14.

 「次はどこ行くんだよ」
「薬局」
「コンドームでも買うのか?」
「包丁で指を切ったら困るから、カットバンを買いたいんだよ」
10月半ば。火曜日。
この日の夕方、僕はつかさを伴って大型スーパーへ出かけた。
翌日は年に一度の課外授業が予定されていた。
Y 高校の伝統的な課外授業とは2クラスずつに分かれて福祉施設などを訪問し、ちょっとした余興を行ったりして施設の人たちと触れ合うというものだった。
僕は同じクラスの何人かと一緒にそこでたこ焼きを振る舞う事になっていて、今日はその材料を買い出しにきたのだった。
夕方のスーパーは随分と混み合っていた。
食料品売り場には夕食の材料を買いにきたような主婦がたくさんいたし、本屋や雑貨屋には学生らしき人たちが群がっていた。
そんな中、僕は様々なテナントが並ぶ広い通路を買い物リストを片手に歩いていた。
そして荷物持ちのつかさは両手に大きなレジ袋を持っていそいそと僕の後ろをついてきた。
妙に明るい通路を歩いて行くと、時々そばを通りかかる小さな子供とぶつかりそうになった。

 一通り買い物が済むと、僕たちはスーパーを出てだだっ広い駐車場へ向かった。 買い物客の数に比例して、スーパーの駐車場には車が何列にも並んでいた。
空にはまだ明るさが残っていた。
つかさの車は駐車場の1番奥の端に停めてあった。外へ出ると、彼は重い荷物を両手に抱えて颯爽と僕の前を歩いていった。 そして今度は僕の方が彼の後ろをついていった。
その途中、彼と同じように大きな荷物を持って歩く男の人をたくさん見かけた。 彼らは大抵妻らしき人を連れて買い物へ来ていた様子だったけど、妻の方は手ぶらだったり赤ん坊を抱いていたりする事が多かった。
「俺、お前と結婚したらこうして毎日荷物を持たされるのかな……」
つかさはその人たちの姿を見つめ、後ろを振り返る事もせずにボソッとそうつぶやいた。
その言葉は、また僕の心をくすぐった。
夕日色のセーターに包まれた彼の背中は、とても大きくて頼りになりそうだった。

 紺色のRV 車の横へ辿り着くと、つかさはすぐに後部座席のドアを開けてレジ袋に入った重い荷物をシートの上にそっと置いた。
半分開けたドアの隙間から外の風が車内に入り込み、レジ袋がその風を受けて少しだけカサカサと音を立てた。
荷物持ちから解放されたつかさは、ドアを閉めた後僕に真ん丸な笑顔を向けた。
「荷物を運んだご褒美にキスして」
僕はこんな時いつも戸惑ってしまう。
つかさは時々僕にキスを仕掛けたけど、それが冗談なのか本気なのか僕にはよく分からなかった。
この時僕は駐車場を囲むフェンスを背にしていた。反射的に後ずさりすると、あっという間に足がフェンスにぶつかった。
すぐそばでガチャガチャと金属の触れ合う音がするのは、彼の手の中でクマのキーホルダーと車のキーがぶつかり合っているせいだった。 つかさはクマのキーホルダーを無造作にジーンズのポケットへ突っ込み、すぐにその音を消し去った。
つかさの両手が僕の頬を包み込んだ。彼の肩越しに、セーラー服姿の女の子が2人見えた。
「離して。人がいるよ」
僕は少し焦って彼の両手首を掴んだ。
僕は本気で彼の手を跳ね除けようとした。本当に、渾身の力を込めてその手を突き飛ばそうとしたんだ。
でもそれはうまくいかなかった。つかさは僕が抵抗してもビクともしなかった。
彼の顔から笑みが消えていた。つり上がった目で真っ直ぐに見つめられると、すごく動揺して心臓が高鳴った。
「ちょっとだけ。1秒でいいから」
「ダ、ダメ。まだ明るいし……」
僕はとっさにそんな言葉を口にしていた。
もう何をどうしたらいいのか分からなくて、とにかくその場の状況を回避するだけで精一杯だったんだ。
僕とつかさはすごく近いところで見つめ合っていた。
つかさの両手が僕の頬を優しく撫でた。すると彼の手首を掴んでいた僕の手から徐々に力が抜けていった。
彼が目尻を垂れ下げて微笑むと、僕は少しほっとした。
つかさは僕の額にコツンと自分の額をぶつけ、笑顔を絶やさずに小さくこう囁いた。
「じゃあ、暗くなったらキスしよう」
彼と触れ合う頬と額がすごく熱くなった。
10月の冷たい風が僕と彼の髪を揺らした。つかさの前髪が、わずかに僕の額を撫でた。
彼が僕を離れると、高まる緊張感から一瞬にして解放された。
見上げた空に残る明るさは随分少なくなっていた。
この空が真っ暗になったら、僕はいったいどうなってしまうんだろう。


 彼の車に乗り込んでスーパーの駐車場を出た後、つかさは突然思い立ったように星を見に行こう、と僕に言った。
しばらく幹線道路を走っていくと、外はあっという間に暗くなった。
対向車のライトが眩しかった。外の風は強くて、街路樹の枝が大きく揺れていた。
飲食店のネオンはいつも通りに明るく光っていた。夜空に浮かぶ遠い星は、ネオンの光に呑み込まれているようだった。
両手でハンドルを握るつかさは、しばらくたわいのない話を続けていた。
近所の野良猫が子供を生んだとか、昨夜見たドラマはつまらなかったとか。それは本当に単なる世間話に過ぎなかった。
僕が夜の景色を見つめてドキドキしている時も、つかさはいつも自然体だった。

 郊外へ続く細い道へ入ると、急にあたりが暗くなった。
外灯のないその道を照らすのは僕らが乗っている車のライトだけになった。
その道を走り続けていくと、どんどん星が近くなってくるのを感じた。 そこにはもう星の光を呑み込む明るいネオンなどまったく存在していなかった。
僕は助手席側の窓の方へ顔を向け、手の届きそうなほど近くにある満天の星を黙ってじっと見上げていた。
土の道を長々と走り続けると、タイヤが小石を蹴る音が時々聞こえてきた。
僕は宝石を散りばめたような美しい星空に吸い込まれそうになっていた。
藍色の空に、いくつもの白い点が浮かんでいた。それは誰かが描いたものではなく、本当に自然の美しさだった。
気まぐれに星が煌くと、僕は必ずその光に目を向けた。
数え切れないほどたくさんの星たちが、ずっとずっと僕らを追いかけてきた。
このまま走り続けたら、星空へ辿り着く事ができるんじゃないだろうか。
この日の無数の星たちは、僕にそんな幻想を抱かせるほど素敵に見えた。
「和雪」
ある時、つかさが小さく僕の名前を読んだ。
僕はその声に反応してすぐにつかさの顔を見つめた。
暗い夜道を照らす車のライトの幻影が、彼の姿をかろうじて薄く照らしていた。
僕はタイヤが小石を蹴る音を聞きながらつかさが何か言うのを待っていた。 でも彼のふっくらした唇はきつく結ばれたまま動き出す気配がなかった。
「ねぇ、何?」
待ちきれずに僕がそう問い掛けると、つかさは前を見つめたまま口許を緩めてわずかに微笑んだ。
「こっちを向いてほしかっただけだよ」
彼はそう言ってゆっくりと左手をハンドルから放した。その手はやがて、僕の右手をしっかりと握った。
指と指を絡ませてつかさと手をつなぐと、また少し頬が熱くなった。
夜の闇が火照った頬を包み隠してくれた事は、僕にとって幸運だった。

 細く暗い道をひたすら走り続けると、ある時突然視界が広くなった。
風に揺れる雑草を踏み潰して車が真っ直ぐに進むと、やがてライトに照らされる前方に海の白い波しぶきがぼんやりと浮かんだ。
「海が見えたよ」
「そうだな」
僕たちは同じ海を見つめて短い会話を交わした。
僕がつかさの手を強く握ると、彼もそれに応えるかのように手に力を込めた。
「結構車が来てるな」
つかさは車を減速してキョロキョロとあたりを見回しながらそう言った。たしかに砂浜の手前には10台ほどの車が並んでいた。
彼が車のライトを消すと一瞬目の前の波しぶきが消えた。でもライトのない暗闇に目が慣れると、また白い波しぶきが目前に復活した。
海の波を高くする強い風の音が時々耳に響いた。わずかな砂が風に飛ばされて、フロントガラスを叩きつけた。
僕はこの時暗闇にドキドキしていた。
暗くなったらキスしよう、と言ったつかさの声が、僕の耳にまだはっきりと残されていたからだ。
「星が綺麗だよ」
つかさは運転席のシートに座り直し、子供のように微笑んでそう言った。
暗闇に慣れた僕の目には、彼の真っ直ぐな髪やふっくらした唇がはっきりと見えた。 僕はその唇が動いて何かを語るたびにドキドキしていた。
耳を澄ますと、波の音が微かに聞こえた。窓の向こうには、今にも降り出しそうな無数の星が存在していた。
外は風が強くて寒そうだったので、僕もつかさもあえて車を降りようとはしなかった。
もしも夜空の星が降ってきたら、今すぐ彼と2人でその欠片を集めにいくのに。
「来年の夏は、海に泳ぎに来ような」
つかさは右手をハンドルに掛けて身を乗り出し、フロントガラス越しに満天の星を見上げた。 やがてその右手は指と指を絡ませ合ってつなぐ僕らの手の上にそっと重ねられた。
綺麗な星を見つめるその時、つかさはにっこりと微笑んでいた。
かわいい。
彼の垂れ下がった目とふっくらした唇を見つめた時、僕はそう思っていた。
つかさは星を見に行こうと言ったのに、僕はもう彼にばかり目を奪われていた。

 彼と2人きりの静かな時間は刻々と過ぎていった。
僕は満点の星空の下でつかさとキスをするのかと思っていた。しかし外が暗闇に包まれても僕らの間には何も起こらなかった。
「暗くなったらキスしよう」
つかさはきっと、自分がそう言った過去などもう忘れていたんだ。
いつもこうだった。
僕の気持ちはまだ数時間前をさまよっているのに、つかさはいつも僕を置き去りにしてどんどん先へ進んでいってしまうんだ。
来年の夏の事なんか、僕には到底考えられなかった。僕はただ目の前に迫る1分1秒にドキドキしていた。