6.

 それから4日後の夜。俺はたった1人でシティーホテルの一室にいた。
そこは、とても落ち着かない空間だった。
普通のダブルの部屋を予約したのに、オーバーブッキングでジュニアスイートなんかを与えられてしまったせいだ。
広い部屋の真ん中には大理石のテーブルがあり、そこには胡蝶蘭が飾られている。 ベッドルームは2つあり、冷蔵庫の中身はすべてフリードリンクだという。 しかも天窓付きのバスルームは銭湯のように広く、そこにはテレビまで用意されていた。
俺は落ち着きなく部屋の中をウロウロし、最終的には夜景がよく見える窓の前に置かれたヨーロッパ風のソファーに腰かけていた。
夜8時。もう外は真っ暗で、遠くの方に星が見えた。

 その時は…自分のやった事を後悔しかけていた。
俺は昨日の夜もう一度あのウェブサイトを訪れ、年会費の入金先を控えた。 そして今日早速偽名で5万という金を振り込み、その旨をウェブサイトに載っていたメールアドレスへ送信した。
そして向こうが入金の確認をした後すぐに返信メールが送られてきて…そこに書かれていた連絡先へ電話を入れると、 太い声の男が対応してくれた。
「ホテルへチェックインしたら、もう一度連絡をください。1時間以内にお好みの子をそっちへやります。 どの子がいいですか?」
その口調は淡々としていて、悪びれた様子など微塵も感じられなかった。
俺が遠慮がちに彼の登録番号を伝えると、更に事務的な口調で太い声がこう言った。
「顔を見て気に入らなければ他の子にチェンジする事もできます。もしも気に入ったらその子を部屋へ入れて、 まず最初に3万円を渡してください。それで契約は成立です。延長する場合は本人から追加料金の説明がありますから、 それに従ってください…」
入会金が5万円。そして彼を呼ぶのに3万円。 しかも、その3万円で彼と一緒にいられるのはたったの2時間だと言われた。
高校を卒業し、社会人になって半年。俺は今まで1日で8万円も散財した事なんか一度もなかった。
追加料金がなんだとか言っていたけど、もうこれ以上金なんか出せないよ。

 遠くの星を見つめながら心の中で散々悪態をついていた時、突然広すぎる部屋の中にインターフォンが鳴り響いた。
俺は心臓が止まりそうなほど驚き、何かに弾かれたようにソファーから立ち上がった。
来た…本当に彼が来てしまった。
俺はピカピカに磨かれた窓の向こうに見える星を見つめ、次にガラスに映った自分の姿を見つめた。
『どうする?本当に彼と会うつもりか?』
俺は生唾を飲み込み、もう1人の自分にそっと語りかけた。
ガラスに映る俺は、1番イカしたスーツを着ていた。分割払いで買った、あと1回支払いが残っているブランドもののスーツだ。
俺は、仕立てのいいスーツを着こんでジュニアスイートの部屋にいる自分がひどく恥ずかしく思えた。
俺は今、少年を金で買おうとしている。彼に会うために8万もの金を使おうとしている。
しかも自分の持っている中で1番いいスーツを身に付け、ジュニアスイートの部屋で彼を待っているなんて… やる気満々で、あまりにも恥ずかしすぎる。

 俺がもう1人の自分と見つめ合っていた時、再び部屋の中にインターフォンが鳴り響いた。
『ここまで来たら…彼と会わずに帰るわけにはいかないだろう?』
インターフォンが鳴り終わらないうちに、もう1人の俺が耳元でそう囁いた。
でもたしかにそうだ。こんなに金を使って、こんな思いまでしてやっと彼を呼んだんだから…会わずに帰る事なんかできない。
彼に会って、話をして…もしかしたら、そうすれば気が済むかもしれない。
3万円で買った彼との時間は、どう使おうと俺の勝手だ。 別にベッドを共にする必要はない。彼を抱く義務なんか…俺にはない。
俺は自分にそう言い聞かせ、ガラスの中の自分を見つめて紺色のネクタイの位置を整えた。
そして真知子の部屋と同じ色のカーペットの上を音もたてずに歩き、ゆっくりとドアへ近づく。
カチ、と音を鳴らして重厚なドアを押した時…最初に見えたのは薄汚れた革の靴だった。

 少年は、緊張の面持ちで静かな廊下に立っていた。
俺はその少年の姿に目を見張った。彼はまるで、裕也そのものだった。
似ている。真っ黒な髪も、尖った顎も、頬がこけている感じも…すべてが裕也に似ている。
彼は黒いハーフコートの襟を整え、メガネのレンズを通して上目遣いに俺を見つめていた。
俺はその時、やっと彼が裕也本人ではない事をはっきりと意識した。
彼は裕也よりだいぶ背が低い。裕也は身長が180センチ近かったけど、今目の前にいる彼の背丈は裕也よりも10センチぐらい低く見えた。
裕也に似ているとはいえ、彼は明らかに幼かった。体の骨格は細く、まだ子供の目をしている。 でも俺は…そのあどけない顔からどうしても目を逸らす事ができずにいた。
「あの…本当に僕でいいですか?気に入らなければ別な人を呼びますけど…」
俺は自信なさげなその声を聞いてまた驚いた。
顔の骨格が似ているせいか、その声は…裕也と同じ声だった。
「…入って」
俺はその時、裕也に話す時と同じ声で彼にそう言い、少年を部屋へ招き入れた。
幼い裕也は、薄汚れた革靴で部屋へ足を踏み入れた。
自分がその後彼と長い付き合いになるなんて…その時の俺には想像もできなかった。