自分の電話番号ぐらいちゃんと書けよ」
「ちゃんと書いたよ!」
困惑した表情の彼と怒った表情の僕がもう一度水たまりの中で睨み合った。 しかし気まぐれな秋の空は一粒の雨の雫を水たまりに投下して僕らの姿をそこからあっという間に消してしまった。

 再び降り出した雨の雫がポツポツと降り注がれ、僕は黙って空を見上げた。見上げた空の半分は水色で、半分が灰色だった。 空に浮かぶ太陽はまだわずかな日差しを放っていた。
僕の頬に、冷たい雨の雫が一粒当たった。
「降ってきたな」
隣でつかさがそう言って、手に持っていた黒い傘をサッと開いた。 彼の手はもうすっかり良くなっていて、傘を開く仕草はとてもスムーズだった。
つかさと僕は久しぶりに正面から向き合った。 彼はしっかりと右手で開いた傘を持ち、それを前に押し出して僕を雨から守ってくれた。
傘の下でつかさと向き合うと、灰色の雲に囲まれた太陽の日差しがシャットアウトされ、僕らのいる場所だけが薄暗く感じた。
そのうち雨は本格的に降り始め、ザーッという音があたり一面に響いた。 そして僕らの頭上では雨の雫が傘に当たるポツポツという音が鳴り響いていた。
見上げたつかさの顔はちっとも滲んではいなかった。つかさのつり上がった目は鮮明に見えた。 頬に零れ落ちそうだった涙は、とっくに渇いて蒸発していた。
その時僕はようやく気付いたのだった。
秋の空は僕の代わりに涙を流して道幅いっぱいに広がる大きな水たまりを作ったんだ。
空が僕の代わりに泣いてくれたから、僕は泣かずに済んだんだ。

 目の前に立つつかさの姿を見つめると、僕は急にドキドキして何も言えなくなった。
僕にとっては、彼がわざわざ自分に会いに来てくれたという事実がすべてだった。
彼にはゆったりしたトレーナーと藍色のジーンズがすごくよく似合っていた。
真っ直ぐな髪は全体的に茶色く染まっていて、その根元には黒い部分などまったくなかった。
つかさは右手で傘を持ち、しばらくつり上がった目で僕をじっと見つめていた。
すぐ横を車が通り過ぎると、タイヤがバシャッと水たまりの水を跳ね飛ばして僕の足元にその雫が飛んできた。
「傘、持てよ」
つかさがまたふっくらした唇を動かして僕に短くそう言った。
僕には彼の言う事を聞く義務なんかこれっぽっちもなかったのに、僕はすんなりと彼の手から傘を受け取った。
その黒い傘を持って彼を雨から守っていると、つかさの右手が僕の左肩に掛かっていた青いリュックを奪い取った。
雨の勢いは更に強くなり、僕らは傘の下で雨のカーテンに包まれた。
僕のスニーカーはとうとう濡れてしまい、そのうち靴下にまで湿気を感じた。 足の指が少しずつ濡れていく感触は、ひどく不快なものだった。
でもその不快な気分を吹き飛ばしてくれたのは紛れもなくすぐそばにいる彼だった。
つかさは僕から奪い取ったリュックを背負い、目尻を垂れ下げて真ん丸な笑顔を見せたのだった。
「手が使えるようになった時、最初にしたのはお前に電話をかける事だったよ」
彼に笑顔でそう言われると、僕の心臓がまた大暴れを始めた。 でもドックン、ドックン、というノイズは本降りに近い雨の音にかき消されていた。
白い雨のカーテンは傘の下で向き合う僕たちを2人きりにしてくれた。
両手が自由になったつかさは、右手で僕の肩を抱いた。 その瞬間はすごく動揺して、真っ直ぐに持っていた傘の柄が少し斜めになってしまった。
肩に触れる彼の手はとても大きくて温かかった。つかさの手は、この先僕にどんな事をしてくれるのだろう…
「学ランを着てるお前は、ちょっと新鮮だったよ」
僕の耳元で彼がそう囁いた。
強く降り出した雨はアスファルトを叩きつけ、その雫が跳ねて僕の足元を更に濡らした。
買ったばかりのスニーカーは雨水を吸ってどんどん重くなっていった。でももうそんな事はどうでもよかった。
大勢の赤とんぼたちは、すでにどこかへ姿を消していた。

 彼の右手が、遠慮がちに僕を抱き寄せた。つかさは僕を促して濡れたアスファルトの上を歩き出そうとした。
僕たちの足並みは揃っていた。つかさと一緒なら大きな水たまりの中をバシャバシャ歩く事も平気だった。
僕はこの時空が流した涙の水たまりを彼と2人で乗り越えたのだった。
道の両側に陣取っている雑草の濡れは、雨に叩きつけられて大きく揺れ動いていた。
秋の冷たい雨の中を歩いているのに、一瞬頬に夏の風を感じた。
それはきっと肩に触れるつかさの右手が僕の心を温めてくれたからだった。