9.

 俺はその後、圭太と何度も会った。そして圭太と会うための金を稼ぎ出すためならどんな事だってできた。
俺の職場は実力主義で、販売実績を上げれば上げるほど社内での評価は高くなったし、その分歩合給も付いた。
俺はしだいに部長から嫌味を言われる事もなくなり…裕也がいた頃の日々を取り戻したような気がしていた。
圭太はそれほどに、裕也を失った俺の心の隙間を埋めてくれた。
俺は彼と一緒にいると裕也と一緒にいる時の自分に戻れたし、それと同時に裕也を対象とする性欲を満たす事もできた。
すべてが満たされ、何もかもがうまくいっていた。
彼と会うための金を捻出するのにはかなり骨が折れたけど、そんな苦労は彼の顔を見た途端にすぐ吹っ飛んでしまうんだ。

 俺は今日もシティーホテルの一室で彼を待っていた。
小さな部屋の窓から見える景色は最低だ。そこから見えるのは…隣のホテルの白い壁だった。 窓の外には星も、夜の闇さえもまったく見えなかった。
俺もだんだん知恵がついてきて、最近では格安のホテルを見つけてはそこへチェックインして圭太を呼んだ。
彼と会うのがベッドとテレビを置いたらほとんど隙間のないほど狭い部屋だとしても、圭太はいつも俺に会うと心から喜んでくれた。
今夜も俺はベッドに腰かけ、テレビを見ながら彼を待つ。そしてインターフォンが短く部屋の中に響くと、急いでドアへ向かう。
相手も確かめずに勢いよく白いドアを押すと、そこには笑顔の圭太が立っていた。
今日から12月。外はどんどん寒くなってくる。
今夜は圭太が初めて長いコートを着てきた。俺はこれから幾度季節が繰り返されても…ずっと彼を愛していきたい。
「和希!」
部屋へ入るなり、ベージュのコートを揺らして彼が俺に抱きついた。
この温もりは、何にも変えがたい大事な宝物だ。
「淋しかった…」
ドアの外では微笑んでいた彼が、ドアの内側では泣きそうな顔をして俺を見上げていた。
俺は裕也と同じようにこけている彼の頬に両手を触れ、少し長めのキスをする。
もう彼とのキスは数え切れないほどこなしてきた。今ではもう、メガネと鼻がぶつかり合うような事は絶対にない。

 その狭い部屋の面積のほとんどはベッドが埋め尽くしていた。
俺は部屋の明かりを落とした後ベージュのコートを脱がせ、セミダブルのベッドへ彼を誘う。
圭太は枕に頭を乗せて俺を見上げながら素早くネクタイをほどき、ワイシャツのボタンを上から順番に外していく。
そして俺は彼のメガネを外し、セーターを脱がせ、ズボンも脱がせ…そして最後の1枚に手を掛ける。
圭太はこの時、いつも笑顔で俺を見上げている。
彼はこの儀式がひどくお気に入りのようだ。 それが分かっているから、俺はいつもわざとネクタイを外さず、ワイシャツのボタンもきちんとはめたままで彼と会った。
「今日は前からして」
彼がそう言ってねだるようになったのはつい最近の事だ。
少し前までの彼は、行為の最中に自分の顔を見られるのが恥ずかしいと言ってなかなか前からはやらせてくれなかった。
でも彼は、徐々に徐々に俺に心を開いていった。

 彼と口の中で舌を絡ませ合いながら、ゆっくりと彼の尻を持ち上げる。
その細い両足を開かせて彼の中へ入ると、圭太は目を閉じて何度も俺の名を呼んだ。
俺は陶酔しきった彼の白い顔をじっと見つめながら、すぐ手の届くところにある彼の硬い物に爪を立てる。
「和希、和希、あぁ…」
彼が俺の名を呼ぶたびに、その先端から少しずつ体液が漏れてくる。
俺は今では彼がいつ頂点を迎えるか分かるようになっていた。 彼が俺の名を大きく叫び、その細い体が一瞬ブルッと震えた後…彼のへこんだお腹に白い体液が飛び散るんだ。
俺はそれを見ると興奮し、すぐそのへこんだお腹の上に射精してしまう。
俺たち2人の体液が混じり合うと、俺は本当に彼と1つになったような気分になる。

 行為が終わると、腕枕をしていつも彼を抱き寄せた。
圭太はいつもこの瞬間、シャイな少年に戻ってしまう。
「僕、悪い子だね。いつも先にいっちゃうもん」
薄暗い部屋の中でも彼の頬が赤くなっているのが分かる。 俺はシャイな圭太も、情熱的な圭太も、どちらも同じぐらい好きだった。
「そんな事、気にしなくていいよ」
そう言って彼の頬にキスをすると、圭太は俺の胸に顔を埋めた。
彼の吐く息が胸を熱く刺激する。俺はきっと…数分後にまた彼を抱いてしまうに違いない。
圭太は狭い部屋の中をちらっと観察し、それからちょっと甘えるような声を出した。
俺にはもう分かっていた。彼は、本当は甘えたくてしょうがないのに上手に甘える事ができない性質だ。 俺と一緒にいる時でさえ、甘ったるい声を出す事ぐらいで精一杯なんだ。
本当は、もっともっと甘えてほしい。俺はずっとそう思っていた。
「和希、今度からラブホテルにして。もっと安いホテルを使えば、会う回数が増えるでしょう?」
彼にそう言われるのはこれで何度目だろう。でも…どんなに安くても狭くても、シティーホテルを使う事が俺のプライドだった。
「今日は…すぐに帰る?」
いつもこうだった。彼はいつも俺にそう言う。この瞬間は、いつも胸が痛くなった。
俺は大金持ちじゃない。ごく普通の一般市民だ。 彼と一晩過ごすために必要な9万円もの金をしょっちゅう用立てる事ができるほどの甲斐性持ちなんかじゃない。
だけど、今日はちょっといい知らせがある。俺は彼にそれを伝えれば喜んでもらえると確信していた。
「5日にボーナスが出るから…7日の日にまた会おう。俺、次の日休みだから…その時は朝まで一緒にいられるよ」
「ホント?」
「うん。約束する。ほら、指切りしよう」
俺が彼の目の前に小指をかざすと、彼はにっこり微笑んで俺の指に自分の指を絡ませた。 そして指切りが済むと、俺の指にそっとキスをしてくれた。

 その後俺は、もう1つのいい知らせを彼に告げた。
圭太にキスしてもらった指でベッドの向こうに見える安っぽい机を指さすと、圭太の顔がそっちを向いた。 すると机の上に設置されている鏡の中に、髪が乱れた圭太の不思議そうな顔が映し出された。
「圭太、そこの袋を取って」
机の上には黒いビニール袋が乗っかっていた。彼は膝を立てて右手を机に伸ばし、その袋をすぐにつかんだ。
その時目の前にあった彼の小さな尻をぎゅっと握ると、彼は顔を真っ赤にしながら振り返って冗談っぽく俺の手を叩いた。

 「これ、何?」
圭太は黒いビニール袋の中に何かが入っている事を知り、ベッドの上に座って俺にこう問いかけた。
俺が 中身を見てごらん、と言うと彼は急いでビニール袋の中を覗き、そこから青いリボンの付いた白い箱を取り出した。 すると彼は、俺のネクタイを外すのとまったく同じようにリボンをほどき始めた。
箱のフタを開ける時の彼は…子供のようにはしゃいでいた。
彼は箱の中からピカピカに光る黒いローファーを取り出し、それを両手に抱えてじっと見下ろしていた。そして 俺が 履いてごらん、と言うと彼はその場で素足のままその靴に足を入れた。
俺はそんな彼の様子を、ベッドに寝そべりながらじっと見つめていた。 見る見るうちにほころんでいく彼の顔を…最初から最後までずっと見つめていた。
「これ、僕に?」
「うん。サイズはどう?」
「ピッタリ」
圭太はベッドの上に足を伸ばしてピカピカな靴を履いた自分のつま先を見つめた。
それは決して高価な靴ではなかったけど、それでも彼は俺の小さなプレゼントをすごく喜んでくれた。
「ありがとう・・・僕、すごく嬉しいよ」
彼は嬉しそうににっこり微笑み、靴を履いたまま俺の唇にキスをしてくれた。 そしてすぐにローファーを脱ぎ、それをそのまま大事そうに箱の中へ戻そうとした。
だけど俺はその手を止めさせ、あまり何も考えずに自分の思っている事を口にした。
「それ、履いて帰りなよ。いつもの靴はだいぶ古くなってるみたいだから…捨てちゃえばいいさ」

 圭太はその時、もう笑ってはいなかった。
彼は俺の言う事を聞かずに黙ってローファーを白い箱の中に入れ、それをもう一度机の上に戻した後 ふとんに入って俺に寄りそった。
彼はしばらく白い天井を見つめて何かを考えているようだった。
俺はなんとなく自分が悪い事を言ってしまったと気付いていた。
「圭太…ごめん。何か気を悪くした?」
彼は天井を見つめたまま首を振ったけど、俺の目を見ようともしなかったし、俺の方に顔を向けようともしなかった。
彼は、俺のすぐそばにいた。長くなった彼の後ろ髪が枕の上で跳ねて俺の頬をくすぐる。 大きく鼻で息を吸うと、彼の汗の香りがすぐそばで感じられる。
圭太はそのぐらい近くにいたのに…何故だかその時、彼がすごく遠く感じた。
このままもう会えなくなってしまうような、彼がどこかへ行ってしまうような…根拠のない不安が俺に襲い掛かり、 たまらなく胸騒ぎがした。
俺は彼の態度にひどく不安を感じ、ちょっと強引に細い体を抱き寄せた。
すると彼はやっと俺の目を見てくれたけど、その目はちょっと淋しげで、ひどく儚げで…その時の圭太の目は裕也が俺にキスをした時と 同じ目だった。
「和希…僕、あの靴は捨てられない」
「そうか」
「僕、16歳の時にあの靴を履いて家出したんだ」
「え?」
「あの靴を履いて家を出て…あの靴を履いて東京へ出てきたんだ」
彼の目は俺を見てなんかいなかった。彼の目は、遠くを見つめていた。

 「僕…高校1年の時、すごく好きになった人がいたんだ。もちろん男の子だよ。 彼は同じクラスで、僕と仲良くしてくれてたんだ。僕らはすごく仲良しだったんだよ…」
それを言う時の彼の声が、俺の胸に軽い衝撃を与えた。
彼はその時、間違いなくその好きになった人の顔を思い浮かべながら話をしていた。 彼は笑っているというわけではなかったけど、昔を懐かしむような穏やかな顔をしていた。 そしてそれを言う時の彼の声は…どことなく弾んでいるように俺には聞こえた。
俺は冷静にその話を聞いているつもりだったけど、心の中は穏やかじゃなかった。 でもそれが嫉妬心である事に気付いたのは、もっとだいぶ後になってからだった。
圭太は少し寒くなったようで、ふとんを肩のあたりまで引っ張った。俺は彼を強く抱き寄せ、彼の体を包んでやった。 でも圭太の体は冷たくて…俺の体がその体温で温まるような事はなかった。
「僕ね、その子に告白したんだ。彼と会って、好きだって言ったんだ」
俺はその話を聞いてすごく驚いていた。
シャイな彼が好きな人に、しかも男の子に告白するなんて…それをするには、とてつもない勇気を必要としたに違いない。
「でも彼は、その時怯えた目をして僕の前から走り去った。次の日学校へ行ったら…僕が彼に告白した事はクラス中の噂になってた」
俺はその時、何も言ってやれなかった。きっと何を言っても慰めにならないと分かっていたからだ。
だけど…俺はその時に初めて彼の強さを見た。穏やかに語る彼の話は、きっと本人にとってとてもつらい物語だった。 それでも彼は心を乱す様子もなく、ゆっくりと落ち着いた声でその話を続けた。
「僕の住んでた所はすごく田舎でね、町中の人たちがみんな顔見知りだったんだ。 噂はあっという間にみんなに知れ渡った。みんながその事を知ってて、僕を変な目で見てた。そんなふうだったから…お母さんと お父さんにもすごく迷惑かけた。僕…学校にもあの町にもいられなくなって、あの靴を履いて家出したんだ。 東京じゃ僕の事なんか誰も知らないけど、田舎に帰れば僕はちょっとした有名人なんだよ」
「家出したの、いつ?」
「去年。僕、もう東京へ出てきて1年になるんだ」
圭太は泣いたりせず、悲しい顔もせず、時には笑顔を見せながらその話をしてくれた。
俺は、なんだかたまらない気持ちになった。すごく…息が苦しくなった。
「お前、大丈夫なのか?ちゃんとメシは食ってるか?」
「昼間はコンビニでバイトしてるから…売れ残ったお弁当がもらえるんだ」
彼は淡々と話していたけど、彼の心が血を流している事は明らかだった。
俺はきつく目を閉じて彼を抱いてやる事ぐらいしかできなかった。なのにそんな時、俺の心は彼を裏切っていた。

 俺は目を閉じて圭太を抱きしめながら、突然行方をくらました裕也の事を考えていた。
裕也も、何かつらい事があって逃げ出したんだろうか。 まさか…俺が彼にキスされた事を人に言いふらすとでも思ったんだろうか。
その答えは…裕也本人に聞くまで絶対に分からない。俺は本物の裕也にもう一度会わない限り、いつまでもこの疑問が 頭から離れないだろう。
頭も体も、すべてがズキズキと痛んだ。
俺は、ずっと悶々とした疑問を抱えて生きていかなければならないんだろうか。 そして…こうしていつまでも圭太を裏切り続けていかなければならないんだろうか…