12.
「焼肉食べに行こう」
ある日の夕方、つかさが車のハンドルを握りながら突然そう言った。
彼はいつものように放課後学校まで迎えに来てくれて、この時僕らはドライブの真っ最中だった。
秋が深まるにつれてどんどん日が短くなっていた。
午後5時を過ぎると外は少しずつ暗くなり始め、国道を走る車の半数以上がすでにライトを点灯していた。
「俺、ずっと焼肉が食べたかったんだ。入院中も退院後も野菜ばかり食ってたからさぁ……」
つかさは退院した後すぐに1人暮らしをするアパートへ戻ったようだった。
両手が使えない間は、田舎のお母さんが出てきて彼の世話をしていたらしい。
そのお母さんはきっと彼に野菜中心の食事をさせていたのだろう。
国道はいつも車が多くて渋滞していた。
僕は助手席に座って焼肉に思いを馳せるつかさの横顔を見つめていた。
夜になる前の空の明るさが、かろうじて彼の姿を薄く照らしていた。
つかさはゆっくりと車を走らせながら前方に見えてくる信号や標識を目で追っているようだった。
国道沿いに並ぶ飲食店は明るい光を放ち、点滅するネオンがつかさの白い頬に反射していた。
彼は紺色のトレーナーの袖を肘のあたりまで捲り上げていた。
そこから覗く腕が意外に細くて、僕は少し驚いていた。
「お前と行きたい店があるんだ。あと30分ぐらいで着くから」
つかさは一瞬だけ僕に目を向けてそう言った。
焼肉を食べられるのが嬉しいのか、彼はその時目尻を垂れ下げて機嫌よさそうに微笑んでいた。
でも僕には少し気がかりな事があった。
つかさは現在無職だった。
それでも1人暮らしをするアパートの家賃は発生するだろうし、しかも彼は新しい車を購入したばかりだった。
つまり、つかさはとても経済的に余裕があるとは思えないのだった。
それなのに彼にお金を使わせるのはなんとなく気が引けた。焼肉に限らず、彼は僕に1円もお金を出させないような人だったから。
「ねぇ、今日はワリカンにしよう」
僕は恐る恐る彼にそんな申し出をした。つかさが怒り出す事はなんとなく分かっていたけど、僕の気持ちとしてはどうしてもそう言わざるを得なかった。
しかし彼は案の定つり上がった目で僕を睨み付け、突然不機嫌になってこう切り返したのだった。
「金の話はするな。俺はお前の前ではかっこつけていたいんだよ」
そんなふうに言われると、僕は何も言い返せなくなった。
僕のちっぽけな気遣いが彼のプライドを傷つけるのならそんな事は避けたかったし、つかさにこんなふうに言われるのが嫌いではなかったから。
「でも、お前のそういう所かわいいと思うよ」
つかさが不機嫌そうな目をしたのはほんの一瞬だけだった。
彼はまたすぐに笑顔を取り戻し、赤信号を見つけてゆっくりとブレーキを踏んだ。
それから30分後。僕らは国道から離れた静かな道沿いにある焼肉屋ののれんをくぐっていた。
店の中へ入ると、おいしそうな香りが僕の鼻をついた。店内には微かに白い煙が漂っていた。
そこは縦に長い造りで、僕らは何十メートルも続くカウンター席の真ん中あたりに案内された。
細い通路を店の奥に向かって歩いて行くと、右側には黄ばんだ壁があり、左側には木の戸が何枚も並んでいた。
そこは少し変わった店だった。
木のカウンターの手前には2人がけ用の硬そうなソファーが置いてあり、その左右には厚い壁があって両隣の席とは完全に遮断されていた。
僕らがソファーに並んで腰掛けると、つかさは席へ案内してくれたエプロン姿の男の人に適当なオーダーを告げた。
それが済むとソファーの後ろにある横開きの戸がガラガラと音を立てて閉じられ、僕とつかさは四角く狭いスペースで2人きりになった。
カウンターの向こうには窓があったけど、そこから見える物は薄闇に浮かぶ雑木林だけだった。
左右の壁はそれほど高くはなく、人の話し声がガヤガヤと僕の耳に響いていた。
カウンターには炭焼き用の丸い網が埋め込まれていて、そこに顔を近づけると熱気を感じた。
「ここ、変わった店だろ?」
つかさはカウンターに両肘をついて、笑顔でそう言った。
目尻の垂れ下がったその笑顔はとてもかわいかった。でも細すぎる両腕は痛々しく感じた。
並んで腰掛ける僕たちの間にはほんの少しだけインターバルがあったけど、つかさは急に尻の位置をずらして僕とぴったりくっ付いた。
学ランの生地を通して彼と触れ合うと、僕は少しドキドキした。
窓の外に見える雑木林の向こうを、黄色いライトを点けた1台の車が走りすぎていった。
「この店は人目を気にせずガツガツ食えるように工夫されてるんだよ。だから女同士の客が多いみたいだな」
たしかに店内にガヤガヤと響く声は女の人の声が多いように思えた。でもこの時はつかさの声が耳のすぐそばに大きく響いていた。
つかさはやけにご機嫌で、いつもの真ん丸な笑顔が妙に華やいで見えた。
彼の笑顔がすぐ近くに見えて、僕はますますドキドキした。
「ここではこんな事もできるんだぜ」
つかさはそう言い終わるか終わらないかのうちに右手で僕の肩を抱いた。その瞬間はあまりにも驚いて息が止まりそうになった。
僕は体が凍り付いて身動きが取れなかったし、何も言う事ができなかった。
つかさの尖った鼻が、僕の顔にどんどん近づいてきた。
彼のふっくらした唇が、あと1ミリで僕の薄い唇に重なろうとしていた。
唇よりも先に、茶色く染まったつかさの髪がわずかに頬に触れた。
「失礼します。ご注文の品をお持ちしました」
閉じられた背後の戸の向こうからその声が聞こえてきたのは僕らが唇を重ね合う寸前の事だった。
それは僕らを席へ案内してくれた男の人の声に間違いなかった。僕はすでに口許につかさの息を感じていた。
その声が響いた瞬間、僕らはパッと離れて背後の戸が開くのを待った。
僕のドキドキは頂点に達していて、掌にはじわっと汗が滲んでいた。
「ごゆっくりどうぞー」
エプロン姿の男の人はカウンターの上につかさのオーダーした食材を次々と並べ、その言葉を残して再び去っていった。
背後の戸がその人の手によってもう一度閉じられると、僕はつかさがさっきの続きを始めるかと思ってビクビクしていた。
しかし彼は僕とのキスよりも焼肉の方をより多く欲していたようだった。
「和雪、肉焼いて」
50センチほど離れて隣に座るつかさが、淡々とした口調でそう言った。
窓の外はいつの間にか真っ暗になっていて、雑木林の姿を肉眼で確認する事はもう難しくなっていた。
僕はつかさの顔を直視する事ができず、代わりに皿の上に並んだ生肉を見つめ、割り箸でその肉をつまんでどんどん熱い網の上に乗せていった。
そこかしこから楽しげな女の人たちの笑い声が聞こえてくるのに、僕らの席だけはしばらく静まり返っていた。
肉の焼けるジューッという音が微かに僕とつかさの間をさまよっていた。頭上でカタカタと鳴っているのは、どうやら換気扇のようだった。
網の上に乗せた肉を何度かひっくり返すと、白い煙が上がってそのすべてがおいしそうに焼けてきた。
溢れ出す肉汁が網の下へ次々と零れ落ち、その様子はすごく食欲をそそった。
つかさは僕の顔を覗き込み、急に甘えた声を出して僕にある事をねだった。
「ねぇ、肉を食べさせて」
彼にそう言われ、僕は割り箸を手に持ったまま久しぶりにつかさの顔を見た。
彼はその時もちろん機嫌よさそうに微笑んでいた。
つかさはふっくらした唇を軽く開いて今すぐにでもよく焼けた肉をその隙間へ放り込んで欲しそうにしていた。
でも僕は心の中がくすぐったくて、とてもそんな事をしてあげる余裕などなかった。
寸前で止まったキスの余韻が僕の心をかき乱していた。ただでさえ体中が熱いのに、炭焼き用の網は僕の頬を更に熱くしていた。
「ちゃんと手が使えるんだから、自分で食べなよ!」
僕は冷たく彼にそう言い放ち、網の上で焼けている肉を一切れ割り箸の先でつまんだ。
とにかくその時はゆっくり食事をする時間を取って未遂に終わったキスの余韻を忘れたかったんだ。
ところが肉をつまんだ割り箸を自分の口許へ近づけた時、突然つかさの手が僕の右手首をがっちり掴んでその動きを止めさせた。
それはあっという間の出来事だった。
つかさは僕の手首を掴んだ瞬間に割り箸の先にぶら下がっていた肉へ唇を寄せ、あっさりとそれを自分の口の中に入れてしまったのだった。
一瞬何が起こったのか分からず呆気に取られていると、つかさがクチャクチャとその肉を噛んでゴクリと飲み込んだ。
彼の喉ぼとけが躍動するのを見た時、僕の心臓が大きく高鳴った。
「手が使えるようになったら、こんな事もできるんだぜ」
つかさは少し垂れ下がった目で僕を見つめ、白い歯を覗かせて勝ち誇ったかのように微笑んだ。
すると僕は無性に腹が立ってきて、網の上で焼けている別な肉を箸で掴み取ると急いでそれを噛み締めた。
僕はいつも彼のペースに乗せられてしまう自分が許せなかった。
「つかさは、手が使えない時の方がよかったよ」
溢れ出す肉汁を口の中で味わいながら彼を睨み付けてそう言うと、つかさは真剣な目をして僕を見つめ返した。
ついさっきまで垂れ下がっていたその目はきつくつり上がっていて……その目に見つめられると、僕は閉口した。
つかさはやっとギプスが取れて両手が自由に使えるようになったのに、僕は彼にひどい事を言ってしまった。
そんな反省の弁が頭の中に浮かんだ時、彼は何を思ったのか自分の両手首を揃えて僕の目の前に差し出した。
「俺の手に手錠がかけられてるの、ちゃんと見えるか?」
「……え?」
つかさに真剣な目をしてそう言われ、僕は差し出された彼の両手首を凝視した。でももちろんそこには手錠も何も見えなかった。
「俺にはちゃんと見えてるんだ。この手に手錠をかけたのはお前だよ。お前がそばにいない時も、俺はずっと和雪に縛られてるんだよ」
つかさの目があまりにも真剣なので、僕は本当に言葉を失っていた。
吸い込まれるように彼の目を見つめていると、しだいにその表情が和らいでいった。
つかさはスッと両手を引っ込め、右手で僕の髪をくしゃっと乱した。
「だから、早く肉を食べさせて」
やがてつかさがいつもの真ん丸な笑顔を見せた。
僕はその瞬間に割り箸をカウンターの上に置いて立ち上がった。
ドックン、ドックン、と自分の心臓の音が大きく耳にこだまし、ガヤガヤ響いていた女の人たちの笑い声が遠く感じた。
彼の手が触れた髪には、しっかりとその余韻が残されていた。
僕は両手をカウンターの上についてフラつく体をなんとか支えた。
「……トイレに行ってくる」
僕はもうその場にいる事が耐えられなかった。とにかく心が乱れて、胸が苦しくて、どうしても今すぐ席を離れたかった。
「トイレでオナニーするなよ」
僕がスッと立ち上がってソファーの後ろの戸を開けようとすると、彼のおどけた声が背中に降り注がれた。
僕は何も答えず、振り向きもせず、すぐにガラガラと戸を開けて彼と2人きりの空間を抜け出した。
つかさとの空間を回避してバタンと閉めた戸に寄り掛かると、黄ばんだ壁と目が合った。
頭の上では換気扇が休む事なくカタカタと音を立てていた。
僕は新鮮な酸素を欲して大きく深呼吸をした。でも肺の中へ入ってきたのは白く煙った焼肉屋の空気だけだった。
忙しく動き回るエプロン姿の従業員たちが僕の目の前を次々と通り過ぎていった。
僕はつかさと一緒にいるとすごく楽しかった。でも時々どうしようもなく彼から逃げ出したくなる事があった。
手錠をかけられているのは、きっと僕の方だったんだ。
時々無性に手錠を外して駆け出したくなるのに、その鍵はいつもつかさが握っていた。そして僕は結局彼から逃げ出せずにいるのだった。