19.

 つかさに合鍵をもらって以来、僕の暮らしは劇的に変化していた。
学校の授業が終わると、まずは校舎を出てバス亭へ向かう人の波に混じる。 そしてバス亭へ辿り着くと、最初にやってきたバスに乗り込んで終点のバスターミナルまで行く。
今までならそこから別なバスに乗り換えて家へ帰るはずだったけど、最近はいつもバスではなく電車に乗り換えて真っ直ぐにつかさのアパートへ向かった。
僕はこうしてほとんど毎日つかさに会いに行っていた。彼には内緒だけど、そのために電車の回数券も購入していた。


 電車に乗って3つ目の駅で降りると、つかさのアパートへはそこから歩いて5分ほどで辿り着く事ができる。
駅を出るとすぐ目の前に真っ直ぐ続く細い道が見えて、その通り沿いには小さな店が軒を連ねていた。
八百屋の店先には真っ赤なトマトが並び、駄菓子屋の前には小さな子供たちがたむろしていた。
たくさんの人で賑わうその通りを歩くと、いつもどこからか揚げ物のいい香りが漂ってきた。
その香りはいつも僕の胃を刺激した。何故だか急に空腹を感じて、時々ググーッとお腹が鳴る事もあった。
不思議なもので、そんな時に空を見上げると白い雲が必ず食べ物の形に見えた。
商店街を通り抜けて水色のアパートが見えてくると、僕はいつも無意識にズボンのポケットへ手を入れてそこからつかさの部屋の鍵を取り出した。
アパートの錆付いた階段を上って彼の部屋の前に立ち、合鍵を使って玄関のドアを開ける瞬間はすごく幸せだった。

 夕方1人でつかさの部屋へ行くと、いろいろな事が分かってとてもおもしろかった。
例えば今日は、いつも片付いているはずのその部屋が随分乱れていた。
床の上には脱ぎ捨てたパジャマや下着が転がっていたし、テーブルの上にはパンくずの乗った皿と中にコーヒーの残ったマグカップが置き去りにされていた。
その様子を見ると、彼が今朝寝坊をしたという事がすぐに分かった。
「しょうがないなぁ」
僕はこんな時、独り言をつぶやきながらのんびりと彼の部屋を片付けた。
まずは脱ぎ捨てられた衣類を拾い集め、それをまとめて洗濯機の中へ放り込む。
それが済むと、今度はテーブルの上に残った食器をキッチンへ持っていってサッと洗う。
僕はこういう事をしている時がすごく楽しかった。
なんとなく新婚気分で、食器洗いをする時には思わず鼻歌を歌っていた。

 それから後はつかさを待つだけの退屈な時間がやってくる。
温かい床の上に腰掛けて窓の向こうを見つめると、さっきまで明るかった空がすでに夜になる準備を始めているのが分かった。
秋が深まるにつれて少しずつ日が短くなっていった。
水色だった空がそのうち青に変わり、今度はそれが紺色になり、やがて空は真っ黒になる。
月曜日より火曜日。火曜日より水曜日。そして水曜日よりも木曜日の方が空の色の変わり始める時間が早かった。
今日この部屋へ来た時には秋の日差しに照らされて床が白く光っていたのに、その光はあっという間に失われていった。
彼は空が真っ黒になるまで決して帰ってこない。だったら早く空が真っ黒になってくれればいい。
僕は最初のうちはそう思っていた。
でもつかさが帰宅するのは午後7時半頃と決まっていて、空の色がどうであれ時計の針が早く進むわけではなかった。
僕はいつも早々と窓を厚いカーテンで覆って部屋に明かりを点けた。空が紺色に変わる前にはいつもそうすると決めていた。
つかさが万が一早めに帰ってきても、窓に明かりが点いていればそれだけで僕が来ている事を彼に知らせる事ができるからだ。
部屋全体が蛍光灯の明かりで照らされると、その後はソファーに寝そべってぼんやりとテレビを見つめ、僕はただひたすらつかさを待ち続けた。
そのうち瞼が重くなり、テレビの画像が時々視界から消えた。
そんな時、僕はいつも睡魔に身を任せた。
もうこの際だからつかさがそばにいない時はずっと眠っていたいと思った。 でも自分が起きている間はずっと彼と一緒にいたいと思っていた。
やがてテレビの音が耳から遠ざかり、僕の意識は徐々に薄れていった。


 僕が浅い眠りから覚めたのは、意識の遠いところで車のドアが閉まる音を確認した瞬間だった。
もしかして、つかさが帰ってきたのかもしれない。
そう思ってパッと目を開けると、テレビに映る野山の姿が目に入った。
木の床は人工的な明かりに照らされて光っていた。 でもその輝きは秋の日差しに照らされている時のものとはどこか違っていた。
やがて錆付いた階段を駆け上がる軽快な足音が耳にはっきりと聞こえてきた。それがつかさの足音である事はすぐに分かった。
僕は急いで起き上がり、白く光る床の上を玄関に向かって走り出した。
1秒でも早くつかさにただいまのキスをしてほしかったから。
きっと彼も、早くそうしたくて階段を駆け上がってきたに違いなかったから。