21.
家で夕食を食べたのは、すごく久しぶりだった。
ご飯を食べた後は、自分の部屋にこもった。部屋の隅にうずくまって、ただ悶々としていたんだ。
今日僕は、つかさとケンカした。彼の部屋で口論になり、そこを飛び出したのが8時頃だった。
それから何度も後ろを振り返ったけど、自分を追ってくる人影は見当たらなかった。
その後彼から連絡がくる事もないし、僕の方から連絡を取る事もしていない。
どうやら明日は、久々に1人で過ごす日曜日になりそうだ。
ケンカの原因ははっきりしている。
僕は今日、つかさのところへ泊まりたかった。ずっと一緒にいたいという思いが、今日は特に強かったんだ。
でも彼にそう言ったら、あっさりと断られてしまった。
「ダメだよ。ちゃんと遅くならないうちに送っていくからな」
つかさはそう言って苦笑いをした。でも僕は、どうしても納得ができなかった。
明日は僕もつかさも休みだ。
お互いに好き同士で、一晩中一緒にいられる環境にあるのに、どうして頑なにそれを拒むのかよく分からなかったんだ。
「どうしてダメなの? つかさは僕と一緒にいたくないの?」
「そんな事言ってないだろ?」
「そう言ってるのと同じだよ!」
「わがまま言うなよ。今日は家まで送るし、明日の朝になったら迎えにいくから」
「明日も遊んでくれるなら、泊まっても同じなのに……」
「同じじゃない。全然違うよ」
「何が?」
「いきなり外泊したら、親が心配するだろ?」
「そんな事関係ないよ」
「うるさいな。ここは俺の部屋だぞ。文句があるならさっさと出て行けよ!」
つかさに睨まれて、心が折れた。
たしかにそこは彼の城で、僕が居座る権利なんかなかった。出て行けと言われれば、黙って出て行くしかなかったんだ。
放課後彼のアパートへ行く時は、いつも1人だった。でもそこから帰る時は、必ず2人だった。
それなのに、今夜は初めて1人でつかさのアパートを出た。
僕には魅力がないのかもしれない。取り立ててかっこいいわけでもないし、何か特技があるわけでもないし。
僕がつかさを思う気持ちと彼が僕を思う気持ちは、根本的に違っているのだろうか。
つかさが僕と遊んでくれるのは、暇つぶしみたいなものなのだろうか。
後ろ向きな思いが、頭の中でグルグルと回り続ける。
僕はひどく落ち込んでいた。本当に、どうしようもなく落ち込んでいた。
両の耳に、カツンと小さな音が響くまでは。
その音がしたのは、窓のそばだった。
僕は窓を覆うカーテンを見つめ、何かが起こるのを黙って待っていた。
すると間もなく、もう一度カツンと音がした。それは何かが窓ガラスにぶつかる音のようだった。
僕はスッと立ち上がり、窓を静かに開けた。その途端に、冷たい風が頬に突進してきた。
2階の部屋から眼下を見下ろすと、そこにはつかさの姿があった。
彼は随分薄着をしていた。首にはマフラーが巻かれていたけど、上着はまったく身に着けていなかった。
つかさは月明かりの下で微笑み、僕に向かって右手を振った。
「和雪!」
その声があまりにも大きかったので、人さし指を唇に当てた。
母さんはまだ起きている。彼女にこの状況が知れたら、面倒な事になるのは分かっていた。
「どうしたの?」
「下りてきて」
僕たちは小声で会話を交わした。
本当は今すぐ彼のそばへ行きたかったけど、その時は首を振るしかなかった。
時刻はもうすぐ11時になろうとしている。こんな時間に出かける素振りを見せたら、母さんが怒り出すに決まっている。
「窓から下りてきて。お願い」
つかさの笑顔は失われた。彼はとても悲しそうな目をして僕を見上げていた。
窓の下には小さな物置があった。
少し無理をすれば、そこへ飛び乗る事はできそうな気がした。
だけど地面へ下り立つには問題があった。僕の手元には靴がなかったんだ。
「ごめん。靴がないんだ」
「大丈夫。何も心配しなくていいから、早く下りてきて」
「でも……」
「和雪、俺を信じて」
つかさの目は真剣だった。冷たい風が吹くと、彼の髪が大きく揺れた。
僕は彼がきてくれただけで嬉しかった。もうケンカをした事なんか、すっかり忘れてしまうほどに嬉しかった。
だからこそ、なんとかその期待に応えたいと思った。
「なぁ、ここへきて」
寒そうに両手を擦り合わせながら、つかさがそう続けた。
僕は窓から身を乗り出して、物置の屋根をじっと眺めた。
きっとそこへ飛び乗る事はできる。だけど物置の屋根から地面までの距離は、かなりある。
靴もはかずに屋根から飛び下りても、怪我をしたりはしないだろうか。
そういう不安はあったけど、僕はすでに決意を固めていた。
窓から物置の屋根へ移った時は、足が冷たくてたまらなかった。
でもそうする事で、つかさとの距離はぐっと縮まった。
そこから地面へ飛び下りるには、かなりの勇気が必要だった。でも彼の笑顔を見ると、何でもできそうな気がした。
「絶対お前を受け止めるから、安心して」
両手を大きく広げて、つかさがそう言った。夜空を見上げると、煌く星がたくさん目に入った。
すごく強い風が吹いた時、不意に体のバランスを崩しかけた。僕は風の勢いを借りて、鳥のように羽ばたいた。
すると一瞬、体がフワッと浮いた。でも次の瞬間には自分がどうなったのかよく分からなくなっていた。
ただその時、頭上に流れ星を見たような気がする。もちろん願い事をするヒマはなかったけど、多分そんな気がする。
気付くと僕はちゃんと地面に立っていて、体は彼に支えられていた。
「大丈夫か?」
「うん」
つかさの胸に顔を埋めると、目尻にシャツのボタンが当たって痛かった。
それでも僕は、絶対にそこを離れたくなかった。僕にはそこが安住の地だったからだ。
僕たち2人は、物置と隣の家の狭間に立っていた。
彼の声が耳に囁かれた時、顔を上げてつかさの垂れ下がった目を見つめた。
「このまま動かないで」
つかさは一旦僕から離れ、足元に置いてある紙袋を持ち上げた。その中には黒っぽい箱が入っているようだった。
「これ、前に欲しいって言ってただろ?」
彼は僕の前にひざまずいて、箱からスニーカーを取り出した。
底が厚くて真っ白なその靴は、月明かりに照らされて光っていた。
両足にスニーカーをはくと、くるぶしから下の方がすごく温かくなった。
つかさは丁寧に靴紐を結んでくれて、一仕事終えるとようやく立ち上がった。
「履き心地は?」
「すごくいいよ」
そう答えると、彼はほっとしたように微笑んだ。
僕はこの靴を買ってきてくれた事にすごく驚いていた。
いつかつかさとコンビニへ立ち寄った時、なんとなく雑誌を手に取ってパラパラとめくった記憶がある。
その時偶然開いたページに、このスニーカーの写真が載っていた。
僕は独り言のように、「この靴、いいなぁ」 とつぶやいたように思う。
つかさはその時の事を、しっかりと覚えていてくれたんだ。
「サイズはどうだ?」
「ピッタリだよ」
次の質問に即答した時、つかさが僕の手を取って短いキスをしてくれた。
彼の手は冷えきっていたけど、その口付けはとても温かかった。
「じゃあ、間違いない。君はシンデレラだ」
つかさは、ちょっとはにかむようにそう言った。その頬が火照っている事は、一目瞭然だった。
「俺は、お前を大切にしたいと思ってるんだ」
突然キリッとした目で見つめられると、すごく胸がドキドキした。
つり上がった目や、赤く染まった頬や、風に揺れる茶色の髪。
彼がコンビニでの一瞬を覚えていてくれたように、僕もこの瞬間をちゃんと覚えていてあげたいと思った。
「冬休みになったら、泊まりにこいよ。
きちんと親に許可をもらって、堂々と泊まりにこい。
もしも親が不安に思うなら、俺が直接話すから。和雪をちゃんと預かりますって、自信を持って言えるから」
今まで僕は、つかさにいっぱい幸せをもらった。
楽しく話をしたり、ドライブに出かけたり、甘いキスをしてもらったり。
その全部を振り返ってみても、今が1番嬉しかった。
つかさは僕の王子様だ。どんな時にも守ってくれる、強くて優しい王子様だ。
もう絶対に焦ったりなんかしない。黙ってこの人についていく。僕は今、はっきりとそう決めたんだ。
「寒いだろ? 無理言ってごめんな」
フカフカのマフラーが彼を離れて、僕の首にゆっくりと巻かれた。
風は相変わらず冷たかったけど、マフラーが僕の体温をほんの少し上げてくれた。
でも僕は、もっともっと温かくなる方法を知っていた。
ちょっとだけ背伸びをして、短く唇を重ね合う。そしてつかさの背中に手を回し、強く強く抱きしめ合う。
こうすると、とても温かい。こうすれば、つかさの手もきっとすぐにポカポカになる。
「和雪、好きだよ」
彼の息が、僕の耳を熱くする。すると不思議な事に、胸の中まで熱くなる。
「魔法が解ける時間まで、一緒に遊ぼうか?」
小さく頷くと、フカフカのマフラーに顎をくすぐられた。
つかさが最後に言った言葉を、僕は決して忘れない。
「カボチャの馬車はないけど」