8.

 退院する日の朝。空は快晴だった。
病室の窓を覆うカーテンを開けると朝の強い日差しが目に突き刺さり、僕は慌ててもう一度カーテンを閉じた。
窓に背を向けて病室の床の上に立つと、背中が太陽に照らされて少しポカポカした。

 午前6時30分。この時間はやけに廊下が騒がしかった。 6時の起床時間を過ぎると、たくさんの入院患者が一斉にトイレや洗面所へ向かうからだ。
開け放たれた病室のドアの向こうには、廊下を歩くパジャマ姿の人たちが次々と見えた。 これはもうすっかり見慣れた朝の穏やかな風景だった。パタパタいうスリッパの音が、何重にもなって僕の耳に心地よく響いた。
この時隣のベッドは空いていた。同室のお爺さんも少し前に起き上がって洗面所へ行ったばかりだったからだ。
真っ白な病室はカーテン越しの朝の日差しに明るく照らされていた。
白い壁。白い天井。白いベッドに白いカーテン。
僕はもうすぐこの白い世界を飛び出して、退屈な現実の世界へ戻っていく。
入院したばかりの頃は病院での暮らしが退屈でたまらなかったけど、今の僕にはこれから長く続く病院の外での暮らしの方がずっとずっと退屈に思えた。
しばらくすると、廊下を歩く人たちのスリッパの音に混じってカツカツカツと力強い靴音が病室に近づいてきた。
いつも忙しい母さんは、6時半にはもう僕を迎えにきてしまったのだった。

 「おはよう。退院の準備はできてる?」
母さんが病室へやってくると、穏やかな病室の空気が一瞬にして変わった。
彼女の姿は退院する息子を迎えに来た母親のそれではなかった。
髪をアップにして体のラインがはっきりと出る黒いワンピースを身に着け、 不安定なハイヒールをはく彼女は病室へ来るなり僕の姿を見て不機嫌そうに顔をしかめた。
午前6時に起きて検温と洗顔を済ませ、窓辺でぼんやりしていた僕はまだパジャマ姿だった。
「まだそんな格好をしてるの? 早く着替えなさいよ。荷物はまとめたの?」
僕は母さんに責めるような口調でそう言われ、ただ黙って首を振った。
「昨夜のうちに帰る準備をしてるかと思ったのに……」
母さんはブツブツ文句を言いながらベッドの横の棚に近づき、その引き出しを開けて次々と僕の私物を取り出し始めた。
母さんが急いでいるのは明らかだった。彼女は引き出しの中を片付けながらもしょっちゅう腕時計にチラチラと目をやっていた。


 僕は母さんの背中の後ろを音もなくすり抜け、廊下を歩く人ごみに混じってつかさの病室へと急いだ。
僕は退院する前にどうしてももう一度彼と会いたかったんだ。
朝の廊下はとても明るかった。それは各病室のドアの内側から朝の強い日差しがいっぱい廊下に漏れ出していたからだ。
でもつかさの病室がある奥の廊下はそれほど明るいとはいえなかった。 ただ僕にはその理由が分かりきっていたから、そんな事はもう気にも留めなかった。
「入るよ」
つかさの病室の前に立った僕は、いつものようにちゃんと彼に声を掛けてから両手で素早くドアを開けた。
すると僕は窓の向こうから差し込む朝日に眩しく照らされた。 ベッドの向こうにある窓のカーテンは、この時すべて開けられていたのだった。
明るい病室へ足を踏み入れると、僕は急いで低いベッドへ近づいた。
ベッドの上には白い布団に覆われた膨らみがあった。僕はそれを見てつかさがベッドで横になっている事を確認した。

 その時つかさはスースーと寝息を立てて眠っていた。
6時の起床時間には検温のために起こされているはずだから、彼は恐らく二度寝をしていたのだった。
白い枕に頭を沈め、仰向けになって眠る彼の顔はすごく子供っぽく見えた。
寝癖のついた髪があっちこっちに跳ねていて、つかさの目尻は垂れ下がり、ふっくらした唇の端は少しだけ上を向いていた。 彼の無防備な寝顔は、こうしていつも微笑んでいるかのようだった。
かわいい。
眠っている時の彼を見て、僕はやっぱりそう思った。
でものんびりとその寝顔を見つめている余裕はなかった。この時僕には時間がなかったんだ。
僕はつかさを起こして一言声を掛けようと思い、朝日に照らされる彼の白い頬にスッと手を伸ばした。
するとその時、低い棚の上に置いてある青いティッシュの箱が横目に見えた。 そしてなんとなく視線を落とすと、ゴミ箱の中に丸まったティッシュが大量に放り込まれているのが見えた。
すると昨夜の出来事が鮮明に思い出されて急に頬が熱くなった。 今の僕の立ち位置は、昨夜自分が立っていたところとまったく同じ場所だった。


 「なぁ、早く脱いで」
昨夜つかさは僕の足に額を押し当て、決して顔を上げずにそう言った。
彼がベッドの上に座り直すと、ただでさえシワだらけになっていたシーツにますますシワが増えた。
薄い月明かりは近距離で向き合う僕らを静かに照らしていた。
あの時つかさはきっと気付いていた。僕の体の一部分が、はっきりと反応を示していた事を。
「絶対いい気持ちにさせてやるから……早く脱いで」
つかさの熱い息がパジャマの生地を通り越して僕の太ももに降りかかった。
こんな事はもうやめにしてさっさと自分の病室へ戻るか。それとも欲望に身を任せて彼の言う通りにするか。
僕はあの時、頭の中でそんな葛藤を繰り返していた。 でもなかなか結論を出す事ができず、カーテンの向こうに存在する丸い月に向かって何度も何度も問い掛けた。
僕はいったいどうすればいいの?
でもつかさの笑顔に似た昨夜の月は、決して何も答えてはくれなかった。
「俺、誰でもいいわけじゃないよ。いつもこんな事してるわけじゃないし」
誰でもいいわけじゃない。
つかさはその言葉でまた僕の心を揺さぶった。僕らを照らす月の代わりに、つかさが僕に答えをくれた。
僕だって、決して誰でもいいわけじゃなかった。昨夜の僕はきっと、つかさじゃないと絶対に嫌だった。
ただ明るい朝日に照らされて昨夜と同じ位置に立つと、自分に何故あんな大胆な事ができたのか分からなくなった。 でもそっと目を閉じると、すぐに昨夜の自分を理解する事ができた。
昨夜はきっと、静かで暗い病室の雰囲気が僕にあんな事をさせたんだ。 カーテン越しの薄い月明かりが……僕にあんな事をさせたんだ。

 僕は体の奥から湧き上がる性欲に勝つ事ができなかった。
あの時は恥ずかしかったけど、本当に恥ずかしかったけど、僕は汗ばむ両手でゆっくりとパジャマのズボンを下ろした。 僕の敏感な指先は、パジャマに重なった綿のトランクスが一緒に脱げた事をちゃんとよく分かっていた。
そして、薄い月明かりの下に僕のものが晒された。
とっくに立ち上がっていた僕の先端には、当たり前のように透明な蜜が光っていた。
ベッドの端に座っていたつかさが、何故だかクスッと小さく笑った。
その笑い声はちゃんと耳に届いていたけど、その時はもう目を閉じていたから彼がどうして笑ったのかはよく分からなかった。
つかさの小さな笑い声を最後に、ドックン、ドックン、というノイズ以外は何も聞こえなくなった。
そして遂につかさの柔らかい舌が僕の先端に触れた。僕は小さく息を呑んで彼を受け止めた。
あの時僕は声を上げたりはしなかったんだろうか。それは僕には分からない。
もしそうだったとしても、耳に響く大きなノイズがその声をかき消していたに違いない。 だって、僕には自分の声を聞いた覚えがまったくないのだから。

 あの時の僕は狂ったように感じていた。つかさは僕をいとも簡単に狂わせてしまったのだった。
彼の舌は最初は思わせぶりに少しずつ少しずつ僕の先端を舐めた。 もしかしてつかさは僕の蜜を味わっていたのかもしれない。
つかさの舌が少しでも僕に触れると、体中に電流が流れてきつく閉じた瞼の奥に真っ白な光が見えた。 そしてそれは何度も何度も続いた。
僕はまた立っている事が難しくなり、そのまま背中の後ろのソファーへ倒れ込んでしまいそうになった。
するとその時つかさのふっくらした唇が僕の先端を強く吸った。瞼の奥には、一筋の輝く光が見えた。
僕は息を止め、奥歯を強く噛み締めて必死に射精を堪えた。 限界はあっという間に訪れたけど、もっともっとその時を楽しみたかったからだ。
僕は腰を前に突き出して、汗ばむ両手でつかさの頭を引き寄せた。 僕は前日ブローしてあげた彼の髪を自らの手で大きく乱してしまった。
体中が熱くなって、頭の中はもう真っ白だった。
彼はふっくらした唇でしっかりと僕のものを捉え、小さな頭をゆっくりと前後に揺らした。そして僕も彼の動きに合わせて腰を前後に揺らした。
つかさの口の中でピストン運動が繰り返された。爆発寸前の僕のものとつかさの舌は彼の口の中で何度も擦れ合った。
その時はすごく気持ちがよくて、体中を駆け巡る快感に身を任せていた。
そして本当の限界が体に襲い掛かった時、僕はピタッと腰の動きを止めた。
僕はつかさの頭を更に強く引き寄せ、ふっくらした唇の奥にたっぷりと精液を流し込んだ。
あまりにも体が熱くて、首筋をいくつもの汗の雫が流れ落ちていった。しっかりと閉じた瞼の奥には、もう光も何も見えなかった。

 有り余る性欲の処理が済むと、少しずつ頭が冷静さを取り戻してきた。
限界が訪れるのも早かったけど、夢から醒めるのはもっともっと早かった。
僕はつかさの頭を掴んでいた両手の力を緩め、ゆっくりと瞼のシャッターを開いた。するとそこには非現実的な現実が存在していた。
視線を落とすと、つかさの唇がまだ僕のものを捉えているのが分かった。その時僕たちは間違いなく1つになっていた。
月明かりは1つになった僕らを照らしていた。 つかさの乱れた髪も、尖った鼻も、僕の足も、すべてを現実のものとして薄い光で照らしていた。
僕は体中にたっぷり汗をかいていた。 病室の中はちょうどいい気温に保たれていたはずなのに、それでもひどく汗をかいていた。
つかさの唇は間もなく僕を離れ、彼はゆっくりと頭を後ろへ下げた。
すると徐々にしぼんでいく僕の先端と彼のふっくらした唇が白く細い糸でつながった。僕たちはまだ完全に離れてはいなかったんだ。
つかさは薄い月明かりの下で静かに僕を見上げた。彼はいつもの真ん丸な笑顔を見せていた。
ただいつもと少し違っていたのは、そのふっくらした唇が少し濡れて光っていた事だった。 つかさは目尻を垂れ下げてにっこり微笑み、長い舌で濡れた唇をゆっくりと舐めた。
彼はあの時いったいどうしてあんなに嬉しそうに笑っていたんだろう。
もしかして僕が吐き出した精液はつかさの渇いた喉を潤したんだろうか。


 昨夜の一部始終を回想すると、羞恥心が込み上げてますます頬が熱くなった。
僕はつかさの頬に伸ばした手を途中で引っ込めた。 昨夜と違って、朝の明るい日差しはきっと僕の赤くなった頬を彼の目に映し出してしまうから。
結局僕は彼を起こさずに病室を出る事にした。
つかさに真っ赤な頬を見られたくなかったし、今彼を起こしてもいったい何を言ったらいいのか分からなくなってしまったからだ。
それから僕は少しの間つかさの子供っぽい寝顔に見とれていた。
朝の日差しを浴びるその頬は真っ白で、ふっくらした唇は薄いピンク色だった。
尖った鼻はわずかな影を作り、茶色く染めた髪の根元には黒い部分が随分目立っていた。

 彼を起こさずに帰る決心をした後、僕はティッシュの箱が乗せられている棚の引き出しをサッと開けた。 するとその中に安っぽい黒のボールペンを発見した。
僕はそれを右手で掴み、青いティッシュの箱の側面に自分の携帯電話の番号をサラサラと書いた。
そして僕は足音も立てずに思い出いっぱいの病室を後にした。