4.

 翌朝僕は6時頃に目を覚まし、検温を終えた後顔を洗ってパジャマを着替え、7時になると廊下へ出て朝食を取りにいった。
「おはようございます」
この時廊下にはたくさんの入院患者がいて、僕はその人たちと挨拶を交わしながら白いワゴンの元へと向かった。
外科病棟にはいろいろな患者がいた。
松葉杖をついて歩く人や、足を引きずって歩く人。そんな人たちを目にすると、あまりに元気すぎる自分が申し訳なく感じた。
そして僕は、薄暗い廊下をゆっくりと歩いた。 松葉杖をついて歩くような人を追い越してさっさと食事を手にする事が、まるで罪のように思えたからだ。

 入院患者の食事を乗せたワゴンの周りには人が大勢いた。
白いパジャマを着た人や、ストライプの柄のパジャマを着た人。
僕は彼らがトレイを手にして去っていくのを待ち、最後の方になってやっと自分の食事を手に入れた。
つかさが遠くの方からやってきたのはちょうどその頃の事だった。 僕が両手でトレイを持ち上げた瞬間、青いパジャマ姿の彼が目に入ったんだ。
「朝メシ食べさせてー!」
やがてワゴンの向こうの遠い場所から彼が僕に向かってそう叫んだ。
その声があまりに大きく廊下に響いたので、僕は思わず周りを見回した。近くに誰もいない事が分かると、僕はほっと胸を撫で下ろした。


 「あんなに大きな声で叫ばなくてもいいのに」
この朝僕は彼の病室のドアをちゃんと手を使って開けてあげた。
右手でトレイを持って左手でドアを開けると一瞬トレイの上に乗った食器がグラッと揺れたけど、なんとかギリギリのところで食事をひっくり返さずに済んだ。
「じゃあこの次は俺が呼びに行く前に来てくれよ」
つかさはそう言って僕が開けたドアの隙間から病室の中へ入った。
病室の窓にはカーテンが引かれておらず、手垢1つ付いていない窓ガラスの向こうに青い空が見えた。
朝日に照らされる病室の中はすごく明るくて開放的な雰囲気だった。
ソファーとベッドの間にはもうテーブルが置いてあり、その上にはしっかりと彼の食事が用意されていた。
ベッドの正面にあるテレビには天気予報が映し出されていたけど、音量が小さいために天気予報士の声はボソボソと小さく聞こえるだけだった。

 僕が硬いソファーに腰掛けると、つかさもすぐ隣にドカッと座った。
彼は正面にある窓の外を眺め、小さくため息をついてソファーの背もたれに寄り掛かった。
エアコンがひんやりした微風を病室全体に送り込み、その風がつかさの乱れた髪を小さく揺らしていた。
「お腹すいてる?」
彼はこの時、なんとなく元気がなかった。
でも僕が声を掛けると、つかさは朝日を浴びてにっこり微笑んだ。
「今朝は目が覚めたらすぐに看護師を呼んで髭を剃ってもらったんだ。お前に会う前に小奇麗にしようと思ってさ」
その時たしかに彼の肌はスベスベだった。
つかさに笑顔でそう言われると、僕は昨夜寝る前に考えた事を思い出した。
消灯時間が過ぎた後、暗く静かな病室のベッドに横になって僕はいろいろ考えた。
僕はその頃になってやっと気持ちにゆとりができて、少しは彼との事に考えが及ぶようになっていた。
布団をかぶって目を閉じると、つかさとキスした時の事が鮮明に思い出された。
彼の少しつりあがった目と尖った鼻が信じられないほど近くに見えて、 カーテン越しの薄明るい日差しが突然遮断され、つかさのふっくらした唇が僕の薄い唇に重なった時の事。
そして生温かい舌が歯に当たった時の事を思うと、僕はどうしようもなくドキドキした。
「俺、ハンパな気持ちでお前にキスしたわけじゃないからな」
すると、彼の語った言葉が同時に思い出された。
少し遅すぎたかもしれないけど、僕はその時になってようやくある考えに行き着いた。
つかさは、もしかして少しは僕の事が好きなんだろうか?

 この朝僕は彼の事をすごく意識していた。
昨日と違って今朝の僕は自分が今ここにいる訳をちゃんと理解していた。
昨夜その考えに行き着いた時、僕はもう少し彼の事をよく知りたいと思ったのだった。
この日の朝食は2人とも同じメニューだった。
ご飯とみそ汁と卵焼き。それにハムサラダとヨーグルト。
僕はそれらのおかずを少しずつ箸で持ち上げて彼の口へと運んであげた。
つかさは朝食メニューに嫌いな物がなかったのか、ずっと黙ってモグモグとおかずを噛み締めていた。
「ヨーグルト、食べる?」
彼の食事がほとんどなくなった時、僕はそう言って青い容器に入ったヨーグルトを彼の目の前にかざした。
しかし彼のつり上がった目はその青の色を通り越して真っ直ぐ僕に向けられていた。
つかさは僕にピッタリくっ付いて座り直し、それからまた子供のような笑顔を見せた。
彼の笑顔がさっきまでよりも近くに見えて、僕の頭に一瞬ファーストキスのシーンが浮かんだ。
「両腕を折った時はツイてないと思ったけど、今はよかったと思ってるよ」
彼がゆったりした口調でそう言った時、僕は白いギプスに包まれたその腕に思わず目をやった。 90度に曲げられて動かせない彼の腕を見ると、つかさを本当に不憫に思った。
「どうしてそう思うの?」
「お前にメシを食べさせてもらえるからさ」
真ん丸な顔がそう言って微笑むと、僕の体温が急激に上昇した。 青い容器に入ったヨーグルトは僕の手の中でホットになってしまったに違いなかった。
この時きっと僕の頬は赤かった。明るい朝の日差しは、恐らく真っ赤な頬を彼の目に映し出してしまっただろう。

 テレビの音が小さく遠くの方で鳴っていた。
僕はなんだかすごく恥ずかしくなり、まだほとんど口の付けていない朝食を大急ぎで頬張った。
喉が詰まって咳込むと、すぐ隣にいる彼にクスクスと笑われてしまった。
「お前、高校生か?」
僕は早く食事を終えて彼の病室を出たかったのに、どうしても食事がうまく喉を通らなかった。
オマケに彼に話し掛けられると無視する事もできず、ますます食事が進まなくなった。
時間がたつにつれて夏の太陽の日差しが増し、僕は目を細めながら彼の顔も見ずに返事をした。 箸を持つ手は、何故だかすごく汗ばんでいた。
「Y 高校の2年生」
「どこが悪くて入院してるんだ?」
「虫垂炎だよ」
「ふぅん。手術したのか?」
「うん」
「じゃあ、あそこの毛を剃った?」
「……」
彼と一緒にいると、いつも僕のペースが乱された。
僕は本格的に喉を詰まらせ、目に涙を浮かべながらかなり長い間咳込む事となった。

 テーブルの上の食器がすべて空になった時、僕はもう疲れ切っていた。 でもつかさの方はご機嫌で、ずっと笑顔を絶やさなかった。
窓から入り込む日差しはますます明るさを増し、彼の真ん丸な笑顔を輝かせた。 そしてその光は彼の腕を包み込む真っ白なギプスも同じように輝かせた。
「腹がいっぱいになると、眠くなるな」
つかさは硬いソファーの上に深く座り直し、頭を軽く僕の肩にもたれ掛けて目線をテレビの方へ向けた。
僕はすぐにでもここを出たいと思っていたのに、そんな事をされると立ち上がる事ができなくなった。
彼は磁石のように僕を引き付け、見えない鎖で僕を縛り付けているかのようだった。
肩にもたれ掛かる彼の頭を上から見つめると、茶色に染めた髪の根元の部分が伸びて黒くなっている事に気付いた。
彼はいったいどのぐらいここへ入院しているんだろう……
ふとそんな疑問が頭に浮かんだ時、それを悟ったかのようにつかさが口を開いた。
「俺、もう入院して3週間になるんだ。その間はずっと退屈してたよ。手が使えないから何もできないしさ」
つかさはテレビを見ながらため息混じりにそう言った。 考えてみれば、今の彼は思うようにテレビのチャンネルを変える事さえできないのだった。
強い日差しがテレビの画面に反射して、この時僕にはその画面に何が映し出されているのかほとんど見えなかった。
ただ、彼の頭と密着している肩が頬と同じぐらい熱かった。 僕は真っ赤な頬を両手で覆い隠し、右の肩に彼の温もりを感じていた。

 「どうして腕を折ったの?」
僕が話し掛けても、つかさはまだじっとテレビを見つめていた。でも彼はちゃんと僕の言葉に耳を傾けていた。
「車の中で居眠りしてたら、いきなりトラックが突っ込んできたんだ。あの時は何が起こったのか分からなかったよ」
あの時は何が起こったのか分からなかった。
つかさに突然キスをされた時、僕もそれと同じ状況だった。
言うなれば、あれも事故みたいなものだったんだろうか。
「俺、一瞬にして両腕と手の指を10本折ったんだぜ。車は廃車になったし、痛い思いはするし、あの時は本当にツイてないと思ったよ」
僕はもう一度彼のギプスに目をやった。 僕にはどうして自分が彼の世話をしなくちゃいけないのかと思った瞬間があったけど、つかさの話を聞くとそんな思いはすぐに吹っ飛んでしまった。
僕は入院生活が3〜4日続いただけでかなり退屈していた。 でも彼は不自由な体を引きずってもっともっと長くつまらない時を過ごしていたんだ。
その事をはっきり意識すると、昨日看護師さんに言われた通り彼には優しくしてあげなくちゃいけないと思った。
昼食の時間がきたら、いち早くここへ来てつかさにご飯を食べさせてあげよう。
彼に見たいテレビ番組があるのなら、僕がそのチャンネルを入れてあげよう。
彼が枕を欲するのなら、いつでも肩を貸してあげよう……

 しばらく彼が何も話さないので、僕はつかさの顔をそっと覗き込んだ。
すると彼が僕の肩に寄り掛かって眠っている事に気が付いた。
彼の頬は夏の日差しに白く照らされていた。乱れた髪はエアコンの微風を浴びて揺れていた。
ふっくらした唇の端は少し上を向いていて、その寝顔は微笑んでいるかのように見えた。
かわいい。
僕は子供っぽいその寝顔を見てまたそんなふうに思った。
こうして2人の静かな時は緩やかに流れていった。