4.

 その翌日。俺はちゃんと1時に出勤した。
俺の職場はわりと大きな家電量販店だ。そして俺の担当はパソコンの販売。毎日毎日眩しいほど明るい店内で 接客をこなし、商品の梱包をする。それはとても単調で、ひどくつまらない仕事だった。
しかも販売部長は嫌味なオヤジで、そいつは1時間に一度は必ず各売り場へ現れ、俺のような新人社員になんだかんだと 難癖をつける。
この仕事を始めて約半年。俺は今までに何度転職を考えたか分からない。

 俺はその日の夕方、客が引けた時間にほんの一瞬息を抜いていた。
その時俺は白い棚の上に並ぶ各メーカーのノートパソコンをぼんやりと見つめ、また裕也の事を思い出していた。
彼と最後に会ったのは、高校の卒業式の日だった。
俺はあの晩裕也に唇を奪われて…それ以来彼の事を変に意識してしまい、自分の方から連絡するのをためらった。
それでも俺にとって裕也は大親友だった。多少ぎくしゃくする事はあってもずっと仲良くやっていけると思っていたし、 そうしていきたいと思っていた。
だけど…俺が彼への連絡をためらっている間、彼の方からもまったく連絡が来なかった。 皮肉にも俺たちは、そんな時でさえウマが合った。
俺はその間、随分悩んだ。
裕也はどうして俺にあんな事をしたのか。俺が1番悩んだのはその点だった。
裕也はあの時本当は見かけ以上に酔っていて、あれは単なる間違いだったのかもしれない。 でもそうじゃないとしたら…裕也があの時正気だったとしたら…俺はそう考える時、いつも胸がドキドキした。
そして重要なのは、あの後俺が彼の夢を見て夢精してしまった事だった。 俺はあの時の自分が信じられなかった。あの時の自分は幻だと思い込もうとした時もあった。
でも、俺は彼があんな事をするまで一度として裕也をそんな目で見た事はなかったのに…今はもうはっきりと裕也の事が好きだと 言い切れる。
楽しい時も、悲しい時も、裕也はいつも側にいて俺の話を聞いてくれた。 彼と2人でいる時の心地よさは、他の人では得られないものだった。
彼のヘタクソなキスが…すごく恋しい。もう一度裕也と話がしたい。一緒にどこかへ遊びに行きたい。
俺の思いは時がたつほど大きく膨らんでいった。そして今になって、どうしてあの後すぐ彼に連絡をしなかったのかとものすごく 悔やんでいる。
俺は卒業式の日から1ヵ月後、裕也の携帯に電話をした。
でももうその時彼の携帯はつながらなくなっていた。そして彼の実家へ電話をした時、初めて裕也が行方知れずに なっている事を知った。
あれから半年近く時が過ぎても、俺の思いは色褪せない。俺は暇さえあれば彼がどこにいるのか考え、彼の唇の感触を思い出す。 決して触れる事のできない彼の事を思うと…気が狂いそうになる。

 店内に輝く蛍光灯の光があまりに眩しくて、疲れた目に涙が滲む。 隣のオーディオ売り場では大音響でロックミュージックが流れ出し、鼓膜が破れそうになる。
ここに半日もいると目も耳も疲れて、俺は仕事が終わるまでにクタクタになってしまう。
「長野くん!」
俺は聞きなれたダミ声で名前を呼ばれ、背筋が凍りつきそうになった。
緊張の面持ちで声の主を振り返ると…黒服を身にまとった販売部長がすぐ後ろに立って俺を睨みつけていた。
「何をボサッとしてるんだ。床にゴミが落ちてるぞ」
俺は慌てて部長の視線を追いかけた。 彼の目は白いタイルの床を見つめていて…そこにはたしかに小さな紙くずが1つ転がっていた。
「気がつかなくてすみません」
俺はすぐにしゃがんで紙くずを拾い上げ、それを手の中でくしゃっと握りつぶした。
すると、目の前に立ちはだかる部長がいつもの嫌味を言い始めた。
きっと彼はブツクサ言うのが趣味なんだ。 本人は気付いていないだろうけど、俺をいびる時の彼はすごく楽しそうに見えた。
人を見下したような細い目は俺を睨みつけているが、その目の奥には明らかに楽しんでいる様子が見える。
そして嫌味を言うぶ厚い唇は、嬉しそうによく動く。まるで…いかにも神経質そうな細い体全体が愉快でたまらないと 叫んでいるようだ。
「君、最近たるんでるね。今日1つぐらいは仕事らしい仕事をしたのか?」
「…すみません」
俺が力なくうなだれると、部長は薄くなった頭を右手でボリボリとかきはじめた。 すると黒いジャケットの肩に白いフケがパラパラと舞い落ちる。俺はそれを見るたびにいつも寒気がしてしまう。
「最近この売り場は業績が悪いんだ。倉庫係にされたくなかったら、商品を売るためにもっとがんばりたまえ」
「…はい」
「よろしく頼むぞ。専務にガミガミ言われるのは俺なんだからな」
部長の広い額に油が浮き、そこに白い蛍光灯の光が反射してテカテカと光っていた。
一度でいいからその頭をぶん殴ってやりたい。俺は毎日そう思っていた。

 その日、仕事を終えてアパートへ辿り着いたのは午後10時過ぎだった。
疲れすぎて、腹も減らない。
俺は今日も真っ暗な部屋へ帰り、メシも食わず、しばらくシーツも取り替えていないベッドの上に倒れこんだ。
暗闇の中で寝転がりながらネクタイを緩めると、やっと1日の終わりを実感する。
俺の職場は変なところに厳しく、ちゃんと制服が用意されているのに出勤する時はスーツ着用が義務付けられていた。
出勤したらすぐにロッカーで制服に着替えるのに…なんのためのネクタイだか分かりゃしない。
俺はネクタイとワイシャツとスーツ上下を体から剥ぎ取って床の上に投げ捨て、ティーシャツとパンツ姿になった。 もういつでも寝られる状態だ。
だけど、まだ寝るのは早い。俺はサイドテーブルの上に置いてあるノートパソコンを手探りでベッドの上に引っ張ってきた。
俺はもう本気で仕事を辞めたいと思っていた。 だけど辞める前になんとか次の仕事を探さないと…暮らしていけなくなってしまう。
ベッドの上に乗せたパソコンが立ち上がると、真っ暗な部屋の中が淡い光で照らされた。
電気も点けずにパソコンのブラウザを見つめると、職場にいるのと同じぐらい目が疲れた。 でももう立ち上がって電気のスイッチを入れに行く元気はない。
俺はすぐにインターネットに接続して、求人情報を検索した。 もう今より給料が安くなってもいいから、とにかく別な職場へ移りたかった。

 真っ白な画面の真ん中に、『短時間で高収入』という大きな赤い文字。
俺がそのウェブサイトを見つけたのは、パソコンを立ち上げてから5分後の事だった。
そしてその大きな赤い文字をクリックした後…俺は初めて彼と出会った。