17.

 木曜日の放課後。冷たい雨に降られ、僕はびしょ濡れになって帰宅した。
今日は午後5時を過ぎると外が真っ暗になった。
雨水を吸い込んだ学ランはすごく重くなっていた。 靴下もびっしょり濡れていて、それをはいた足で家に上がるとピカピカな廊下の上にくっきりと足跡が付いてしまった。
帰宅した時家には誰もいなかった。
僕は湿った靴下をはいたまますぐに2階の自分の部屋へ行き、とにかく身に着けている物を全部脱ぎ捨てた。
午後になってから降り出した強い雨は更に脅威を増し、屋根を叩きつける大きな雨音が部屋中に響いていた。
学ランだけではなく、その下に着ていたワイシャツやトランクスさえもまるで洗濯した後のように濡れていた。
部屋の中は肌寒くて裸になると大きなクシャミが2度も出た。
僕はこのままでは風邪をひくと思い、慌ててすぐにジャージを着込んだ。するとその瞬間に近くでゴロゴロと雷が鳴った。
ジャージに着替えてからバスタオルで濡れた髪を拭いていると、またクシャミが2度出た。
そして僕はハンガーに吊るした学ランから床の上に水がポタポタ滴り落ちている事に気付いた。
僕は急いで髪を拭いたバスタオルを床の上に敷き、あまりにもツイていない今日という日を思ってため息をついた。


 それから僕はずっと学習机に向かって時を過ごしていた。
でも決して勉強していたわけではない。僕はただずっと机の上に乗せた携帯電話と睨めっこしていただけだった。
屋根を叩きつける雨音は長々と僕の耳に響いていた。そして机の上の携帯電話はピクリとも動かなかった。
今日僕は学校の授業が終わると急いで校舎を出て雨に打たれながら灰色の校門へ向かってダッシュした。
土の道にはすでにたくさんの水たまりができていた。僕は水たまりを蹴ってズボンの裾に泥はねを飛ばしながら本当に急いで走り続けた。
朝家を出る時はまだ雨が降っていなかったから、僕は傘を持たずに登校していた。
放課後になればつかさが車で迎えに来てくれるはずだから、僕には傘なんか必要ないと思っていた。
なのに、今日に限って彼は来なかった。
僕はつかさが来てくれると信じて30分間も雨に打たれながら校門の前で彼を待ち続けたのだった。
僕はその間に何度彼に電話をしたか分からない。
でもつかさの携帯電話には電源が入っていないらしく、結局一度も彼と話す事はできなかった。 そして当然のように彼の方から電話がかかってくる事もなかった。
舗装された道の上には休む事なく雨が叩きつけられ、僕はあっという間にずぶ濡れになった。
次々と校舎を出てバス停へ向かう生徒たちは皆傘を持って歩いていたのに、傘のない僕には自分を守る術がなかった。
道の向こう側に存在する雑草の群れが僕と同じようにずぶ濡れになっているのを見ると、生まれて初めて名もない雑草に親近感を抱いた。

 午後8時が過ぎた頃、階段の下でバタンと玄関のドアの開く音がした。僕はその音で母さんが仕事から帰ってきた事を悟っていた。
雨粒が何度屋根を叩きつけてもつかさから電話がくる事はなかった。
黒い携帯電話は蛍光灯の明かりに照らされ、机の上でただおとなしくしているだけだった。
回転椅子に座ってじっとしている僕は言い知れぬ不安に襲われていた。
下唇をそっと舐めると、嫌でも彼との2度目のキスの記憶が蘇ってきた。
僕は昨夜つかさと短いキスを交わした。最初のキスと違って、2度目のキスは僕の心を熱くした。
僕は彼とキスをした時、純粋にすごく嬉しかったんだ。
出会った頃のつかさは僕の心の中に土足で入り込んできた。その時は彼の強引さに抵抗を感じたし、少し戸惑ったりもした。
でもつかさは僕をかわいがってくれたし、すごく大事にしてくれた。
突然ファーストキスを奪われた時はたしかにショックだったけど、彼は2度目のキスをするまでに長い時間をかけた。
つかさはきっと、僕の気持ちが彼に傾くのを待っていてくれたんだと思う。
だからこそ僕は今とてつもなく大きな不安を感じていた。
つかさは僕の気持ちが自分に傾いたのを知った時、逆に僕へ対する思いが冷めてしまったのではないだろうか。
僕はこの時プレイボーイの青木がよく口にしていた言葉を何度も何度も思い返していた。
「くどいてる時が1番楽しい。でも相手が振り返ると急に冷めちゃうんだよな」
まさかつかさがそんなふうに考える人だとは思いたくなかった。でも現に彼は僕が振り向いた途端に連絡を絶っていた。
屋根を叩きつける雨音が僕の不安を増大させていた。
今日の夜空は、もしかして僕の代わりに涙を流しているのではないだろうか。

 机に向かって真っ暗な気持ちになっていると、やがて僕の部屋のドアがコンコン、と小さくノックされた。 そしてそのドアは外側からスーッと開いた。
「和雪、ご飯は食べたの?」
ドアの向こうから顔を出したのは母さんだった。 彼女はすでに化粧を落としていて、その顔はやけにシンプルだった。
化粧を取ると少し小さく見える母さんの目が僕を優しく見つめていた。
彼女は紺色のフワッとした上品なワンピースを着ていた。それが今朝から身に着けていたものだという事はすぐに分かった。
仕事から帰った母さんがまだ着替えていないのは、僕と違って雨に打たれたりしなかったからだ。
母さんの長い髪が乾いているのは、傘がちゃんと彼女を守ってくれたからだ。
「お寿司をもらってきたんだけど、ママと一緒に食べない?」
僕は回転椅子を少し動かし、愛想笑いを見せる母さんをじっと眺めていた。
母さんは何故突然僕に優しくしたりするのだろう。
普段は僕の事なんか眼中にないくせに。
僕が入院した時でさえ、ろくにお見舞いにも来なかったくせに。
「ねぇ、下で一緒に食べましょう。とってもおいしいお店のお寿司なのよ」
僕は机の上で両手の拳を握った。
僕が感じた母さんへの思いは一時の負の感情であって、そんなものはすぐに消えていくはずだった。 僕はそれを重々承知していたのに、気付くとひどく冷たい言葉が口から飛び出していた。
「うるさいな。気まぐれに優しくしたりなんかしないでよ」
すると当然のように母さんの顔から愛想笑いが消えた。屋根を叩きつける雨音は、まったく休まずに続いていた。
母さんは何も言わずにドアを閉めて階段を下りていった。
その足音はとても悲しげだった。彼女はいつも力強く小気味いい音を立てて歩くのに、その時だけは足音のリズムがバラバラだった。
瞼の奥には上品なワンピースを着た母さんの幻影が焼き付いて離れなかった。
また1人になった僕は、頬杖をついて唇を噛み締めた。俯くと、じっと動かずに僕を見つめる黒い携帯電話と目が合った。
僕は母さんにひどい事を言ってしまった。 いつも忙しい母さんが気を遣って声を掛けてくれたのに、ひどい言葉を口にして母さんを追い返してしまった。
それはきっと、つかさが電話をくれなくてイライラしてるから。
彼を失ってしまいそうで、どうしようもなく不安だから。

 僕は自己嫌悪に陥り、もう一度大きくため息をついた。
するとその途端に目の前の携帯電話がブルブルと震え始めた。
その振動は頬杖をつく両腕にまではっきりと伝わってきた。僕の黒い携帯電話は早く出て、と叫んでいるかのように机の上で暴れまわっていた。
震える携帯電話を開いて耳に当てると、すぐそばでリアルな雨音が響いた。 その時僕は電話の相手が外からかけてきている事をすぐに悟った。
「和雪、ごめん。ずっと電話できなくてごめん」
つかさの声が大きな雨音と共に耳に響いた。彼はたった一言で僕の不安を吹き飛ばしてくれた。
僕はそっと目を閉じてつかさの声に集中した。
「実は俺、今日から仕事を始めたんだ。それが結構忙しくてさ、なかなかお前に電話する時間が取れなかったんだよ。 これからはもう学校まで迎えに行ってやれなくなるけど、今度の日曜日は1日中一緒にいよう」
「……うん」
僕はそれしか言えなかった。
本当は彼にいっぱい言いたい事があったのに、他には何も言えなかった。
今日はつかさに会えなくて淋しかったよ。
本当はそんな言葉を彼にぶつけてみたかったけど、心の中のそのつぶやきは声に出さない独り言として処理した。
つかさの声を聞いただけで、僕の心はすっかり温まっていた。
きっと、彼に会う事はそれほど重要ではなかった。
ただ彼に愛される事だけが重要だった。

 電話を切ってつかさの声が耳から遠ざかっても、もう淋しいなんて思わなかった。
さっきまで僕を不安にさせていた屋根を叩きつける雨音が今はとても心地よいリズムに聞こえた。
落ち込んでいた自分の存在を闇に葬り、そっと目を開けるとさっきとは違う自分がそこにいる事に気付いた。
蛍光灯の明かりが眩しくて目に沁みた。
机の上に置いてある真っ赤な鉛筆立てを見つめて僕が思った事。
それは今すぐ母さんと一緒に大好物の寿司を頬張りたいという事だった。
ただ彼女に負い目を感じていた僕はすぐに階段を駆け下りる事ができなかった。 でもそれを諦めて眠ってしまったら、後ですごく後悔するような気がしていた。
右手で握る携帯電話は少し温かくなっていた。それはきっとつかさが僕の心を温めてくれたからだった。
僕の体温が小さな携帯電話に伝わるのなら、その温もりはきっと母さんにも伝わるはずだ。
僕はそう思ってすぐに母さんへ電話をした。
同じ屋根の下にいるのに携帯電話同士で話すのは少し変かもしれないけど、それでも僕は彼女に電話をした。

 「……和雪?」
耳に響く母さんの声はか細くて、屋根を叩きつける雨音にかき消されてしまいそうだった。
僕と母さんは少し離れた場所で同じ雨音を聞いていたに違いなかった。
「母さん、寿司はまだ残ってる?」
僕はもう一度目を閉じてできるだけ優しく母さんに語り掛けた。
心の中では何度もごめんね、と叫んでいたけど、僕にはそう言うのが精一杯だった。
「あんたの好きなマグロのお寿司がいっぱいあるわよ」
少し間が開いた後、母さんが明るい声で僕にそう言った。
屋根を叩きつける雨音はまだ部屋の中に響いていたけど、僕の心は晴れ晴れとしていた。
つかさの優しさは僕の心を温め、その温もりは母さんにまでちゃんと伝わった。