15.

 今日は年に一度の課外授業の日だった。
僕のクラスは事情があって両親と暮らす事のできない子供たちを受け入れている児童施設を訪れていた。
そこには2歳から6歳ぐらいまでの子供たちが40人ほど預けられているようだった。
子供たちは誰もが無邪気で人懐っこかった。

 午後2時頃。僕はクラスメイトの青木と一緒に施設の大広間で休憩していた。
僕たちは子供たちにたこ焼きを振る舞ってからその後片付けをしてやっと一息ついたところだった。
大広間には青畳が敷き詰められていて、横に長いテーブルが4列に並べられていた。
窓の外から日の光が入り込み、畳の上にはテーブルの黒い影が浮かんでいた。
そこにはついさっきまで子供たちが勢揃いしていて、彼らはおいしそうにたこ焼きを頬張りながら学生たちとお喋りをしていた。
でも今この部屋に残っているのは僕と青木だけだった。
他の皆は子供たちと一緒に中庭へ出て鬼ごっこやかくれんぼなどをしているはずだった。 たこ焼きを作る係は他にも3人いたけど、彼らもすでに中庭へ出ていた。
空は秋晴れだった。窓を背負って畳の上に腰掛けると、秋の日差しが背中に当たってポカポカした。
今日は比較的気温が高いため、僕も青木も学ランの上着を脱いでワイシャツの袖を捲り上げていた。
大広間の白い壁には子供たちがクレヨンで描いた楽しそうな絵が並べて貼ってあった。
「疲れたなぁ……」
テーブルを挟んで向かい側に座っている青木は、ワイシャツの袖を下ろしながらつぶやくようにそう言った。
言葉通りに彼は少し疲れた顔をしていて、二重の目はうつろだったし、大きな口は半開きだった。
「でもまぁ、たこ焼きが失敗しなくて良かったよ」
「そうだね」
僕は力ない彼の声に頷いた。
この時僕の人差し指にはカットバンが巻かれていた。調理の最中に包丁で指を切ってしまったからだ。
でもそれは予想通りの出来事だった。

 青木は小さくあくびをしながら少し長めの黒い髪を両手でかき上げた。
その時僕は、彼の首の側面に小さな赤い斑点を見つけた。それがキスマークだという事は鈍感な僕にもすぐに分かった。
僕の視線が一点に集中している事を悟ると、青木は含み笑いをして両手の動きを突然止めた。
青木は彫りの深い端正な顔立ちをしていて、話をするのも上手だった。要するに彼は女の子にもてるタイプの人だった。
「昨日の放課後、女とホテルへ行ったんだよ」
彼は僕が聞きもしない事をあっさりと喋ってしまった。さっきまでうつろだった彼の目はすでに輝きを取り戻していた。
男同士が集まると1番盛り上がるのは女の子の話題と決まっていた。 青木はその事をちゃんと分かっていて、友達と話をする時にはいつも皆が喜びそうな話題を提供してくれるのだった。
彼には現在付き合っている彼女がいた。でも青木が "女" という言い方をする時、それは正式な彼女とは別な人の事を指していた。
「その女が結構積極的でさぁ……でも自分で洋服を脱いでくれるから楽だったな。 わりと美人だったし、胸も大きかったよ。 それはいいけど、何回も要求されてまいったぜ。でもやっぱり期待に応えなきゃ悪いだろ? そんなわけで、今日は寝不足なんだよ」
彼はまた1つあくびをして目を潤ませながらそう言った。
恐らくこの場に他のクラスメイトたちがいれば、皆が青木の話に食い付くところだった。
下世話な連中は青木がこういう話を始めるとその時の事を細かく知りたがって彼にあれこれ質問を浴びせるのだった。 そして彼は皆が知りたい事をいつもおもしろおかしく詳細に話して聞かせるのが常だった。
相手が自分にどんな事をしてくれたかとか、自分が相手に何をしたのかという事。
僕は誇らしげにそのような事実を語る青木をいつも割り切れない思いで見つめていた。

 僕は正直言ってそういう話が苦手だった。そして青木の話にはいつも嫌悪感を抱いていた。
彼は自分に近づく女の子には誰にでも愛想を振りまき、チャンスがあればいとも簡単にそのような行為を行うのだった。 でもだからといって青木が彼女たちに愛情を抱いている様子はなかった。
他人のする事にケチをつける気はまったくないけど、僕には日常的にそういう事を繰り返すその神経がちょっと理解できなかった。
青木は尚もその話を続けていた。
僕は彼の言う事に耳を傾けるフリをしながらそのすべてを聞き流していた。
ついさっきまで無邪気な子供たちが笑っていたこの部屋でそんな話は聞きたくなかった。
壁に貼られた絵にはピンク色のウサギや赤い花などが描かれていた。
青木の話を聞くよりも子供たちの絵を見ている方がずっと落ち着いた。遠くの方で子供たちの声がすると、僕は更に落ち着いた。
「カズは? お前は全然浮いた話がないのか?」
「え?」
青木に突然そう言われ、僕は彫りの深い彼の顔に視線を戻した。
彼が僕にそんな事を聞くのは珍しかった。
青木は頬杖をついて時々まばたきを繰り返しながら僕の返事を待っていた。青畳の香りがするその部屋に、一瞬静寂が走った。
その時僕の頭に浮かんだのはつかさの子供っぽい笑顔だった。
僕は少し動揺した。浮いた話はないのかと聞かれてつかさの顔を思い浮かべるなんて、その事実に自分が1番戸惑っていた。
「フフッ……」
僕が黙っていると、青木が急に肩を震わせて小さく笑い始めた。そして彼は僕の頭に右手を伸ばした。
「カズは俺と違ってウブだもんなぁ。お前は一生綺麗な体でいろよ」
青木の右手が子供にそうするかのように僕の頭を撫でた。
この時はなんだかすごく悔しかった。
僕の事なんか何も分かっていないくせに。僕にだって、ちゃんと秘密の思い出があるのに。
「僕だって……」
僕は一瞬、悔しさに負けて余計な事を口走ってしまいそうになった。
でもその時それを止めるかのように突然ズボンのポケットの中で携帯電話が震え始めた。
僕は一旦青木と話すのをやめ、携帯電話を取り出して明るく光る液晶画面を見つめた。 すると電話をしてきた相手がつかさだと分かり、すごくドキッとした。

 「もしもし」
僕は青木に背を向け、窓の外を見つめながら電話を繋いだ。
何も知らないつかさはすぐに元気そうな声で僕に語り掛けてきた。
「課外授業ってヤツは何時頃に終わる?現地解散なら、そっちへ迎えに行くぞ」
僕はつかさと繋がっている携帯電話を強く握り締めた。
彼の声を聞いた途端に体中に罪悪感が襲い掛かってきた。
一瞬でも彼との秘め事を誰かに話そうとした自分が恥ずかしかった。それはつかさに対する裏切りだという気がした。
窓の外には細い竹で作られた塀があり、その先端には赤とんぼが止まっていた。
僕はいつも赤とんぼに見守られながらつかさと2人で校門の前の道を歩いた。その時の事を思い出すと、すごく彼に会いたくなった。
「今、何してるの?」
「ずっとお前の事を考えてたよ」
電話口でそう言われると、少しだけ胸が苦しくなった。
この時僕は初めて分かった。
つかさの素直な言葉が僕の胸に響くのは、彼が僕だけを見つめていてくれるからだ。
彼にとって僕は大勢の中の1人ではなく、たった一晩一緒に過ごしただけの行きずりの人でもなかった。
誰でもいいわけじゃない。
好きな人じゃないと絶対に嫌だ。
2人だけの秘密の夜。あの夜彼がストレートにそう言ってくれなかったら、僕はきっとつかさに触れたりはしなかった。

 窓ガラスの向こうに、突然髪の長い女の子が現れた。
3歳ぐらいの彼女は絵の中のウサギのようにピンク色のセーターを着ていた。
小さな右手が、ガラス越しに僕を手招きした。
愛らしい大きな目が僕にそっと笑い掛け、彼女の小さな唇がゆっくり動いて遊ぼうよ、と僕に語り掛けた。
「早くお前に会いたいよ」
僕は胸に響くつかさの声を聞きながら窓の外のウサギに手を振った。
丸顔の彼女が更に微笑むと、一瞬つかさの笑顔と重なって見えた。
僕はすぐに外へ出て彼女と一緒に遊びたいと思った。
そしてこれから作る彼女との思い出をつかさとの思い出と同じようにずっと大切にしていきたいと思った。