11.

 次の日の夕方。俺はまたシティーホテルの一室で圭太を待っていた。
昨日彼との約束を破ってしまって、その後ろめたさは拭い去れなかった。明日は早番だったけど、 俺は今日一晩中彼と一緒にいようと思っていた。そうするのが当然だと思っていたし、彼もきっとそれを望んでいると信じていた。
今日はちょっと無理をして少しいい部屋を取った。ジュニアスイートとまではいかなかったけど、今日の部屋は 眺めが良くて、とても広い部屋だった。
夕方4時。まだ外は明るくて天気も良くて、背の高いビルの隙間から遠くの山が見渡せた。
窓から道路を見下ろすと、渋滞している車が豆粒のように見えた。そして歩道を歩く人間はまるで1つの点のように見えた。
人間はちっぽけな生き物だ。俺は漠然とそんな事を考え、ただひたすら圭太が来るのを待っていた。

 やがて広い部屋の中にインターフォンが鳴り響き、俺は走ってドアへ駆け寄った。
でもドアを開けて目の前に立っている彼の顔を見た時…彼が不機嫌である事をすぐにさとった。
俺はすぐに彼を部屋に入れ、その場できつく抱きしめた。だけど彼はただその場に立ち尽くしているだけで、 いつものように俺の背中に手を回すような事はしなかった。
「前金で3万円、お願いします」
圭太が冷たい目で俺を見上げ、事務的な口調でそう言った。俺はその時、彼との終わりをすでに予感していた。
俺が彼に黙って金を渡すと、圭太もそれを黙って受け取り、すぐにベージュのコートのポケットへ金をねじ込んだ。
その後彼はまったく笑顔も見せず、俺の目を見る事もせずに黙っていつもより大きいキングサイズのベッドへ近づき、 さっさと洋服を脱ぎ始めた。
白く輝くオシャレなフローリングの床の上に、彼の衣服がバサッと音をたてて投げ捨てられる。
彼は大きな窓の外の景色を見る事もせず、広い部屋の中を探索する事もせず、とくかく仕事以外の事を何もせず… すぐに裸でベッドの上に横になり、ただ一言 早く抱いてください、と覇気のない声でつぶやいた。 ベッドの下に揃えて置いてある物は…いつもの薄汚い革靴だった。
今日の彼には人を寄せ付けないオーラがあって、俺はベッドに近づく事さえできなかった。
せっかく広い部屋を取ったのに、俺はその事を後悔した。ドアの前で立ち尽くす俺とベッドに寝ている彼との距離は10メートル。 いつもの狭い部屋なら…必然的にこれほど距離を置く事はあり得ないのに。

 それでも俺は結局彼が裸で寝ているベッドへ向かい、その端に腰かけた。
なんとなく、すぐに彼の体に触れる事はできなかった。圭太はちょっと手を伸ばせば触れられる距離にいたけど…それでも俺には 手を伸ばす勇気が出なかった。
窓の外はまだ明るくて、柔らかな日差しが部屋の中に入り込み、その静かな光がベッドに横たわる彼の細い体を照らしていた。
その白い素肌はとても綺麗で、頼りない骨格はまだ子供のそれだった。
浮き上がっているあばら骨を見つめ、へこんだお腹を見つめ、そしてもっと下の方を見つめたけど…彼のものは ヘアーに埋もれていて、まったく元気がなかった。
「圭太…昨日の事、怒ってるんだろう?」
やっと搾り出した俺の一言。彼はその言葉を…まったく無視した。
「僕を抱かないんですか?」
圭太は薄茶色の天井を漠然と見つめ、ひどく他人行儀な言い方をした。俺はもう、どうしていいのか分からなくなった。
「昨日の事は謝るよ。どうしても抜けられない仕事が入っちゃってさ…でも、どんな理由があっても約束を破ったのは事実だから、 圭太に何を言われてもしかたがないと思ってるよ」
俺が言い訳がましい事を口にした時、圭太が始めて俺の目を見てくれた。
彼は枕に頭を乗せたまま、目だけを俺に向けてじっとしていた。でも彼の目は笑っていなかったし…俺を許してくれた様子も 見えなかった。
「…約束なんて、最初からないよ」
俺は無表情でそう言う彼の顔を、ベッドの端に座って見つめていた。
俺はどうしてこんな所に座っているんだろう。いつもなら彼が来るとすぐに抱きしめて、キスをして、ベッドを揺らすはずなのに。
「今日は一晩中一緒にいよう。俺、そのつもりで…」
俺の話が終わらないうちに、彼がピシャッとその声を遮った。その時の彼はあくまで冷静で、すごく淡々としていた。
「延長はできません。僕、この後別なお客さんと会う予定がありますから」
彼にそう言われた時、俺の心の中にひどくモヤモヤした感情が生まれた。 今まで彼は自分の仕事についてあまり多くを語らなかったけど…彼が俺以外の男と寝ている事をこんなふうにはっきり突きつけられると、 どうしても心が乱れた。
「キャンセルできないのか?俺はお前と一緒にいたいんだ」
「昨日なら体が空いてたけど…今日はこの後ビッチリお客さんが入ってますから」
俺は自分でもよく分からない感情に押し流され、彼の上になってその細い両腕をベッドの上に押し付けた。
それからいつものように彼の唇を奪ったけど…彼の舌が全然俺の舌に絡んでこないのが気になり、キスの途中で目を開けると、 ほんの数センチ先にある彼の目と俺の目がバッチリと合った。
彼はちっとも感じていない様子だった。右手を下の方へ持っていって彼のヘアーのあたりをまさぐったけど、そこに硬い物は見つけられなかった。
とにかく、圭太は全身で俺を拒絶していた。
今日の彼はきっと、何をしても絶対に俺を受け入れようとしない。俺の体は仕事として受け入れるけど、俺の心は決して受け入れない。 俺はその事がはっきりと分かり、彼を離してベッドの上に仰向けになった。
それでも圭太は、もちろん何も言わなかった。
彼は3万円を受け取って2時間客の好きにさせるのが仕事なんだ。客が彼を抱かないのなら、彼が客を求める必要もない。
彼は客に抱かれる義務があるけど、客は彼を抱く義務はない。ただ、その権利を3万円で買う。結局、ただそれだけの事なんだ。
そのまま時間は刻々と過ぎていった。
俺たちは何も話さず、触れ合う事もせず、ただ目の上の天井を見つめていた。

 少しずつ窓から入り込む日差しが減っていき、彼に気付かれないように腕時計を見ると、もう彼が来てから1時間以上 過ぎているのが分かった。
さっきまで彼の体を照らしていた外の日差しはもうほとんどない。夜が近づくにつれて明かりの灯らない部屋の中は少しずつ 暗くなり、時間と共に彼の姿はただのシルエットに変わっていった。
俺は、このまま別れるのは嫌だった。もう今日で彼と終わりだという事はなんとなく分かっていたけど、こんなふうにサヨナラするのは どうしても嫌だった。
俺は、すぐそばにいる彼を抱き寄せた。すると彼は人形のようにただじっとして俺の腕に抱かれていた。
強引に唇を奪っても、体に指を滑らせても、圭太はまったく反応しなかった。
「圭太、そんなに怒らないで。昨日の事は、本当に悪かったと思ってるよ」
「僕…怒ってません」
すぐ近くで彼の声がした。でもその声はずっと遠くから聞こえるような気がしていた。
「もう俺に会いたくない?俺の事、嫌いになった?」
「お客さんが指名してくれたら僕はどこにでも会いに行きます。僕の意思なんか関係ありません」
彼は俺の胸に顔を埋めて静かにそう言った。俺はそれを聞いた時、すごく悲しくなった。 彼はずっとそういうつもりで俺と会っていたんだろうか。俺が金を持って呼び出すから、言われるままに会いに来ていただけなんだろうか。
「俺は…お前にとってただの客なのか?大勢いる客の中の1人でしかないのか?」
「僕は、サイトに登録している中の1人です。大勢の中の1人です」
「そんな事聞いてるんじゃないよ!」
俺が思わず声を荒げると、すぐ近くにある彼の目が俺を見上げた。彼は、ずっと我慢していたんだ。俺はその時初めてその事を知った。
圭太は唇を噛んで目に浮かぶ涙をなんとか押し止めようとしていたけど…俺が彼を抱き寄せると、俺の胸に温かい彼の涙が 零れ落ちた。
俺はしゃくり上げて泣く彼の背中をさすってやり、しばらく思い切り泣かせてやった。
俺はその時ものすごい罪悪感に襲われ、自分が嫌いになってしまいそうだった。

 「圭太…ごめん。本当にごめん」
「嘘つき…」
彼はひどい涙声でそう言って俺を突き飛ばし、ベッドの上に起き上がって思いの丈を全部吐き出した。
俺はその時、彼に浴びせられた言葉に一言も言い返せなかった。
「僕、昨日見ちゃったんだ。和希…男の人と仲よさそうに歩いてたよね? あの人が裕也っていう人なの?あの人が和希の…本当に好きな人なの? あの人、僕によく似てた。すごくよく似てた。僕はあの人の代わりなの? 和希はいつもあの人を想いながら僕を抱いてたの?」
俺はあまりに驚いて、言葉を失った。俺はもちろん圭太に裕也の存在を打ち明けた事なんかなかった。 なのに何故彼が裕也の事を知っているのか…それがどうしても分からなかった。
圭太は何も言えずにいる俺を見下ろし、涙を流しながらちょっと笑って、更に言葉を続けた。 俺は…彼の言葉に打ちのめされた。
「自分では気付いてないのかもしれないけど…和希は僕とセックスしてる時、時々裕也って言ってたよ。 僕とのセックスに溺れながら…あの人の名前を呼んだんだよ」
そんなの嘘だ、俺は本当はそう言いたかった。 でも…それが嘘じゃない事は明らかだった。圭太の言う事が本当なら、彼が裕也の名前を知っていた事も理解できる。
圭太はベッドの上に座り込み、しゃくり上げて泣いた。
俺は自分に腹が立っていた。腹が立ちすぎて、もういい加減自分に呆れていた。
どんどん薄暗くなる広い部屋の中に、いつまでも彼の泣き声が響いていた。だけど俺には…もう彼を抱きしめてやる 気力が残っていなかった。
こんな最低な人間の手で…あまりにも純粋な彼に触れるのはひどく罪な事のように思えた。

 時間は、無情に過ぎていった。
圭太は本当に次の約束があるようで、鼻をグズグズさせながら床の上に転がっていた洋服を身に着け、ずっと彼と共に歩んできた 埃だらけの靴を履き…ちゃんと最後には客である俺に挨拶をした。
「今日は…どうもありがとうございました」
彼がそう言って俺に頭を下げると、フローリングの床にポタポタと涙の雨が降り注がれた。
俺は何も言えず、身動き一つできず、ベッドの上に寝転がったまま…しゃんと立って頭を下げる彼の姿を見つめていた。
「さよなら…」
彼が小さくそう言って俺に背を向けた時、俺の目から急に涙が溢れてきた。 でも圭太は、そんな事には気付いていなかった。彼は一度も振り向かずに、ドアへ向かって歩いて行ったから…
俺は涙の向こうに見える彼の背中をずっと見つめていた。もうこれで最後になる事が分かっていたからだ。
彼がドアの前に辿り着き、銀色に光る取っ手に手を掛けた。あの取っ手を回してドアが開いたら…彼は 永遠に手の届かない所へ行ってしまう。
だけど圭太は、すぐに取っ手を回す事はしなかった。
俺と彼との距離は10メートル。でもその時彼が口にした言葉は、ちゃんと全部俺の耳に届いた。
「僕、悪い子だね。お客さんのプライベートに口を挟むのはいけない事なのに…ごめんね」
彼の声は、すごく冷静だった。
「僕、やっぱり悪い子だ。和希の事…好きになっちゃいそうだもん」
それだけ言い残すと、彼は銀色の取っ手を回して部屋を出て行った。
その瞬間、もうすっかり暗くなった部屋の中に子供のような泣き声が響いた。
俺は、ずっと我慢していたんだ。圭太が出て行くのを見送るまで、泣くのをずっと我慢していたんだ…