10.

 12月7日の朝。俺はウキウキしながら仕事をこなしていた。
今日の仕事が終われば、久しぶりに圭太と一晩中一緒にいられる。 そう思うと、知らず知らずのうちにフットワークが軽くなるというものだ。
だけどその後大事件が起こって…俺はその日、圭太との約束を破る事になる。

 パソコンを買った若い女の客が携帯電話を買い換えたいと俺に言ったのは、たしか午前11時頃の事だった。
俺は梱包し終えた商品を持ち、彼女を携帯電話の売り場へ案内した。
あらゆる機種がズラッと並ぶ携帯電話の陳列棚には色とりどりの商品があった。そこには、売り場担当者が2〜3人待機していた。
そのうちの1人はパソコンを買った小柄な客に近づき、すぐに商品の説明を始めた。そして俺は彼女が買ったパソコンを もう1人の担当者に預け、後はよろしく、と言って自分の担当するパソコン売り場へ戻ろうとしていた。
その時は平日の昼間だけあって、店内にそれほど多くの客はいなかった。
俺は、すぐに売り場へ戻るはずだった。
だけど…どこからともなく現れて携帯電話機が並ぶ棚へ近づく彼を発見し、一歩も動けなくなった。
彼は白いプラスティックの棚の前に立ち、最初に光沢のある黒い電話機を手に持った。
店内には蛍光灯の白い光が降り注ぎ、彼が手にした電話機にもその光が当たってキラキラしていた。
革のハーフコート。細身のジーパン。そして真っ黒な後ろ髪が肩の上で跳ね上がり…斜め後ろから見ると彼の尖った顎がすぐに 確認できた。でも、彼の顔の一部であるフレームの細いメガネはどこにも見当たらなかった。
そう思った時、ふとある思いが俺の頭をよぎった。
彼のメガネは俺の部屋にある。だから彼はメガネをかけていないんだ。
俺はその時、彼から5メートルぐらい離れた所に立っていた。
右の棚にはデジタルカメラが陳列され、左の棚にはカメラバッグが置いてあった。
「裕也…」
俺が小さく彼の名をつぶやくと、革のハーフコートを羽織った背中が一瞬ピクッとした。
彼は…キラキラ光る携帯電話機を手に握ったまま、ゆっくりと振り返った。
久しぶりに会う裕也は、以前と何も変わりがなかった。
優しそうな目も、尖った顎も、こけた頬も、真っ黒な髪も…何一つ昔と変わりがなかった。
ただ、その顔にメガネは見当たらない。
俺は彼の足りない部分をにぎっている自分がすごく誇らしく思えた。

 俺は裕也と再会した瞬間に圭太の事をすっかり忘れてしまった。
その日、裕也と待ち合わせをしたのは午後6時。
俺は夕方5時45分に仕事を終えるとさっさと制服を脱ぎ捨て、すぐ裕也に会いに行った。
彼は俺が勤める家電量販店の外でキラキラ輝くネオンの下に立っていた。
様々な色のネオンが輝くたびに、裕也の真っ黒な髪も同じ色に染まった。
俺たちは人々が行き交う歩道の上でしばらく見つめ合い…どちらからともなく歩き始めた。
ほんの10メートル並んで歩くと、俺はもう心地いい気分になっていた。
これだ。裕也といた時の俺がいつも感じていたのは、この心地よさだ。
でも、不思議だった。あんなに彼を欲して何度も裕也と寝る事を頭の中で想像したのに、いざ彼に会うとそんな欲求は遥か彼方へ 消えていった。
周りのざわめきも、歩くと時々ぶつかる彼の手も…今のままで何もかもが心地よかった。

 俺たちはその足で高校の頃よく通った喫茶店へ行った。
そこは都会の中にありながらあまり多くの人に知られていない、広くて静かな喫茶店だった。
俺が喫茶店のガラス戸を引くと、カランカランという懐かしい鈴の音が響いた。
裕也はその音を聞いてにっこり微笑み、それと同時に俺も笑顔になれた。
店の奥のゆったりしたソファーに座って向かい合うと、裕也はオーダーを取りに来たウエートレスに向かって パインジュース2つ、と きっぱり言い放った。
この店のパインジュースは最高だ。俺たちは昔、いつもここで決まってパインジュースを飲んだ。
ウエートレスの制服は昔と同じで、趣味の悪い黄色のワンピースだった。
白い壁に所狭しと貼り付けられている古い映画のポスターも、昔とまったく変わりがない。
高い背もたれで隣の席と隔離され、人に邪魔されないこの空間。
俺は裕也と2人きりでいるこの空間を…いつも愛して止まなかった。
「和希、元気そうだね」
白いテーブルの上にひょうたん型のグラスが2つ運ばれてくると、裕也はその1つにストローをさしてグラスの中の氷を ゆっくりとかき混ぜた。
氷の音が響くこの感じ。ちょっとスローなここでの時間と、ちょっとスローな裕也の話し声。
彼と過ごす時間は…昔も今も変わらない。
「裕也は元気だった?」
「うん」
彼は短く返事をした後、ストローを口にくわえてパインジュースを半分ぐらい飲んだ。喉の潤った彼は、それから少しずつ これまでの事情を説明してくれた。

 裕也の話は、俺が心配していたようなものとは全然違っていた。
彼はわりと大きな会社へ就職が決まっていたけど、そこを2週間余りで辞めてしまったという。 でも、両親にはその事をどうしても話せなかったらしい。
彼の両親は息子が安定した企業へ就職した事を喜び、親戚にまで自慢して歩いていたようだ。 そういう事を知っていた彼は…どうしても退社の事実を両親に言えなかった。
「僕、置き手紙をして南の島へ行ったんだ。なんていうか、気分転換がしたくて。最初はすぐに帰ってくるつもりだったんだよ。 でもちょうどその島で知り合いになった人がペンションを経営していてね、しばらく手伝ってくれないかって言われて…結局 そのままズルズル居座っちゃって。結局こっちへ帰って来たのは、昨日なんだ」
彼の言葉に嘘はない。裕也は俺に嘘なんかつかない。ただ1つ気になっている事は、どうして俺にキスをしたのかという事だった。
俺には、裕也にそれを聞く勇気なんかなかった。
だけど、頭の中に浮かぶのはあの夜の事だけだった。酔っ払って、具合が悪くなって、裕也にキスをされた…あの夜の光景だ。
裕也は今までの事情を一通り話し終えると、ジュースを飲みながら黙って微笑んでいた。
彼はあまり口数が多くない。お喋りはいつも俺の担当で、彼は昔からこうして聞き役に回っていた。
何か話さなくちゃ。
そうは思っても、俺が気になるのはあの夜の事ばかりだった。だけど、疑問をストレートにぶつけるにはやはり勇気が 必要だった。だから俺は考えた末に…別な視点からその話を持ち出した。
「裕也…メガネはもうやめたの?」
すると彼は優しい目で俺を見つめ、くったくのない笑顔でこう言った。
「卒業式の夜、飲みに行ったの覚えてるよね?僕あの時すごく酔っ払って…家に帰った時にはもうメガネをかけてなかったんだ。 どこで失くしたのか全然記憶にないんだよ。でもちょうどいいから次の日、思い切ってコンタクトレンズを買いに行ったんだ。 メガネのない僕の顔、見慣れなくて変じゃない?」
俺はほっとした。本当にそれを聞いて、心からほっとした。もう他の事なんか…どうでもいい。
「はぁ…」
俺は高い背もたれのついたソファーに寄り掛かり、大きくため息をついた。
裕也はそんな俺の様子を、ただ笑顔で真っ直ぐに見つめていた。
「裕也…もうどこへも行くなよ」
彼はグラスの底に残ったパインジュースをストローで吸いながら大きく うん、と頷いた。
俺はその時、彼が失くしてしまったメガネはずっと自分で持っていようと思った。