6.

 僕の退院が正式に決まったのは、翌日午後4時過ぎの事だった。
その頃僕はもう一度形式的な診察を受け、医者の口からあっさりと翌朝の退院を言い渡されたのだった。
電話でその事を母さんに告げると、彼女は後で病院に顔を出すと約束してくれた。
母さんは僕が入院した日と手術をした日は病院へ来てくれたけど、その後は一度電話をしてきただけだった。
僕の両親は共働きで、2人ともいつも忙しくしていた。 それがよく分かっていたから、僕は彼らがほとんど病院へ顔を出さなくてもそれはしかたのない事だと思っていた。
母さんに電話をした後、僕は退院が決まった事を伝えるためにつかさの病室を訪れた。 でもその時彼はタイミング悪く病室を空けていたのだった。
ドアの隙間から彼の病室の中を覗くと、そこには静寂が漂っていた。 正面に見えるベッドの上に彼のシルエットはなく、皮のソファーにも人が座っている気配はなかった。

 そして僕は自分の病室で退屈な時間を過ごしていた。
真っ白な病室の中はとても静かだった。 同室のお爺さんは相変わらずベッドでスヤスヤと眠っていたし、僕も黙って横になっていただけだったからだ。
この日の空は雲が多く、夏の太陽は時々雲の隙間から顔を出す程度だった。そのせいか、病室の中はいつもより涼しく感じた。
僕は明朝真っ白な病室を出て様々な色が存在する自分の家へ帰る。
それはとても喜ばしい事だったはずなのに、空と同じでなんとなく僕の気は晴れなかった。

 母さんが病室へ顔を出したのは午後5時頃の事だった。
彼女はアパレルメーカーに勤めているため、いつもセンスのいい洋服を着ていた。
真っ白な病室へ彼女がやってくると、何もない世界に突然花が咲いたかのようだった。
自分では意識していなかったけど、僕は本当は少し淋しかったのかもしれない。 母さんが来てくれた時、僕は気持ちが華やいですぐベッドの上に体を起こした。
「和雪、しばらく来られなくてごめんね!」
母さんはカツカツカツとハイヒールの靴音を鳴らして僕のベッドへ近づき、すごく大きな声でそう言った。
ウエストがくびれているピンク色のスーツはとても涼しげで彼女によく似合っていた。
「静かにして。お爺さんが眠ってるんだから」
僕がそう言うと母さんはしまった、という様子で口に手を当て、隣のベッドに横たわるお爺さんに目をやった。 しかし彼は病室に人がやってきた事にまったく気付かず静かに眠り続けているようだった。
その後母さんは長い髪をひるがえしてもう一度僕の方を向き、声をひそめて短い用件だけをそっと口にした。
「今、会計を済ませてきたの。ママは明日の朝8時に会社へ行かなくちゃいけないから、その前に迎えに来るわね。 だから遅くとも7時までには退院の準備を整えておいて」
母さんは薄い茶色のアイシャドーをあしらった大きな目で僕を見つめ、スーツと同じ色の口紅を塗った唇の端をきゅっと上げて僕に笑い掛けた。 それから彼女は、またすぐにカツカツカツと靴音を立てて病室を出て行ってしまった。
すると、また病室の中が無機質な白の色に染まった。
綺麗に着飾った彼女は僕の体の調子がどんなふうかまったく気にする様子がなかった。 それに僕がどんな入院生活を送っていたのかという事にもまったく興味を示さなかった。
僕は母さんの言葉を聞いた時、つかさと一緒に明日の朝食を食べる時間がない事を悟っていた。
つかさは体が不自由なのに。彼はいつも僕に助けを求めているのに。
それなのに母さんはそんな事を何も知らずに自分の用件だけを告げて、さっさと仕事へ戻っていったのだった。
僕はさすがにこの時だけは、母さんの態度が少し冷たすぎると感じていた。


 夕食時。僕は自分の食事を乗せたトレイを両手で持ち、パタパタとスリッパの音を立てながら薄暗い廊下を歩いてつかさの病室へ向かった。
開け放たれた病室のドアの前を幾つか通り過ぎるとそこから漏れる光がわずかに白い廊下を照らしていて、その薄い光は僕を彼の病室へ案内する道しるべのように思えた。
喫煙所の横を通り過ぎる時だけは大きな窓の外から入り込む光が僕を明るく照らしてくれた。その時は運よく雲の切れ間から夏の太陽が顔を出していたようだった。
食事時だったせいか、この時喫煙所にはまったく人の姿が見当たらなかった。
そこから奥の廊下はいつも通りに暗かった。そこに並ぶ個室のドアが相変わらず完全に締め切られていたからだ。
「入るよ」
僕はつかさの病室の前で一言そう言って、ドアと壁のわずかな隙間にスリッパを突っ込んで行儀悪く足でそのドアを開けた。 この頃の僕は食事の時間になるといつもそうやってつかさの病室のドアを開けるようになっていた。
病室のドアが開くと、その中の淡い光が暗い廊下にほんの少しだけ漏れた。
「待ってたぞ」
つかさはソファーの手前に立って、大きな声でそう言った。
彼は目尻を垂れ下げて微笑んでいた。ふっくらした唇の奥にはわずかに白い歯が覗いていた。
茶色に染まったつかさの髪はほとんど跳ねる事もなく落ち着いていた。 僕は昨日の夕方彼の髪を洗った後ドライヤーを使って丁寧にブローしてあげたのだった。
この日のつかさは、初めて会った日と同じ黒いパジャマを身に着けていた。

 ベッドとソファーの間に置いた白いテーブルの上に、いつものように2人分の食事が並んだ。
僕とつかさは皮のソファーに並んで腰掛け、2つのメニューを見比べた。この日のメニューは2つともまったく同じで、メインのおかずは煮魚だった。
病室の窓はカーテンが開けられていたけど、そこに太陽の日差しは感じられなかった。この日の空は曇っていたから、夜が来るのが早い予感がした。
僕は彼に自分が明朝退院する事を話さなければいけないと思っていた。 そして、ここで一緒にご飯を食べるのが最後になる事もきちんと言わなければいけないと思った。
だけどなんとなくその話を切り出せず、僕はしばらく無言で箸を握り締め、ただひたすら彼の口元へおかずを運んでいた。
この時はテレビの電源が入っていなかったから、僕たちに会話がないと病室の中は本当に静かだった。 つかさが時々ソファーに座り直すと、軽い振動が僕の体に伝わってくるだけだった。

 ある時僕はみそ汁の入った丸い容器を手に持ってそれをつかさの口元へ近づけた。でも彼はその容器に口を付けようとはしなかった。
僕が不思議に思って彼の顔を見ると、つかさのするどい視線が僕の目に突き刺さった。 僕は何故だかその視線に耐えられず、力なくみそ汁の入った容器をゆっくりと下ろした。
「お前、今日はなんとなく変だな。どうしたんだ?」
右の耳に、彼の心配げな声が響いた。
僕はじっと俯き、手にした容器の中に浮かぶ白い豆腐を見つめて複雑な思いを抱いていた。
母さんは僕の事をちっとも分かろうとしなかったのに、知り合って間もない彼はどうして僕の小さな変化に気付いてしまうのだろう。
「おい、こっち向けよ」
その声と同時に、つかさと僕の肩がぶつかった。
恐る恐る彼の顔を見つめると、つかさは力のない目で僕を見つめ返した。 彼の尖った鼻のシルエットが、やけに悲しく僕の目に映った。
「……僕、明日退院する事になったんだ。きっと朝早くに病院を出るから、つかさと一緒にご飯を食べるのはこれが最後になると思うんだ」
それはいつかは言わなければならない事だった。でも僕はその言葉を口にするのをずっとずっと先延ばしにしていた。
夜になる前の夕方の明るさが、つかさの整った茶色い髪をわずかに照らしていた。
この時僕は心のどこかでつかさが自分の退院を悲しむのを期待していたような気がする。だけど、その期待はあっさりと裏切られた。
つかさは徐々に顔の表情を和らげ、最後にはにっこりと微笑んだ。 僕がその真ん丸な笑顔をかわいいと思わなかったのは、多分この時が初めてだった。
「そうか。よかったな」
つかさはそう言ってソファーに深く座り直した。
僕は彼の真ん丸な笑顔を見つめながら冷めたみそ汁の入った容器を両手でぎゅっと握り締めた。
つかさは僕がいなくなっても平気なんだ。
僕がいなくたって、看護師さんがちゃんと彼の世話をしてくれるんだ。
つかさが助けを求める相手は、別に僕じゃなくても構わないんだ。
かわいげのない真ん丸な笑顔は、無言でその事実を語っているかのようだった。

 「実は俺もあと2〜3日で退院できそうなんだ。ギプスはまだ外れないけどな」
彼は真っ黒なテレビの画面を見つめながら小さくそう言った。
窓の外に見える空は僕の心と同じように少しずつ少しずつ暗くなり始めていた。
「今夜どうしても見たいテレビがあるんだ。悪いけど、消灯時間が過ぎた後テレビを点けにきてくれないか?」
つかさは何も映っていないテレビを見つめ、いつもと変わらない口調でそう言った。この時彼は僕の顔をまったく見ようともしなかった。
彼の代わりにテレビの電源を入れてあげる事。
きっとそれが、僕がつかさにしてあげられる最後の事になると思った。