3.

 喫煙所を越えて病棟の奥へ真っ直ぐに進むと、廊下がさっきまでよりやけに暗く感じた。
でも僕にはその理由がちゃんと分かっていた。 喫煙所の向こうの廊下は左右にドアの締め切られた個室が並んでいて、そこから漏れる光がまったくないから奥の廊下は暗いんだ。
彼の黒い背中を追いかけて歩くと、暗くて静かな廊下に2人分のスリッパの音がパタパタと響いた。 この時彼はもう足を引きずってはいなかった。
緩めのパジャマに包まれた彼の体はわりと細く見えた。でも広い背中としっかりした肩のラインは大人を思わせた。
彼の髪があっちこっちに跳ねているのはきっと両手が使えないため思うようにセットができないからだった。 黒いパジャマが着崩れているのも、恐らく同じ理由からだった。
彼の後ろ髪は肩に付くか付かないかの長さで、その毛先はやっぱり外側に跳ねていた。

 彼は自分の病室の前で立ち止まり、ドアと壁のわずかな隙間へスリッパを突っ込んで行儀悪く足でドアを開けた。
すると病室の中の光が暗い廊下にほんの少しだけ漏れた。そしてひんやりした空気が同じように廊下へ流れてきた。 この時彼の病室の中は思ったよりずっと明るかった。
「入れよ」
ドアの奥には皮のソファーとベッドが見えた。彼はさっさと1人で奥へ進み、低いベッドの端に腰掛けて僕にそう言った。
でも僕は彼の病室へ入る事をためらった。もう一度そこへ足を踏み入れたら、また何か起こりそうな予感がしたからだ。
「何ビビってんだ。早くこっちへ来て座れよ」
彼は病室の前で突っ立ている僕に向かって挑発的な言葉を投げ掛けた。
別に、ビビってなんかいないよ。
実際彼は僕の扱いがとてもうまかった。 僕には彼の言う事を聞く義務なんかこれっぽっちもなかったのに、そんな言われ方をすると僕はムキになって自分から彼の病室へ足を踏み入れてしまった。
この時ベッドとソファーの間にはすでに白いテーブルが置いてあり、その上にトレイに乗った彼の食事が用意されていた。 それはさっきの若い看護師さんがセットしたものに違いなかった。
「ソファーに座れば?」
僕は彼にそう言われ、テーブルの上にトレイを下ろして硬いソファーに腰掛けた。こうして僕は彼と正面から向き合う事となった。
個室の窓の横にはエアコンが設置されていて、その部屋はとても涼しく快適だった。
「腹減った。早く食べようぜ」
僕が座ると、彼が急かすようにそう言った。病室の窓は半分カーテンが開けられていて、外の光が彼の背中を照らしていた。
彼の刺すような目線が僕に向けられると、その迫力に押されてなんとなく萎縮した。
でもその後彼は例の真ん丸な笑顔で僕に微笑みかけた。すると、今度は何故だかほっとした。
彼は一見怖そうなつり上がった目と子供のような笑顔を使い分ける事に長けていた。

 「テレビ、点けてもいいぞ」
彼はそう言ってベッドの横の棚に置いてあるテレビのリモコンへ目線を送った。 その目線を追いかけて四角いリモコンを見つめると、嫌でも彼とキスした時の事を思い出してしまった。
ふっくらした唇が自分の唇に重なった時は、一瞬わけが分からなかった。
でも僕の唇を通り越して不法侵入してきた温かい舌の感触は、まだしっかりと口の中に残っていた。
「怒ってるか?」
テーブルを挟んでベッドに座る彼が、不意にそう言った。
この時彼は微笑んではいなかったけど、かといって僕を睨み付けるような事もしなかった。
僕はその言葉の意味をちゃんと理解していた。でも自分が彼に対して怒っているのかどうかはよく分からなかった。
とにかくここまでの流れがあまりに唐突で、気持ちが現実に追いつかなかった。
僕は17歳になるまでそれほど大きな事件に巻き込まれる事もなく、ずっと平凡に生きてきた。
そんな僕はきっと突然のアクシデントに弱かったんだと思う。
「俺、ハンパな気持ちでお前にキスしたわけじゃないからな」
僕の気持ちはまだ数時間前をさまよっているのに、目の前の彼はいつもどんどん先へ進む人のようだった。
この時彼に笑顔はなく、ただ真剣な眼差しが僕の心を突き刺した。
でも僕は彼の言うハンパな気持ちがいったいどんなものなのかよく分かっていなかった。
とにかく僕はまだ何も考えられる状態ではなかった。 この時僕は何故今自分が彼の病室のソファーに座っているのかという事さえよく理解していなかった。
どうしてこんな事になってしまったのか。それを考え始めると、頭が痛くなりそうな予感がしていた。
後から考えると彼がそんな僕の心の隙間に突然入り込んできたという事だったんだろうけど、僕がその事に気づくのはもっとずっと後になってからの事だった。
ただこの時は、彼が目に見えない力で僕をここまで引っ張ってきたという気がしていた。
うまくは言えないけど、とにかく彼は磁石のように僕を引き付ける力を持っていたんだ。
硬いソファーに腰掛けてつり上がった目を見つめると、涼しい部屋にいるのに頬がすごく熱くなった。
真剣な目をしている時の彼は、悔しいけどちょっとかっこよかった。
彼の目にはすごく力があって、眉が凛々しい感じで、尖った鼻は形がよくて…要するに彼はわりと整った顔立ちをしていたのだった。
鼻から上は大人っぽい印象なのに、ふっくらした唇と丸い輪郭が大人になりきれない彼の心を表しているような気がした。
所々外側へ跳ねている彼の茶色の髪が逆光を浴びて輝いていた。
つり上がった目とふっくらした唇がやけにアンバランスで、なんだかちょっと笑えた。
「なんだよ。人がマジメに話してるのに」
僕が小さく笑うと、彼は唇を尖らせて拗ねるような表情を見せた。
かわいい。
その顔を見た時、僕はやっぱりそう思った。


 食器のフタを全部開けると、僕らの夕食の中身が明らかになった。
ご飯とみそ汁と冷奴と、デザートのイチゴ。
それは2人とも同じメニューだったけど、僕らのメインのおかずは少し違っていた。
1番大きな皿に乗ったおかずは僕の方が鶏肉と山菜の煮物で、彼の方は野菜炒めだった。
「どうしてお前の方だけ肉があるんだよ。不公平だな」
彼は身を乗り出して2つのおかずをじっと見比べた。がっちりギプスで固定された両腕も、ほんの少しだけテーブルに近づいた。
この時僕はまったく別な事に興味を抱いていた。
彼のトレイの隅に置かれた名札。僕はそれを指でひっくり返してそこに書かれている文字をじっと見つめた。
宮本つかさ
僕は心の中でその名前を読み上げ、そっと名札を元の位置へ戻した。
「あだ名はムサシ。年はハタチだよ」
さっきまでおかずを見つめていた彼の目が、上目遣いに僕を見つめた。
その真っ直ぐな視線と凛々しい眉に、僕は一瞬ドキッとした。

 「腹減った……」
彼がか細い声でそう言って、突然うなだれた。 彼ががっくり頭を落とすと、その背中を照らしていた日差しが真っ直ぐ僕に向かってきて目が幻惑された。
「早く食べさせて」
彼が顔を上げて少し甘えた声を出した。
でも僕の目は幻惑されていたので、彼がどんな顔をしてそう言ったのかはよく分からなかった。

 「ちゃんと大きく口開けて」
僕はプラスティック制の箸で野菜の炒め物を少し持ち上げ、それをそのまま彼の口元に近づけた。
つかさはガーッと大きく口を開けて野菜にかじり付こうとしたけど、ギリギリのところでサッと身を引いた。
「どうしたの?」
僕は右手に箸を持ったまま不思議に思って彼にそう尋ねた。その時つかさは眉間にシワを寄せて箸に乗っかっている野菜を睨み付けていた。
「俺、ピーマン食えない」
そう言われて箸の先をじっと見つめると、たしかにそこには緑色に光る細切りのピーマンがいくつか存在していた。
彼は本当にピーマンが苦手なようで、敵を見るようなするどい目つきでその緑の色を睨み付けていた。
まるで子供みたいだ。
そう思って僕がクスクス笑うと、その振動で箸もピーマンも微かに揺れ動いた。
「ピーマンはお前にやるよ。その代わり肉を食べさせてくれ」
彼はそう言って皿の上に乗っかる鶏肉をじっと見つめた。 でも僕は箸を持つ手を更に彼の口元に押し付け、ピーマンを含む野菜の炒め物を無理やり彼の口の中へ放り込んだ。
「そんなふうに好き嫌いしてるから骨が折れるんだよ」
僕の声が耳に入っているのかいないのか、彼は泣きそうな顔をしてモグモグと野菜を噛んでいた。
そしてそれを飲み込むと、つかさは急に不機嫌になって吐き捨てるようにこう言った。
「おふくろみたいな事言いやがって」
どうやら彼はちゃんと僕の言葉を聞いていたようだった。
僕はこの時、彼に仕返しができてすごく満足していた。
僕の口の中に温かい舌の感触が残っているように、苦手なピーマンの味はしばらく彼の口に残り続けると思ったから。