16.

 すべてが心地よかった。
軽く体に響く揺れも、背もたれの角度も、鼻に感じるわずかなオレンジの香りも。
「和雪」
でも、もっと心地いいのは僕を呼ぶその声だった。
ゆっくり目を開けると、すぐに視界に入ってきたのはつかさの真ん丸な笑顔だった。
心地いい車の助手席でうたた寝し、目が覚めた瞬間にそのかわいい笑顔が見られるなんてちょっといい気分だった。
「もう着いたぞ」
僕は両腕を大きく伸ばし、あくびをしながら潤んだ目に映るフロントガラスの外の景色を見つめた。
すると 『ゆりかご保育園』 と書かれた黄色の看板が白い外灯の下に輝いていた。
もう家に着いたんだ。
黄色い看板を正面に見つめた時、僕はすぐにその事を悟っていた。
今日の僕は疲れていたらしい。
疲労の原因はきっと課外授業で慣れない調理をしたり子供たちと駆け回って遊んだりしたせいだ。
放課後つかさと一緒にハンバーガーを頬張って、その後の事はほとんど記憶に残っていなかった。
何故なら、お腹が膨れた後すぐ車に揺られてウトウトしてしまったからだ。

 目が覚めた時夜空はいつの間にか灰色の雲に覆われていて、明日は雨が降りそうな予感がした。
昼間はずっと天気がよかったのに、いったい雲はいつどこから姿を現したのだろう。
「送ってくれてありがとう。また明日ね」
僕はいつも愛用している青いリュックを肩に掛け、一応彼にそう言ってつかさの車を降りた。
でも本当はちゃんと分かっていた。
僕たちの本当の別れはもう少し先の事になる。つかさはいつも一緒に車を降りて僕を家の前まで送ってくれるからだ。
保育園の看板の横には長く続く灰色の階段があった。僕の家はそこを最後まで上りきった先にある。
つかさはその長い階段をいつも僕と一緒に上ってくれた。
外灯に照らされる階段の両脇にはコンクリートの壁があり、2人分の足音がそこに響いて僕の耳に跳ね返ってきた。
幅の広い階段を一段上るたびに彼との別れの時が近づいた。僕らの足音が耳に響くたびに、刻一刻と別れの時が近づいた。
この階段を上る時、僕たち2人はいつも無言だった。
足を踏み外さないように下を向いて歩くと、ジーンズに包まれたつかさの足が目に入った。
つかさは1メートルぐらい離れて僕の横にいた。彼はちゃんと僕の歩調に合わせてくれていた。
何十段も続く階段の半分ぐらいを上った後、僕はいつも足を進めるスピードが鈍った。
それはそろそろ足が疲れてくるからでもあり、つかさとの別れの時をできるだけ遅らせたいからでもあった。
でも、僕らの別れは毎晩必ず訪れた。

 乗り越えるべき階段があとわずかになると、その向こうに見慣れた街並みが浮かぶ。
僕の家の白い壁も、隣の家の薄い塀も、少しずつ少しずつ視界に入ってくる。
やがて最後まで階段を上りきると、僕は後ろを振り返った。
その時つかさはいつも1つ下の段に立っていた。
彼は僕よりだいぶ背が高くて、階段1つ分を僕の身長に足すとちょうど2人の目線が同じ高さになった。
「じゃあ、また明日ね」
僕は1日が終わる淋しさを感じながら彼にそう言った。するとつかさは真っ直ぐに僕を見つめてにっこり微笑んだ。
外灯の白い明かりは、彼のすべてを僕の目に映し出した。
垂れ下がった目と、尖った鼻。
ふっくらした唇と、その奥に見え隠れする白い歯。
茶色の真っ直ぐな髪と、紺色のジーンズと、薄い水色のトレーナー。
そして、時々悪さをする大きな手。
次に彼に会う時までそのすべてを忘れないように、僕はつかさの姿をはっきりと目に焼き付けた。
「もう行って。アパートに帰ったら電話してね」
僕がそう続けると、つかさは茶色の髪を揺らして大きく頷いた。
彼はいつも僕を心配して家まで送ってくれたけど、僕だって彼の事が心配だった。
また事故に遭ってつかさがケガをしたら……
そんな事を想像すると、夜も眠れなくなってしまいそうな気がした。 だから僕は毎晩つかさが無事にアパートへ戻った連絡を受けてから眠る事にしているのだった。
「ちゃんと後で電話するよ」
いつもならつかさはそう言って僕に背を向け、颯爽と階段を駆け下りていくところだった。
でも、今日の彼はなかなか僕に背を向けようとはしなかった。
「……どうしたの?」
突然吹き荒れた秋の風が、僕のその声をかき消した。

 それはほんの一瞬の出来事だった。まばたきするヒマもないぐらいの、本当に短い間の出来事だった。
つかさはふっくらした唇を僕の薄い唇に押し付け、それからすぐ僕に背を向けて階段を駆け下りた。
1人分の足音が、コンクリートの壁に響いて僕の耳に跳ね返ってきた。
つかさの背中はどんどん小さくなっていき、やがてスッと視界から消えた。
最初のキスの時はつかさの舌が歯に当たる感触がはっきりとあった。でも今夜のキスはあまりに急ぎすぎていて、何も感じる余裕がなかった。
ただ、さっきまで渇いていたはずの唇が少しだけ濡れていた。つかさの姿が見えなくなっても、彼はまだちゃんと僕のそばにいた。
何度も未遂に終わった2度目のキス。
その余韻は濡れた唇と熱くなった頬にしっかりと残されていた。