5.

 翌日の午後。僕は昼食の後、つかさを病院の裏庭へ誘った。
僕は時々病室の窓から裏庭を覗いていて、一度はそこへ行ってみたいと思っていたんだ。
裏庭はとても広くて綺麗に整備されていた。
この日は特に天気がよく、外の気温は高かった。午後の日差しはとても熱くて、温い風を浴びると額に薄っすらと汗をかいた。
短い芝生は青々としていて、その真ん中にある池の中ではたくさんの鯉が気持ちよさそうに泳いでいた。 その姿を見た時、僕は魚になって池の中へ飛び込みたいと思った。
芝生の上には白いベンチがズラッと並んでいて、そこには1人で読書を楽しむ人や楽しそうに誰かとお喋りしている人たちがたくさんいた。 その半数はパジャマを着た入院患者であり、残りの半数は見舞い客か通院患者のようだった。

 やがて僕たちも空いているベンチを見つけ、そこに並んで腰掛けた。
直射日光を浴び続けたベンチはやけに熱くて、背もたれに寄り掛かると一瞬背中が火傷するかと思った。
この時僕らの目の前にはボール遊びをしている2〜3歳ぐらいの男の子が2人いた。 彼らは薄いティーシャツに半ズボンという涼しげな格好をして、かん高い声を上げながら柔らかそうなボールを投げ合っていた。
「いい気なもんだ。こっちは手が使えないっていうのに」
つかさは元々つり上がった目を更につり上げてその子たちを睨み付けた。 彼は今日に限って白いパジャマを着ていて、その白が太陽に反射して眩しかった。
「あまり外に出たくなかった?」
彼があまりに不機嫌そうなので、僕は彼を連れ出した事を後悔しかけていた。 でもつかさがすぐに笑ってくれたので、結局は後悔せずに済んだ。
「外の風は好きだよ。でも病室にお前と2人きりでいるのはもっと好きだよ」
彼はそう言って真夏の風を浴びながら気持ちよさそうに目を閉じた。つかさは時々こうして僕の心をくすぐった。
僕の体が熱いのは、きっと夏の日差しのせいだけではなかった。

 「お前、普段はどんな事して遊んでる?」
僕がドキドキしている時でも彼は至って平然としていた。
つかさの頬に小さなゴミのような物が付いていて、それを指で払ってあげると彼はまた子供のように微笑んだ。
「友達と一緒に女をナンパしたりとかする?」
「そんな事しないよ」
「もしかして勉強ばかりしてるのか?」
「そんな事もないけど……」
つかさはリラックスした表情を見せ、僕の事をいろいろ聞いてきた。そして僕も彼にいろんな質問をした。 すると、つかさの事が少しずつ分かってきた。
つかさは事故で両腕の骨を折り、同時に足を打撲したという事だった。 頭も打ったらしいけど幸いな事に脳に異常はなく、大事な顔も無傷だったと言って彼は笑った。
つかさが個室に入院しているのはお金に余裕があるからそうしているわけではなく、事故の相手がそのように取り計らってくれたからだという事も分かった。
その他にも彼はいろんな事を話してくれた。
ケガをしたためにバイトが続けられなくなりそうだという事や、1人暮らしをするアパートの家賃の支払いが不安だという事。
そして、どうしても実家へ帰るのは嫌だと思っている事まで彼ははっきりとした口調で話してくれた。
「実家はどこなの?」
「遠い所。山奥の田舎だよ」
彼は空を見上げ、太陽に目を細めながらそう言った。その時もうボール遊びをしていた子供たちは芝生の上から消えていた。

 30分近くもそこにいると、ギラつく太陽に照らされて髪が焼け付くように熱くなった。
背中やわきの下にも汗をかいて、綿のパジャマは気持ち悪く湿ってきた。
そろそろ戻ろうか……
僕がそう思った時、つかさが急に頭を2〜3度大きく振って眉間にシワを寄せた。
「頭がかゆい」
「どこ? かいてあげるよ」
「どこもかしこもかゆい。髪を洗うのを手伝って」
そう言って先に立ち上がったのはつかさの方だった。
この時彼の額には少し汗が光っていた。 その汗の一滴がスーッと頬に流れ落ちると、つかさは頬を自分の肩に押し付けてなんとか汗を拭い去ろうとしていた。 そのつり上がった目は力強く宙を睨み付け、思うようにならない自分の体にイラついているのがよく分かった。
「かゆい」 と何度も繰り返して頭を振る彼は、僕の助けを求めていた。


 明るすぎる裏庭を後にして病院の中へ戻ると、突然視界が暗くなってすべての景色が灰色に見えた。
1階の外来受付の窓口はカーテンで覆われて閉まっていた。
広い待合室はガランとしていて、その付近を通りかかるのはパジャマ姿の入院患者か看護師だけだった。
受付窓口の横を通り過ぎて廊下を真っ直ぐに進むと、やがて正面にエレベーターの白いドアが見えてきた。
僕は白いドアのすぐ横にあるボタンを押して、2階へ行くためにつかさと2人でエレベーターが来るのを待った。その時僕らは無言だった。

 エレベーターのドアが開くまでにそう長い時間はかからなかった。
スッとドアが開いて中へ乗り込むと、僕は2階のボタンをすぐに押した。 するとまたスッとドアが閉じて灰色の景色がシャットアウトされた。
この時エレベーターの中には僕たち2人しかいなかった。
ドアの上には小さな扇風機が設置されていて、その風がほんの少しだけ頬に触れた。
僕はドアに向かって左側の壁に寄り掛かっていた。そしてつかさは僕のすぐ後ろに立っているようだった。
エレベーターが上昇を始めると、ガクン、と弱い衝撃があって体が上に引っ張られる感覚を味わった。 するとその時、突然つかさが僕の目の前に立った。
彼の丸い顔が、すぐ近くにあった。凛々しい眉とつり上がった目がセットになって僕を見下ろしていた。
あっちこっちに跳ねている茶色の髪が、扇風機の巻き起こす風によって大きく乱れた。
「キスしよう」
つかさの声が、僕の耳に小さくそう囁いた。
耳のそばに彼の息を感じるだけで、僕はすごくドキドキした。
彼のふっくらした唇が僕の薄い唇に迫ってきた。ハッと息を呑んで一瞬身を引くと、エレベーターがガン、と小さく音を立てて止まった。
彼の背中の後ろでエレベーターのドアがスッと開いた。
つかさはいつもの真ん丸な笑顔を見せて 「バーカ、冗談だよ」 と言った。

 心臓の動きが早いまま2階の廊下へ降り立つと、僕らと入れ替わりで花柄のパジャマを着たお婆さんがエレベーターに乗り込んだ。
薄明るい廊下を行き来する人の姿が、4〜5人目に付いた。
僕とつかさはエレベーターの前に立って少しの間向き合った。
この時僕の頬はすごく熱かった。つかさは目尻を垂れ下げてにっこり微笑み、僕を真っ直ぐに見つめていた。
「桐島くん!」
その時、背後から僕を呼ぶ女の人の声がした。胸の高鳴りを押さえながら振り向くと、そこには小柄な看護師さんが立っていた。
「ちょうどよかった。今呼びに行こうと思ってたの。診察するから、一緒に来て」
僕は看護師さんにそう言われ、もう一度つかさを振り返って彼の顔をぼんやりと見つめた。 彼は笑顔を絶やさずに、首を2回縦に振った。


 「桐島くんだね? 横になって」
看護師さんに連れられて診察室へ行くと、僕の手術を担当した50代ぐらいの医者が早口でそう言った。
白くて幅の狭い診察台に横たわると、彼がすぐに僕のそばへやってきた。その時彼の両手は白衣のポケットの中へ入れられていた。
「もう痛みはない?」
「はい。痛くありません」
その医者は本当に早口で、彼と話すと僕まで早口になった。
白いカーテンで覆われた診察室の窓の外には裏庭でくつろぐ人たちの笑い声が小さく響いていた。
すぐそばに立つ恰幅のいい医者の背後には大きな机があって、その上には山のように何かの書類が積まれていた。
「君、顔が赤いね。少し熱っぽいのかな?」
医者が少し眉を寄せて僕をじっと見下ろした。僕はその時、慌てて彼の言葉を否定した。
「熱なんかありません。しばらく裏庭に出ていたから日に焼けたのかもしれません」
すると医者はなるほど、と言いたげに頷いたけど……僕の顔が赤いのは、間違いなくつかさのせいだった。
「よし、じゃあちょっと診てみようか」
白衣のポケットから取り出された医者の両手が、僕のパジャマのズボンを少しずり下げた。 他人の指がわずかでも腰のあたりに触れると、ちょっとだけくすぐったかった。
この時腹部の傷はガーゼで覆われていた。銀色に光るピンセットでそれがゆっくり剥がされると、傷の付近が突然涼しくなった。
目線を上げると、診察室の真っ白な天井が見えた。僕は傷口に消毒薬が塗られる感触を味わいながら漠然とつかさの事を考えていた。

 「キスしよう」
彼の小さな囁きと耳に降りかかるわずかな息が、ずっと僕の胸をドキドキさせていた。
僕は彼と2人でいる時の空気が嫌いではなかった。ただ時々彼が僕の心を乱すといつもどうしていいのか分からなくなってしまった。
そして僕は、もう一度改めて思った。
つかさは、やっぱり僕の事が好きなんだろうか?
「はい、いいよ。起きて」
医者にそう言われ、僕はふと我に返ってすぐに起き上がった。
少し下げられたパジャマのズボンを整えて診察室の床の上に立つと、目の前にいる恰幅のいい医者の手が僕の頭を緩やかに撫でた。
「もう大丈夫だ。明日1日様子を見て、何もなければ次の朝には退院できるよ」
顔をクシャクシャにして笑う医者にそう言われた時、胸のドキドキが急に重苦しい痛みに変わった。
退院。
医者が口にしたその短い言葉は、僕とつかさの静かな時が終わってしまう事を表していた。