9.
僕の通うY 高校で新学期が始まったのは退院してから2日後の事だった。
僕は夏休みが明けてからしばらくは放課後いつもつかさのお見舞いに行く事を考えた。
でも結局それを実行に移さないままあっという間に10日という日々が流れてしまった。
僕の退院が決まった事を彼に告げた時、つかさは自分もあと2〜3日で退院できそうだと言っていた。
その事をちゃんと覚えていた僕は、その頃もう彼がすでに退院してしまった事を悟っていた。
僕がすんなりと彼を見舞う事ができなかったのは、あの夜の記憶が邪魔をしていたせいだった。
つかさの熱いものを擦り続けた右手が、彼の精液でびっしょり濡れてしまった時の事。
そして、彼の柔らかい舌が僕を興奮の絶頂へ導いてくれた時の事。
あの夜暗い病室で起こった事を少しでも思い出すと、僕はいつも頬が熱くなった。
恥ずかしがり屋な僕は、あんな事があった後で何もなかったかのように彼を見舞う勇気を持ち合わせてはいなかったんだ。
結果的に僕は2人の再会をつかさに委ねた形になった。
僕は退院する日の朝、眠っているつかさの病室へ行ってちゃんと自分の足跡を残してきた。
あの日青いティッシュの箱に書き残した携帯電話の番号。
つかさはそれが僕に繋がる窓口である事にきっと気付いてくれる。僕はそう信じていた。
自分から行動を起こせない僕は、彼の方から自分に連絡してくる事を期待していたのだった。
僕は彼からの電話を待ち続けた。
授業中にズボンのポケットの中で携帯電話が震えると、ノートに文字を書く手を休めてすぐ自分に電話してきた相手が誰なのかを確かめた。
学校へ行く時も、学校から帰る時も、家でお風呂に入る時も、寝る前も寝た後も、そして朝目が覚める瞬間も、僕はとにかくつかさがいつ電話してきてもいいように肌身離さず携帯電話を手元に置いていた。
しかし退院してから3週間が過ぎても彼が僕に電話をしてくる事は一度もなかった。
あと1週間ほどで9月が終わるという時。その頃もう夏の暑さは陰を潜め、夜はだいぶ涼しくなっていた。
僕はある夜パジャマに着替えてふと自分の部屋から窓の外を見つめた。
見上げた藍色の空には真ん丸な月が浮かんでいた。
雲に囲まれる月をぼんやり見つめていると、嫌でもつかさの事を思い出した。
夜空に浮かぶ満月と瞼の奥に浮かぶつかさの笑顔が、どうしても重なって見えた。
彼と初めて会った日に突然唇を奪われた時の事。
エレベーターの中でキスしよう、と言われた時の事。
そして……奇妙なあの夜の事。
つかさの笑顔に似た真ん丸な月を見つめていると、だんだんそのすべてが幻のように思えてきた。
薄い唇を突き破って僕の歯に当たった柔らかい舌の感触。
キスしよう、と言った彼の声。
僕の知っているつかさの記憶は、日が経つにつれてあの日の月明かりのように薄くなっていった。
自室の壁に目をやると、そこには様々な原色で彩られたアニメ映画のポスターが貼ってあった。
そして長年使っている学習机の上には真っ赤な色の鉛筆立てが置いてあった。
僕にとってはそのすべてが見慣れたものになっていた。そして僕は真っ白だった病室の風景を忘れかけていた。
ため息をついてもう一度窓の外に目をやると、見上げた空に浮かぶ満月が雲の陰に消え入ろうとしていた。
僕は白く丸い月が少しずつ雲に覆われて空の彼方へ消えていく様子を見届けた。
一旦消えてしまった月は、この夜もう二度と雲の陰から顔を出す事がなかった。