7.

 「消灯の時間です」
午後10時。蛍光灯の光が輝く病室へ看護師さんがやってきて、窓辺に立つ僕にそう言った。
この時僕は白いカーテンの隙間から月を見上げていた。
さっきまで空を埋め尽くしていた雲はすっかり陰を潜め、つかさの笑顔のように真ん丸な白い月が藍色の空に浮かんでいた。
「ベッドに戻ってください。電気を消しますよ」
背中の後ろで看護師さんが急かすようにそう続けた。
僕は小さくため息をついて窓のそばを離れ、眠くもないのにしかたなくベッドの上で仰向けになった。
すると頭の上にある蛍光灯の光がまともに目に突き刺さり、僕は思わず右手でその光を遮った。
その後すぐに電気が消されてしまい、病室の中が一瞬にして暗くなった。そして僕は右手をゆっくりとベッドの上に落とした。
これで病室の中を照らすのはカーテン越しの薄い月明かりだけになってしまった。

 僕は柔らかい枕の感触を味わいながらただじっと灰色の天井を見つめていた。
廊下の方でタッタッタッと足音がするのは、夜勤の看護師さんたちが各病室を回って入院患者に消灯を知らせているためだった。
でもしばらくベッドの上でじっとしているとその足音はすぐに聞こえなくなった。
同室のお爺さんは消灯前から当然のように眠っていて、そのうちに彼の小さな寝息が病室の中に響くただ1つだけのノイズになった。
この時僕はあと5分ぐらいたったらつかさの病室へ行こうと思っていた。


 やがて僕は静かに起き上がり、スリッパの音を立てないように忍び足で廊下へ向かった。
カーテン越しの月明かりは廊下へ向かう僕の足元をしっかりと照らしてくれていた。
消灯時間が過ぎても病室のドアは開け放たれたままだった。 でもカーテン越しの月明かりはすごく薄かったから、病室全体を照らすその明かりが廊下へ漏れ出すような事は決してなかった。
僕は開け放たれたドアの横に立って暗い廊下へ顔を出し、左右をキョロキョロと見回した。 消灯後の廊下にはまったく人の気配がなく、病室の外には音も影も何一つ存在していなかった。
よし、行くぞ。
僕はソロリと片足を廊下へ踏み出し、小さくスリッパの音を立ててつかさの病室へ向かった。
暗い廊下を1人きりで歩くのは少し心細かったけど、僕の入院生活最後の夜に彼が望んだ事をちゃんと叶えてあげたいと思ってできるだけ早足で歩いた。
長い廊下を真っ直ぐに進んで喫煙所へ辿り着いた時、大きな窓の外に見える丸く白い月が一瞬僕の心を和ませてくれた。
今宵の月はきっと僕の味方なんだ。つかさの笑顔のような丸い月を見つめた時、僕は漠然とそんなふうに思っていた。
その奥の廊下もやはり暗く、いくつも並ぶ個室のドアは昼間と同じく締め切られていた。
廊下があまりに静か過ぎるため、控えめなはずのスリッパの音がいつもの倍ぐらい大きくそこに響いているような気がした。


 つかさの病室の前に立った時、僕はそこで声を出す事をしなかった。
彼の病室を訪れる時にはいつもドアを開ける前に一声掛けていたけど、この時だけは先にドアを開ける事にした。
僕はこの時手ぶらだったのに、ドアと壁のわずかな隙間にスリッパを突っ込んで病室のドアを行儀悪く足で開けた。
こうするのはきっとこれで最後になると思ったから、僕はその瞬間を楽しんだ。
病室の中を覗くと、正面に見えるベッドの上に横たわる人影があった。
布団のわずかな膨らみを、カーテン越しの月明かりが薄く照らしていた。
廊下に比べると病室の中が断然明るく思えて、僕はやっと心細い気持ちから解放された。
「つかさ」
病室に足を踏み入れながらできるだけ小さな声で彼の名を呼ぶと、ベッドの上に横たわる人影が微かに動いた。
僕がパタパタとスリッパの音を立てて低いベッドへ近づくと、仰向けで寝ていたつかさが自分の身に覆いかぶさる布団を右足で蹴った。 彼に蹴られた白い布団は、あっけなくベッドの隅に追いやられてしまった。
「よく来てくれたな」
僕が彼のそばに立った時、つかさはベッドに横たわったままの状態で嬉しそうに笑ってくれた。彼は薄い月明かりの下で例の真ん丸な笑顔を見せていた。
油断すると暗闇に溶けてしまいそうなつかさの黒いパジャマは、しっかり月明かりを浴びて僕の目に真っ直ぐ飛び込んできた。
「ちゃんと来るって約束したから」
彼を見下ろしてそう言うと、つかさは黙って一度だけ小さく頷いた。
薄い月明かりは真っ暗なはずの部屋の中を必死に照らしていた。 つかさの両腕を包み込む真っ白なギプスは、暗い部屋の中でも何故だか輝いて見えた。
この時病室の中はちょうどいい気温に保たれていた。 今日はわりと涼しい日だったから、エアコンのスイッチが切れていても空気は快適だった。

 僕はベッドの横にある低い棚の上に四角いリモコンが置いてある事にすぐ気付いた。 そしてそれにゆっくりと右手を伸ばすと、つかさの声が僕の手をピタリと止めさせた。
「テレビは点けないで」
僕の右手はあと少しでリモコンを掴むところまでいっていたのに、僕はゆっくりとその手を下げた。
ベッドの上に横たわるつかさは、もう微笑んではいなかった。
「見たいテレビがあるんじゃなかったの?」
僕たち2人は内緒話をするような低い声で言葉を投げ合っていた。でも僕のその質問に返事が返ってくる事はなかった。
カーテン越しの月明かりが、つかさが初めて見せる表情を僕の目に焼き付けた。
この時彼はなんとも悩ましげな目でベッドの横に立つ僕を見上げていた。
彼のつり上がった目にはいつものコワモテな印象がまったくなかった。その目は僕に何かを訴え掛けているように思えた。
月明かりに照らされる彼の目はわずかに潤んでいて、ふっくらした唇はその逆にひどく渇いているようだった。

 「最後のお願い、聞いてくれるか?」
彼は渇いた唇を少しだけ動かして珍しく遠慮がちにそう言った。
その後つかさは何故か右足の膝を折り曲げた。でも左足はベッドの上に真っ直ぐ伸ばされていた。 彼が片足の膝を折ると、ベッドの上にピンと張られたシーツがほんの少し緩んだ。
「和雪、いかせて」
低い声で彼がそう言った時、僕は最初その意味が全然分からなかった。 するとつかさは僕の理解不足をすぐに悟った様子で、今度はもっと分かりやすい言い方に変えた。
「俺、もう長い間入院してるから相当たまってるんだ。だから……お前の手でいかせてほしいんだ」
つかさはそう言って、潤んだ悩ましげな目でもう一度僕を見上げた。
その時、静かだった病室の中にドックン、ドックン、とものすごく大きなノイズが流れ始めた。 それは僕の心臓が大暴れする音に間違いなかった。

 僕たちは多分、月明かりの下でかなり長い間見つめ合っていた。
この時僕は何も言えなかった。ただ両手の拳を握り締めて、床の上に立っている事しかできなかった。
つかさは唇だけではなく喉も相当渇いていたようで、彼が何度も唾を飲み込むのが分かった。
つかさの喉ぼとけがわずかな動きを見せるたびに、僕の耳にしか聞こえないノイズがどんどん大きくなっていった。
彼はやがてきつく目を閉じてふっくらした唇を噛んだ。何かを待つようなその仕草は、僕の心を揺さぶった。
頭の中はすごく熱くなっていた。僕は立っている事が難しくなり、倒れ込むようにしてソファーへドカッと腰掛けた。
「こんな事、他の奴には頼めないじゃん。だって、誰でもいいわけじゃないから。俺……好きな人じゃないと絶対に嫌だから」
誰でもいいわけじゃない。
つかさが口にしたその言葉が、僕の心に矢のように突き刺さった。
彼は他の人ではなく僕に助けを求めていた。つかさは明らかに僕の手を欲しがっていた。僕にとっては、その事実が何よりも重要だった。
高鳴る胸を右手で押さえながらベッドの上の彼を見つめると、頬がやけに熱くなって掌にわずかな汗が滲んだ。
月明かりに照らされるパジャマ姿の彼は、我慢しきれないといった様子で落ち着きなく右足を曲げたり伸ばしたりしていた。
彼の足とシーツの擦れ合う音が、僕の心臓の音に重なった。
その瞬間、僕は冷たい床に膝をついて彼の黒いパジャマに手を伸ばしていた。

 僕は汗が滲む両手で、まるで医者のようにつかさのパジャマのズボンを足首のあたりまで下ろした。 僕の敏感な指先は、パジャマに重なったトランクスが一緒に脱げた事をちゃんとよく分かっていた。
こうして薄い月明かりの下に彼のものが晒された。
それはすでに大きくなって立ち上がっていた。そしてその先端には透明な蜜が光っていた。
つかさの足は真っ直ぐで、太ももやふくらはぎには程よい筋肉が付いていた。
右手の指でつかさのものに触れると、それがすごく熱くなっていて驚いた。
マスターベーションの要領で小刻みに指を動かすと、つかさは興奮して体を大きくのけぞらせた。
「あ、あぁ……」
彼の声とベッドの軋む音が僕の心臓の音をかき消した。
僕は決して指を休ませずにつかさの顔を観察していた。
彼はきつく目を閉じて眉間にシワを寄せ、すごく苦しそうな表情を見せていた。 僕の掌に汗が滲んでいるように、つかさの額にも汗が光っていた。
僕の人差し指が彼の先端に触れると、つかさは大きく泣き叫ぶような声を上げた。 彼がベッドの上で両足をバタつかせると、そのたびに緩んだシーツにシワが寄った。
カーテン越しの月明かりは彼の眉間のシワを薄く照らし、シーツに寄ったシワも同じようにやんわりと照らしていた。
彼の先端から溢れ出す蜜が僕の指先をびっしょり濡らした。 その潤滑油を利用して更に熱いものを擦り付けると、つかさの体が不定期に何度もブルッと震えた。
わずかに触れる彼の太ももは、汗をかいてしっとりと濡れていた。
「あぁ……」
つかさのふっくらした唇の奥から次々と上ずった声が溢れ出した。それは普段の彼からは想像できないほど甘く掠れた声だった。
「いく……」
つかさの掠れた声がそう言うと、僕は興奮してもっともっと素早く右手の指を動かした。
悲鳴に近い彼の声が病室の中に何度も響き、つかさは紅潮した頬を枕に擦り付けた。

 「ん……」
その瞬間、彼は意外にも静かだった。
小さな呻き声が微かに僕の鼓膜を揺らした後、彼の先端から大量の精液が溢れ出して僕の右手を生温かく濡らした。
つかさの体は小刻みに震えていた。
この時彼の眉間のシワが突然消え、きつく閉じた両目がわずかに開いたような気がした。
そして僕は、びっしょり濡れた右手の動きをやっと止めた。
目線を彼の下腹部に向けると、すっかり性欲を吐き出したそれが徐々にしぼんでいくのがよく分かった。
薄い月明かりは彼の太ももやヘアーのあたりに飛び散った白い精液を余すところなく照らしていた。
黒いパジャマに包まれた彼の腹は小さく上下運動を繰り返していた。 思いを遂げたつかさは、ゆっくりと深呼吸をしているようだった。


 僕はベッドの横の棚の上に箱に入ったティッシュを見つけ、それを使って奇妙な性的行為の後始末を行った。
小さくしぼんだつかさのものをティッシュで拭いてあげると、彼の体が一瞬だけ小さくピクッと動いた。
つかさは僕がすべての処理を終えるまで何も言わずに目を閉じているだけだった。 薄い月明かりは、赤く染まった彼の頬を柔らかく照らしていた。
ティッシュを持った手を彼の足に滑らせると、つかさの肌の弾力が僕の指に直に伝わってきた。
その柔らかい肌がベトベトした精液で汚れたのは、もしかして僕のせいだったのかもしれない。
太ももとヘアーに飛び散った大量の精液をすべて拭き取ると、僕はつかさの黒いパジャマのズボンを上げた。
するとすべてがその行為を行う前の状態に戻ったような気がした。 でも細かくシワの寄った白いシーツが数分前までの現実を物語っていた。
つかさがやっと目を開けたのは、僕が彼の体に布団を掛けてあげた時の事だった。
この時つかさはすごくスッキリした顔をしていた。少し前まで赤かった頬は白い色に戻りつつあり、彼は随分落ち着いた様子だった。
使用済みのティッシュを丸めてゴミ箱に投げ込んだ後、僕はゆっくりと冷たい床の上に立ち上がった。
つかさは僕を見上げて少し恥ずかしそうにこう言った。
「ありがとう」
そんなふうに言われると、なんだか僕まで恥ずかしくなった。つかさの頬は白い色に戻っていたけど、僕の頬はきっと赤かった。

 僕はこのまま病室に居座って気まずい思いをする事は避けたかった。だからもう彼に背を向けて自分の病室へ戻ろうと思っていた。
しかし彼は何を思ったのかもう一度布団を蹴ってゆっくりとベッドの上に体を起こした。 彼に蹴られた布団は、またもやベッドの隅に追いやられてしまった。
月明かりがたくさんシワの寄ったシーツをもう一度照らすと、僕はもっと恥ずかしくなった。
つかさは冷たい床の上に両足を下ろしてベッドの端に腰掛けた。
綺麗に整っていたはずの彼の髪は少し乱れて所々が外側に跳ねていた。 つかさは彼の前に立つ僕の顔をぼんやりと見上げ、口許だけで軽く微笑んだ。
僕たちが言葉もなく見つめ合うと、病室の中に不気味な静寂が走った。
この時僕たちはすごく近い距離にいた。つかさが俯くと、彼の額が僕の足にコツンと当たった。
僕は気持ちと裏腹になかなかそこから動き出せずにいた。そして、そんな事になるとますます動けなくなりそうだった。
太ももに彼の額の感触が伝わると、静かだったはずの病室にまたドックン、ドックン、と大きなノイズが流れ始めた。
「……脱いで」
僕の耳にしか聞こえないノイズと2人の耳に聞こえるているはずの彼の声が重なった。
眼下に見えるのはつかさの小さな頭であり、足に触れているのは彼の額に間違いなかった。
「俺、手は使えないけど口は達者だから……早く脱いで」
この時僕は、彼の口にした言葉の意味を瞬時に理解していた。