3.

 その翌日。8月にしては少し涼しい晴れた朝。
僕はその朝、美容室へ行って生まれて初めて髪を染めた。それはもちろん前日凛に言われた言葉が僕の心をくすぐったからだった。
僕は美容室の椅子に座って鏡に映る自分と向き合い、自分が変身していく様子をずっとずっと眺めていた。
朝1番で美容室へ行ったせいか、あまり広くない店内には他に客がいなかった。
ガラス張りの店内に入り込むわずかな日差しが鏡を照らし、それと同時にどんどん変わっていく僕を照らしていた。
ドレッドヘアーの若い美容師が、きつい匂いを放つカラーリング剤を次々と髪に塗っていく。 僕は鏡越しに彼の手元を見つめてすごくワクワクしていた。
この時、カラーリングを始める前に少しだけ切った髪が足元に散らばっていた。 それほど短く切ったわけではなかったのに、頭がすごく軽くなったような気がしていた。

 カラーリングを終えてブローを済ませ、変身後の自分を見た時、僕は大満足した。
目の上あたりで切り落とされた不ぞろいな前髪も、肩の上で落ち着いている髪も、すべてが淡い茶色に染まっていた。
耳の上あたりから髪に指を入れると、やっぱりすごく軽い感じがした。
鏡の中の自分は垢抜けた少年というイメージだった。
顔の輪郭がシャープに見えたし、元々低い鼻が心なしか少し高くなったように思えた。


 美容室を出た後、僕はすぐに凛と待ち合わせしている本屋へ向かった。
その途中にどこかの店のウインドーの前を通ると、そこに映る自分を見つめてすごく嬉しくなった。 軽くなった髪が自分に似合っている事が、本当にすごく嬉しかった。
よく晴れた空の下 僕は鼻歌を歌いながら凛と待ち合わせしている本屋へ向かって走った。 ほんの少しだけかっこよくなった自分を、早く彼に見せたかったからだ。

 ビデオ屋の横にある広い本屋。凛は僕との待ち合わせにいつもその本屋を使った。
奥行きが広い本屋の中はとても静かで、やけに涼しかった。 吹き抜けの天井から明るい光が店内を照らし、そのおかげでタイルの白い床がピカピカに光っていた。
本屋の1番奥の、マンガが並んでいるスペース。
僕は店内へ入るといつも真っ直ぐにそこへ向かった。凛は大抵そこでマンガの本を立ち読みしているからだ。
そして僕はすぐに凛の背中を見つけた。この日は涼しかったせいか、彼は赤い長袖のパーカーを着ていた。 凛は僕が背後に近づいている事に気づかず、俯いてマンガの本を読んでいた。
一歩一歩彼に近づくと、僕は少しドキドキしてきた。変身した僕の姿を見て凛が何というか分からなかったからだ。
それでも僕は、何故だかすぐに走り出して凛の背中へ抱き付きたい衝動に駆られた。 でもそんな事ができるはずもなく、僕は静かに凛へ近づいて彼の赤い背中をそっと叩いた。
マンガの本を手にして彼が振り返った時、僕のドキドキは最高潮に達していた。
僕はこの時、彼の視線が自分の髪に集中している事をはっきりと感じ取っていた。
その感触は決して悪いものではなかった。 凛は最初は知らない人を見るような目で僕を見つめていた。彼は昨日と違う僕を見てひどく驚いた様子だった。
でも驚きの表情は徐々に和らぎ、やがて彼は日に焼けた顔をクシャクシャにして笑ってくれた。 凛の唇の奥に真っ白な歯が見えた時、僕はすごくほっとした。
「かっこいいじゃん」
僕はこの一言が欲しくて美容室へ行ったようなものだった。
凛はさっき僕がやったのと同じように細い指を僕の髪に滑らせた。 彼の指の感触が頭皮に伝わると、その温もりが僕をまたドキドキさせた。


 この日はとても長い1日になった。
僕と凛はしばらく本屋で立ち読みして、その後はゲームセンターへ行ったり街をフラついたりして昼間の時間を過ごした。 でもそのどれもがメインイベントではなかった。
この日の夜は近くの公園で大きな花火大会が開催される事になっていた。
凛はちゃんとその事を知っていて、僕を花火見物に誘ってくれていたのだった。

 外が暗くなると、公園へ続く道が大渋滞になった。
道路の上には車が列を作り、歩道の上はたくさんの人で埋め尽くされていた。 その中には浴衣を着た女の人もいっぱいいたし、ペットの犬を抱いて歩く人も多く目に付いた。
公園へ続く道沿いには焼きそばを売る屋台や綿アメ屋などが出店していた。 僕と凛は焼きそばを1パックだけ買い、それからゆっくりと歩道の上を歩いていった。
夜空には少し雲が出ていたけど、涼しいその夜は花火にはうってつけだった。

 しばらく公園へ続く道を歩いていくと少し風が出てきた。 ポロシャツ1枚しか着ていなかった僕は、その時ちょっとだけ肌寒さを感じた。でもその事は口にせず、黙って凛の横を歩き続けていた。
するとある時、僕は突然誰かに背中を押されて体のバランスを崩した。
僕の背中を押したのは半ズボンをはいた男の子だった。 妹と同じ年ぐらいに見えたその子は、歩道の人ごみをかき分けてどんどん前へ進んでいった。
彼に背中を押された事で僕の体はよろけてしまい、一瞬車の多い道路へ飛び出しそうになった。
その時けたたましいクラクションがすぐそばで鳴り響いた。 その音があまりにも大きくて一瞬頭がクラクラし、車のライトが目に入って目の前が真っ白になった。
「危ない!」
僕の体が大きくよろめいた時、凛の手が僕の腕を強く掴んだ。 その時彼が腕を引っ張ってくれなかったら、恐らく僕の体は道路に投げ出されていた。
なんとか体のバランスを保って歩道の端に立った時、車がすぐ横を通り抜けていくのを見て一瞬ゾッとした。
「大丈夫か?」
その時凛は僕の腕をがっちり掴んで目の前に立っていた。 車のライトに照らされる彼の表情はとても険しくて、僕は思わず言葉を失った。
でも彼が険しい表情を見せたのはその時だけだった。 凛の眉間に浮かぶシワはすぐに陰をひそめ、するどい目つきは徐々に優しいものへと変わっていった。
「あまりフラフラするな。ちゃんと俺のそばにいろよ」
その言い方は、僕が妹にものを言う時と同じ口調だった。
僕は手首の少し上のあたりに凛の手の温もりをはっきりと感じていた。彼に強く掴まれた腕は、少しだけ痛かった。
この時僕がドキドキしていた事を……凛はきっと知らないのだろう。
「さぁ……行くぞ」
それから僕たちは再び歩道を歩く人ごみに混じった。
その後凛はできるだけ歩道の内側を歩くように心がけていた。彼は公園へ着くまでずっと僕の腕を離さなかった。
少し前を歩く凛の金色の髪が涼しい風に揺れていた。周りの人たちの笑い声が、風に流されて僕の耳を通り過ぎていった。
この頃凛は僕にとってかけがえのない人になっていた。 凛は大事な友達で、ある時は兄貴で……そして、時々恋人のような存在だった。

 公園の広い芝生の上には花火見物をする人の姿がたくさんあった。
そこにいる人たちは花火が打ち上がる前から芝生に腰掛けて弁当を食べたりお酒を飲んだりしていた。
僕と凛はその隅の方に陣取り、冷たいフェンスに寄り掛かって芝生の上に足を伸ばした。
すると凛はまたタバコを口にくわえて火をつけた。芝生の上を舞う涼しい風が、彼の持つライターの火をわずかに揺らしていた。
「少し雲があるけど、花火は綺麗に見えそうだな」
凛はタバコの煙を吐きながら夜空を見上げてそうつぶやいた。芝生の上をドタバタ走り回る子供の足音が、彼のつぶやきと重なった。
その後凛はいつものように火のついたタバコを僕に差し出した。 僕がそれを受け取ると、手ぶらになった彼は焼きそばの入っている透明なパックをゴソゴソと開け始めた。
少し湿ったフィルターを口にくわえると、僕は勢いよくタバコの煙を吸った。 でもあまりに勢いがよすぎて、少しだけ喉が痛くなった。
僕はその時凛とカラオケに行って喉が痛くなるまで歌った日の事を思い出していた。 すると、彼との不思議な縁を意識するようになった。
あの時僕がスクールゾーンを歩いていたら、凛と話をする事はなかったかもしれない。
あの時僕がたくさんの友達に囲まれて堂々とスクールゾーンを歩いていたら……凛とは友達になれなかったかもしれない。
転校してからの僕は、なかなか友達ができなくてすごく淋しい思いをしていた。 でもこの時、それでよかったと思えるようになった。
あの時僕が1人ぼっちだったから、凛と友達になる事ができた。そう思えた時、淋しかった日々がいい思い出に変わった。

 ドーン。
突然あたりに大きな音が響き、僕たちは一斉に空を見上げた。
するとそこには緑色に煌く花火の姿があった。
ドーン。
もう一度その音が響くと、今度は夜空に真っ赤な花火が打ち上がった。
僕は時々タバコを吸いながらしばらく黙って夜空の花火を見上げていた。
でも長い時間夜空を見上げていると、しだいに首が疲れてきた。そして僕は、隣に座っている凛の姿をじっと見つめていた。
彼は焼きそばの入った透明なパックを片手にずっと夜空を見上げていた。 頭上で花火が煌くたびに、凛の金色の髪がそれと同じ色に染まった。
涼しい風に髪が乱れても、僕がタバコを吸い終わっても、凛はじっとしてぼんやりと夜空を見上げていた。
この時彼は、どこか遠くを見つめていた。花火を見ているというよりも、花火の向こうにある遠い夜空を見つめているような気がした。
こんな時は、何故だかすごく不安になった。
彼と海に行った日、僕は深みへはまっていく凛の傷ついた背中を見つめていた。 でもあの時凛は遠いところを見つめているような気がした。 海よりももっと遠くの、遥か彼方を見つめているような気がした。
僕はあの時遠くへ行ってしまいそうな凛の心を取り戻したくて、思わず彼の背中に飛び乗った。 そして僕はこの時、決して自分を見ない凛の腕を遠慮がちに揺すった。
「どうした?」
腕を揺すられた凛は、そう言ってすぐに僕の方を見てくれた。凛の細くて優しい目は、すぐそばで僕を見つめてくれていた。
その時、強い風が吹いて凛の髪が大きく揺れ動いた。そして茶色に染まった僕の髪も同じように揺れた。
夜風は少し冷たく感じた。8月だというのに、この夜は本当に涼しかった。

 「寒い……」
そう言って俯くと、不意に肩に温かいものを感じた。
凛を見つめると、赤いパーカーを着ていたはずの彼がいつの間にかティーシャツ姿に変身していた。
「寒いんだろ? 袖を通せば?」
彼にそう言われた時、自分の肩に掛けられたのが凛のパーカーである事を僕は知った。
体中に凛の温もりが伝わり、心の中まで熱くなる。彼はこういう事をサラリとやってのけるかっこ良さを持っていた。
ドーン。
この時、また夜空に花火が打ち上がった。でも僕は空を見上げる事はせず、ただじっと凛の目を見つめていた。
「凛は寒くないの?」
「俺は暑いよ」
凛はそう言って穏やかに微笑んだ。でも彼の細い腕には鳥肌が立っていた。
「早く着ろよ。風邪ひくぞ」
彼の手が僕の腕を持ち上げ、サイズの大きそうなパーカーの袖にその腕を通した。
僕はその間もずっと凛だけを見つめていた。夜空に煌く花火の幻影が、サラサラな金色の髪に反射していた。 ブカブカなパーカーを着せてもらうと、僕は凛の香りに包まれた。
「焼きそば食うか?」
赤いパーカーは袖が長くて、僕の手はその中に埋もれていた。 それに気づいた凛は、パックに入った焼きそばを割り箸で拾い上げ、それを僕に食べさせてくれた。
口の前へ運ばれてきた焼きそばをパクッと口に入れると、それが冷え切っている事はすぐに分かった。 冷え切った麺と、冷え切った肉。その冷たさが、僕の舌にすぐ伝わった。
「もっと食うだろ?」
冷たい麺を噛み締めていると、凛がそう言ってもう一度焼きそばを割り箸で拾い上げようとしていた。 その時また花火の打ち上がる音が響き、凛の髪が赤く染まった。
すごく不思議な事に、冷たい焼きそばを口に入れるとより一層心が温かくなったような気がした。 それはきっと、凛の優しさが僕の心に伝わったからだ。
「ほら、もっと食えよ」
両手が埋もれている僕の口に、割り箸に乗った二口目の焼きそばが運ばれてきた。
それを噛み締めると、凛がにっこり笑って僕を見つめてくれた。
金色の長い髪と、優しい目と、渇いた唇。そのすべてが、ちっぽけな僕をドキドキさせていた。


 花火を見終わって公園を出たのは午後10時頃の事だった。
花火の打ち上げは9時頃に終わっていたけど、公園を脱出するまでに1時間もの時間を費やしてしまった。
公園の出口はとても狭く、そこに人が殺到するためなかなか前へ進む事ができなかったからだ。
この時になっても僕は凛のパーカーを羽織ったままだった。それはもちろん彼がそうしろと言ったからだった。

 徹くんに偶然バッタリ会ったのは、人の多い歩道の上を歩き続けてコンビニの前へやってきた時の事だった。
「凛!」
明るいコンビニの前を凛と2人で通り過ぎようとした時、凛を呼ぶ彼の声が僕らの足を止めさせた。
その時徹くんは5〜6人の友達と一緒にコンビニの前でお喋りしていたようだった。 そのうちの2人はモノトーンの浴衣を着た綺麗な女の子だった。 コンビニの中は花火見物を終えたお客さんで賑わっているように見えた。
凛と一緒に足を止めると、徹くんは急いで僕らに駆け寄ってきた。
彼は温かそうなトレーナーを着ていて、その胸にはドクロをかたどったようなネックレスが光っていた。
「よぉ、転校生。久しぶりだな」
徹くんはそう言って僕に声を掛けてくれた。僕が笑うと、彼も笑顔を返してくれた。
「お前も花火を見に行ってたのか?」
凛がそう言うと、徹くんは小さく2度頷いた。その後彼は僕たち2人を遊びに誘ってくれたのだった。
「ヒマなら皆で遊びに行かないか? 転校生も一緒にどうだ?」
僕はこの時、隣にいる凛の顔を見上げた。
僕は凛が行くなら徹くんの友達と遊びに行ってもいいと思っていた。 でも彼が気乗りしないのならもちろん僕も行かないつもりでいた。だけどこの時、凛は思ってもみなかった事を口にした。
「こいつは俺たちとは違うんだ。もう遅いから……家に帰してやらないと」
伏し目がちに凛がそう言うと、徹くんが僕の顔をチラッと見て納得したように2度頷いた。
今の今までいい気分だったのに、凛の一言で僕の心は乱れた。急に胸がズキンと痛んで、息をする事さえ苦しくなった。

 「凛、最近山岡と話してるか? 全然連絡が取れないんだけど」
「いや。俺はあいつとは話してない」
「そうか。あ、そういえば真一がお前に会いたいって言ってたぞ」
「だってあいつ、部活で忙しいんだろ?」
「うん。でも1回電話してやってくれよ」
「あぁ、分かった」
凛と徹くんは僕の心の変化にまったく気づかず、しばらくそんな会話を続けていた。
僕は2人の話についていけなかった。2人の間には僕が入り込む隙間なんかこれっぽっちもなかった。 彼らが口にするのは、僕の知らない人たちの名前ばかりだったからだ。
この時僕は凛のパーカーを羽織ってそこにいた。凛の温もりに包まれてそこに立っていた。 バカな僕は、たったそれだけで彼のすべてを独り占めしたような気分になっていた。でもそれは僕の勝手な思いだったに違いない。
赤茶色に染めた徹くんの髪は全体的にかっこよく立ち上げられていた。 彼と向き合う凛の金髪はサラサラで、その髪は涼しい風になびいていた。
僕の背後には歩道を歩く人たちの笑い声が響いていた。そして僕のすぐそばで凛と徹くんの笑い声が聞こえた。
僕の周りの人たちは皆楽しそうだったのに、僕だけが硬い表情でそこにいた。
凛と徹くんはすごく打ち解けていた。2人の穏やかな表情と仕草を見ればその事が本当によく分かった。
徹くんは時々ふざけて凛の腕を叩いたりする。すると凛はそれに応戦して彼を蹴りつけたりする。 徹くんが鼻で笑うと、凛は白い歯を覗かせて屈託のない笑顔を見せる。
僕はそんな2人の姿を見ている事にどうしても耐えられなくなった。
僕はこの時すごく悲しかった。
僕は凛と違う。そして凛の友達である徹くんとも違っている。凛はたしかにそう言った。
それは僕が転校生だから? 凛や徹くんと違ってよそ者だから?
すぐそばにいる凛が遠く感じた。彼と笑顔で語り合う徹くんも、すごく遠く感じた。 決して埋まらない凛との距離を意識した時、わずかに涙腺が緩むのを感じた。
「じゃあ僕帰るね。バイバイ、徹くん」
僕は歩道の上に彼らを残してそこから走り去った。凛にバイバイを言わなかったのは、彼の発言に対する僕のせめてもの抵抗だった。

 歩道の上には花火見物を終えて家路に着く人たちの姿がたくさんあった。
友達とお喋りしながら歩く人や、お母さんと手をつないで歩く子供。歩道の上にはそんな人たちがいっぱいいた。
彼らの横を走り抜けると、風に乗ってその人たちの笑い声が僕を追いかけてきた。
メチャクチャに走り続けて何度か道を曲がった時、正面から強い風が吹いて茶色に染めた僕の髪が大きく揺れた。
息を切らして真っ暗な道の真ん中に立ち止まった時、頬がやけに冷たくなっている事に気がついた。 僕の頬に零れ落ちた一粒の涙を、涼しい風が一瞬にして冷やしてしまったようだ。
僕は凛のパーカーの袖口で冷たい涙を拭った。わずかに濡れてしまった袖口に鼻を寄せると、凛の香りが僕の心を包み込んだ。
僕はこの時、凛に傷つき、凛に癒されていた。
凛は僕のすべてだった。僕の心を乱すのは彼しかいなかったし、僕を慰めてくれるのも彼しかいなかった。 僕の心にはもう凛の他には誰1人存在していなかった。


 この日はとても長い1日になった。僕が家へ帰ったのは午後11時近くの事だった。
この時すでにリビングは真っ暗だった。妹の由佳はもちろん、両親も寝室へ消えていた。
真っ暗なリビングに明かりを灯すと、その眩しさに目がくらんだ。
そして、こんな時だというのに突然お腹がググーッと鳴った。どうやらほんの少しの焼きそばだけでは僕のお腹は満たされなかったようだ。
どんなにショックな事があっても人は腹が減るものだ。僕はこの時、その事実を知った。
僕は仕方なく薄暗いキッチンへ行ってすぐに食べられそうな物を探した。そこで見つけたのは塩味のカップラーメンだけだった。

 僕はテレビも点けずにソファーに腰掛け、腕まくりをしてラーメンを食べ始めた。
しょっぱいスープを口に含むと、体が温まって涼しい外の風を忘れた。
夏休みに入ってから僕はほとんど毎日凛と2人で遊んでいて、家へ帰るのは大体午後10時頃と決まっていた。
ずっとそんなふうだったから、しばらく家族と一緒に夕食を食べた記憶がなかった。 そういう日々が続くと、母さんが僕のために夕食を残しておいてくれる事もなくなっていた。
体が温まって徐々に冷静さを取り戻すと、僕はまた不安に包まれた。
僕は凛にバイバイも言わず彼に背を向けた。 もしかして凛は僕の態度に腹を立てているかもしれない。彼はもう僕と一緒に遊んでくれなくなるかもしれない。
どうしよう。どうしてあんな事をしちゃったんだろう。
頭の中がその思いでいっぱいになると、口に放り込むラーメンの味がまったく分からなくなった。
凛が僕に背を向けたら、もう僕は学校へ行けなくなるかもしれない。 凛がそばにいてくれないと、僕はもう何もできない……
温かいスープの入った器を持ってテレビを見つめると、そこには垢抜けた少年の姿が映っていた。
茶色に染まった髪と、サイズの大きすぎる赤のパーカー。もう一度その袖口に鼻を寄せると、そこにはまだ凛の香りが残っていた。
昼間の僕は、ウインドーに映る自分の姿を見て1人でニヤけていた。 なのにその数時間後にこんな気持ちになるなんて、とても信じられない思いがした。

 真っ暗なテレビに映る垢抜けた少年。その少年の背後に人影が映し出されたのは、僕がちょうど夜食を食べ終えようとしている時だった。
真っ白なパジャマを着た母さん。髪を綺麗な茶色に染めた母さん。
その人の姿がテレビに映った時、僕の長い夜が始まった。

 「純也、遅かったのね。冷蔵庫に煮物があるのよ。気がつかなかった?」
僕は背後から母さんにそう言われ、気のない返事をして残り少ないスープをすすった。
今は誰とも話したくない気分だった。僕は1人の時間を邪魔されたくなかった。
なのに母さんはちっとも僕の気持ちを分かってくれなかった。母さんは何故だかソファーへ近づき、僕の隣へ腰掛けたのだった。
明るいリビングの中に、一瞬気まずい沈黙が流れた。僕は1人になりたくて、すぐにソファーから立ち上がろうとした。
「髪を染めたの?」
腰を浮かしかけた僕に、突然母さんがそう言った。
仕方なく母さんの顔を見つめると、その表情があまりにも険しい事に僕はひどく驚いていた。
僕が何も言わずにいると、母さんは僕に身を寄せて赤いパーカーの匂いを嗅いだ。すると母さんは力なくうなだれて大きなため息をついた。
「あんた、すごくタバコ臭いわよ。いったいどこでタバコを覚えたの? タバコを吸ったり髪を染めたり……まるで不良じゃないの」
そんなふうに言われた時、心の中がすごくモヤモヤした。
母さんは俯いて白いカーペットをじっと見つめていた。
いつも首の後ろで束ねられている母さんの髪は、寝る時だけは下ろされていた。 リビングを照らす照明の白い光が反射して、綺麗な茶色に染まったその髪はキラッと輝いていた。 恐らくこの時、僕の髪も同じように輝いていたはずだ。
金髪の凛は茶色に染めた僕の髪を褒めてくれた。なのに、僕と同じ髪の色をした母さんはきっぱりと僕を否定した。
「もしかして、全部あの金髪の子の影響なの?」
母さんが僕を見ずにそう言った時、モヤモヤしていた心の中に更に深い霧が立ち込めた。
あの金髪の子。母さんが言うその人は凛の事に間違いなかった。僕には他に友達なんか1人もいなかったからだ。
僕は凛を家族に紹介した事はなかったけど、きっと母さんは僕と彼が一緒にいるところをどこかで見かけたのだろう。
「……だったらどうだっていうの?」
この時僕は思わず母さんの挑発に乗ってしまった。 いつもなら母さんの小言ぐらい適当に受け流すはずなのに、その時だけはどうしても黙っていられなかった。 凛の事を悪く言う人は、たとえ母さんだって許せないと思った。
「純也は、昔は悪い事なんかしなかったじゃない。 あんたはいつもいい友達に囲まれてたのに……今はどうしてあんな不良みたいな子と付き合ってるのよ」
母さんはため息混じりにそう言った。 決して僕の目も見ず、ろくに顔を上げる事もせず、ただじっと白いカーペットを見つめて疲れ切ったようにそう言った。

 僕はこの時、頭に血が上るという感覚を初めて味わった。
頭の中がカッと熱くなって、やがてその熱が頬にまで伝わってきて……もうすでにモヤモヤした思いは爆発寸前だった。
手にしていたカップラーメンの器をテーブルの上にドン、と置くと、その中に残っていたスープがそこいら中に飛び散った。
すると母さんはビクッとして顔を上げた。彼女は大きく目を見開き、やっと僕の顔を見つめてくれた。 ぽっちゃりした母さんの頬は少し紅潮しているようだった。
「そんなに言うなら、僕を前の学校に戻してよ!」
普通に話しているはずのその声があまりにも大きくて、僕は自分に驚いていた。
たしかに僕は転校してから変わってしまったのかもしれない。 少なくとも以前の僕なら感情に身を任せて母さんを怒鳴りつけるような事は絶対にしなかった。
でも感情を表に出さないからといって何も考えていないわけじゃない。 僕にだって感情がある。母さんや由佳にも感情があるように、本当は僕だってずっと熱い思いを抱えていたんだ。
「僕は引越しなんかしたくなかった。転校だってしたくなかった。 ここへ引っ越す事は父さんと母さんが勝手に決めた事だろ? 母さんは今まで少しでも僕の気持ちを考えてくれた事があるの? 僕には友達がいっぱいいたんだよ。 同じクラスの皆ともすごく仲良くやってたんだよ。僕からその友達を奪ったのは母さんだろ? 勝手に引越しを決めて勝手に転校手続きをしたのも母さんだろ?」
右手が生温かいのはラーメンスープをかぶったせいだった。油っこい液体が手にまとわりついて、なんだかすごく不快だった。
この時母さんはとても悲しげな目をして僕を見つめていた。僕は母さんの目がしだいに潤んでいく様子をじっと眺めていた。
「今の僕には凛しかいない。僕の友達は凛しかいない。 それなのに、今度は僕から彼を奪うつもりなの? 僕が何もかも失ったら母さんは満足なの? 凛がいなくなったら、僕は1人ぼっちになるんだよ。 1人ぼっちがつらくて学校へ行かなくなったら、僕を前の学校へ戻してくれる? もしも母さんがそうしてくれるなら……僕はもう凛とは付き合わないよ」

 母さんは今にも泣き出しそうだった。眉を寄せ、唇と手を震わせ、ぽっちゃりした頬には今にも涙が零れ落ちそうだった。
僕が凛のパーカーの袖口で涙を拭いたように、やがて母さんも真っ白なパジャマの袖口で温かい涙を拭うのだろう。
僕はそんな母さんを見ている事に耐えられなかった。
この家には、僕の居場所なんかどこにもなかった。
僕はすぐに立ち上がり、母さんにバイバイも言わず、夜の街へと飛び出した。
家を出たってどこにも行く所なんかないのに、それでも僕は家を出た。