3.

 裕也と最後に会ったのは、高校の卒業式が行われた日だった。あの日の俺たちは、すごく開放的になっていた。
卒業式が終わった後 俺たちはそれぞれ一度帰宅して、まだ未成年だというのに同じクラスだった仲間たちと集まって 夕方から飲みに出かけた。
あの夜は、本当に皆が浮かれていた。卒業という儀式を終えて、誰もが少し大人になったような気分だったのかもしれない。

 俺たちは最初、仲間6人で居酒屋へ行った。
皆好き勝手に食べたい物を次々と注文し、テーブルの上にはあっという間に料理の乗った皿がいっぱい並んだ。
でも裕也は小食で、ほとんど料理に口をつけていなかった。
彼はいつもおとなしくて、仲間たちがすぐ側でふざけ合うのを笑いながら見つめているような人だった。 それでも彼はその夜仲間たちに勧められてかなり酒を飲み、一次会の段階でだいぶ顔が赤くなっていた。
その後俺たちは、何軒か店をはしごした。カラオケを歌ったり、踊ったり…とにかく、どんちゃん騒ぎをした。
でも卒業してから半年しかたっていないのに、俺はそのあたりの事はもうほとんど忘れている。
居酒屋のテーブルに肘をついて、微笑みながらじゃれ合う仲間たちをじっと見つめていた裕也の顔。
俺の記憶はその後、皆と別れて彼と2人きりになった時へと飛んでいる。

 飲み会を解散したのは、たしか夜中の3時頃だった。
俺は多分、かなり酔っていた。足取りはおぼつかなかったし、脳は考える力を失っていた。
裕也も少し酔っていたから、俺たちは川辺を歩く事にした。あの時俺は少し頭を冷やしたいと思っていた。 川の淵を歩くと、冷たい風が吹いてとても気持ちが良かった。
暗闇の中に川の流れるサワサワという音が響き、すぐ隣を歩く裕也の足音と二重奏になっていた。
彼は酒のせいかいつになく陽気で、わけもなくフフフ…と小さな笑い声をたてながら歩いていた。 その時、俺の方は飲みすぎで胃がムカムカしていた。
前を歩く裕也の白い背中が徐々に遠くなっていく…でも、気持ちが悪くて彼を追いかける事もできなかった。 俺はフラフラして、芝生に足を取られてしまいそうな気がしていた。
「待ってよ…」
俺の小さなつぶやきは川の流れに遮られ、きっと裕也の耳には届かなかった。
川辺には時々外灯があったけど、そのほとんどは明かりが灯っていなかった。もしかして、節電対策で あまり人の通らない夜中は明かりを点けない事にしていたのかもしれない。
やっと1つ淡い光を放つ外灯が正面に見えてきて、彼はもうその光の下へ辿り着きそうになっていた。
裕也はその時、もう俺のかなり前を歩いていた。俺の目には、おぼろげながら彼の後ろ姿が見えていた。
裕也の真っ黒な髪と、冷たい風に膨らむ白のシャツ。遠くなって行く彼の足音。
俺はあの時の事を思い出すたびに、どうしても目から涙が零れてしまう。

 彼は白い光の下で立ち止まり、やっと俺を振り返ってくれた。
あの時彼は何を思って歩いていたんだろう。それはよく分からなかったけど、彼は右へ左へとフラつきながら歩いている俺を 見て、慌てて俺の所へ走ってきてくれた。
裕也は見かけによらず酒が強かったのかもしれない。俺は見かけ通りに酒が弱いけど。
「和希、大丈夫?」
気がつくと、目の前に心配顔の裕也が立っていた。 メガネの奥の優しい目が、暗闇の中で真っ直ぐに俺を見つめていた。
一瞬、風が吹いて彼の髪が大きく乱れた。裕也は尖った顎を髪にくすぐられ、顔にふりかかる黒い髪を 右手の指ですぐに払い除けた。
俺は彼が側に来ると安心してしまい、それと同時に腰が砕けそうになった。
「大丈夫?」
裕也がそう言うのと同時に、俺は倒れそうになった体を彼に支えられた。 もう体が全然言う事を聞かなくて、その時は彼につかまって立っているのが精一杯だった。
俺は必死になって彼にしがみついた。両腕は彼の肩に回し、顔は彼の胸の上にあった。
あんなに酔っていたのに、その時の記憶はひどく鮮明に頭に焼き付いている。
華奢に見える彼の胸板が意外にしっかりしていて、少し驚いた事。それから俺を支える彼の腕がとても力強くて、 すごく安心できた事。
そして…彼にしがみついて顔を上げた俺の目と裕也の目がバッチリ合った時の事。
メガネの奥にある彼の目はちょっと淋しげで、ひどく儚げで、俺は思わずその目に吸い込まれそうになった。
「どうしたの?」
彼にそう言おうとしたその瞬間の記憶は、今でも俺の胸を熱くさせる。 裕也にあんな激しい部分があるなんて、それまで知らなかった。
裕也は強い力で俺の体を抱き寄せ、強引に俺の唇を奪った。
彼はキスがヘタクソだった。俺の鼻は彼の鼻とぶつかり、その衝撃で彼のメガネがはずれた。
それはとても短いキスだった。川のせせらぎと、メガネが芝生の上に落下するガチャンという音が重なるまでの、 ほんの短いキスだった。

 わけが分からないまま芝生の上に立ち尽くしていると、裕也が俺に背を向けて駆け出した。
彼の黒い髪は風になびき、白いシャツは風に膨らんでいた。
俺は慌てて彼を追いかけようとしたけど、なにしろ足がもつれていた。その時の俺は走るどころか歩く事さえままならない状態だった。 俺は2〜3歩前へ出た所で気持ちが悪くなり、とうとう芝生の上に座り込んでしまった。
俺は暗闇の中で、目の前に落ちていた裕也のメガネを拾い上げた。それは彼の顔の一部である細いフレームのメガネだった。
あの時俺は、いったい何を思っていたんだろう。歩く事もままならない状態で、いったいどうやって家へ辿り着いたんだろう。
裕也が走り去った後、しばらく俺の記憶は飛んでいる。
俺が強烈に覚えているのは、家へ帰って洋服も脱がずにベッドへ入った後の事だ。
飲めない酒を飲み、夜中の3時過ぎまでフラフラしていたのだから、翌日は昼過ぎまで起きられなかった。
太陽の光を感じて目を覚ました時、最初に見た物は自分の部屋の白い壁だった。
俺は目覚めた瞬間に何か変な感覚にとらわれた。その時は、何故か心臓がドキドキしていた。
少しだけ目を動かすと、机の上に乗っかっている裕也のメガネが見えた。 それは間違いなくいつも彼が使用していたフレームの細いメガネだった。 俺は目覚めてそれを見た時に初めて彼とキスをした事が現実だと理解した。
俺はベッドに寝そべったまま右手の指を自分の唇に当ててみた。そこにはまだ微かに裕也の唇の感触が 残されているような気がしていた。

 俺は目が覚める直前まで、ずっと裕也とキスをしていた。
彼は夢の中でもキスがヘタクソだった。でも…それでも彼とのキスは気持ちが良かった。
俺は唇に当てていた右手の指を、今度はそっとパンツの中へ忍ばせてみた。
すると、俺の指にベトベトした物がまとわり付いた。そのベトベトした物は、まだ生温かかった。
俺は戸惑いながら、もう一度目を動かして机の上に置いてある裕也のメガネを見つめた。 すると今の自分の様子を彼に見られているような気がして、すごく恥ずかしくなった。
俺は今度会ったら彼にメガネを渡そうと思い、それをずっと大事に保管してきた。
でも卒業して半年たった今も、そのメガネはまだ俺の部屋へ置いたままになっている。