8.
さっきまであんなに大胆だった彼が、今は鼻のあたりまで羽根ぶとんを引っ張り上げて仰向けに寝ている。
月明かりに照らされるベッドルームの中には静けさが漂っていた。
羽根ぶとんの下でそっと手を伸ばしても、彼の体に触れる事はできない。彼はキングサイズのベッドの隅っこで
小さくなっているからだ。
「もっとこっち来いよ。せっかく一緒にいるんだから…」
俺が小さくそう言うと、彼はほんの50センチ体をずらして俺に近づいた。
俺はとてももどかしく、とうとう自分の方から彼に接近し、腕枕をして強引に彼を抱き寄せた。
すると、彼の体の細さがはっきりと俺の腕に伝わった。
彼は黙って俺に身を任せていたけど、鼻のあたりまでふとんを引っ張り上げて俯く事はやめなかった。
「どうしたの?急におとなしくなっちゃって。さっきまではあんなに大胆だったのに」
彼の耳にそう囁くと、彼は遂に頭までふとんを被ってしまった。
しかたがないので俺もふとんに潜って手探りで彼の頬を捜し当て、やっとそこにキスをすると、真っ暗闇のふとんの下に
彼の小さな声が響いた。
「ごめんなさい。僕、先にいっちゃった。お客さんより先にいくなってマネージャーに言われてるのに」
「そんなきまりがあるのか?」
「きまりは3つ。お客さんより先にいかない事。お客さんの私生活を詮索しない事。それから…お客さんを好きにならない事」
そこまで話を聞いた時、俺は暑くなって思わず羽根ぶとんを蹴った。
すると程よい月明かりに照らされた彼の姿が露になった。彼は慌ててふとんを手でつかみ、ベッドの上に座って
その姿を首のあたりまで隠してしまった。
「お前、何恥ずかしがってるの?」
俺が笑いながらそう言うと、彼は座ったまま頭からふとんを被ってしまった。
そんな彼がとても愛しくて…俺はその後もう一度彼を抱いてしまった。
二度目が済むと、彼はさっきまでのように恥ずかしがる事はなくなった。
ベッドの隅で小さくなる事もなかったし、ちゃんと俺のすぐ側にいてくれた。
彼は俺の腕を枕にして…遠慮がちに言うべき事を口にした。
「もうすぐタイムアウトだけど…どうしますか?」
…忘れていた。彼と一緒にいられるのはたったの2時間だけだったんだ。
俺はもう少し彼と一緒にいたかった。まだ圭太を帰したくなかった…
「あといくら払えば、朝まで一緒にいられるの?」
圭太はもうその時、俺が金銭的にかなり無理している事を知っていた。察しがいい彼の事だ。そんな事に気付かないはずはない。
彼はだからこそ…あんな事を言ったんだ。
「本当は6万円だけど、3万円でいい」
「どうして?それ、どういう計算?」
俺は視線を宙に浮かせながら自分の財布の中身を思い浮かべていた。その時俺の財布には、5万円と小銭しか残っていなかった。
彼はとても正直な人だった。
彼は月明かりの下で俺を見つめながら自分の考えを率直に打ち明けた。その時は彼の体温が俺の体を温め、俺の体温が
彼の体を温めていた。
「ステイにするなら、本当は6万円。でもマネージャーには3万円渡せばいいから…だからあと3万円でいいです」
俺は枕に頭を乗せたまま彼を見つめ、ちょっと渋い顔をした。
すると彼は何を誤解したのか、いきなりベッドの上に起き上がって枕の横に置いてあるメガネをかけた。
「ごめんなさい。僕…時間が来たからもう帰ります。今日はどうもありがとうございました」
俺は、そう言って立ち上がりかけた彼の腕をつかんだ。そして俺たちはベッドの上に向き合って座り、
お互いを見つめ合った。
メガネをかけた彼は…相変わらず裕也にそっくりだった。
レンズの奥の目が優しげなのも、後ろ髪が跳ねているのも、裕也にそっくりだった。
俺は両手を彼の頬に当て、時に情熱的な彼の唇に軽いキスをした。
メガネをかけたままのキスがうまくいったのは、その時が初めてだった。
圭太は小さな両手で俺の手首をつかみ、やがてその手にぎゅっと力を入れた。
裕也によく似た彼の目は…真っ直ぐに俺を見つめていた。
「お前…商売がヘタだな」
「…」
彼は何も言わなかった。ただくっきりと浮かび上がるあばら骨が…とても痛々しく感じた。
「圭太はそんなふうに自分を安売りするな。お前は自分が思ってるよりずっと綺麗なんだから」
俺が言い聞かせるようにそう言うと、一瞬彼の目に涙が浮かんだ。
でもその涙を流さない事が彼のプライドなんだろう。彼は自分のちっぽけなプライドを守るためにぐっと唇を噛んで
涙を堪えていた。
「金はちゃんと払う。足りない分はこの次必ず返すから」
俺の手首をつかむ彼の手にますます力が入った。彼は半分涙声になりながら、それでも涙は流さずに
俺の目をじっと見つめ、たった一言だけこう言った。
「また…僕を指名してくれますか?」
「俺は1番綺麗な子を指名する。それはきっと…お前だよ」
彼の手から力が抜け、その手はシーツの上にポトリと落ちた。すると次の瞬間、その手の上に大粒の涙が零れ落ちた。
彼はいったいいつから泣くのを我慢していたんだろう。
それはきっと…俺とめぐり会うずっと前からだ。俺にはその時、はっきりとその事が分かった。
俯いて声もたてずに泣く彼は…自分の涙を拭う事ができなかった。
それは、俺が彼の両手をぎゅっと握り締めていたからだ。
胸の上にあるふとんは、いつもよりずっとフカフカだ。なんとなく腰が重い。そして、体が熱い。
何かを感じて薄目を開けると、視線の先にはバラの花があった。部屋の中には花のいい香りが充満している。
そしてブラインドの隙間から太陽の光が縞模様になって部屋の中へ差し込んでいる。
そうか…そうだった。
俺はホテルのベッドで眠っていたんだ。昨夜は裕也にそっくりな少年をこの部屋へ呼んだんだった。
だけど俺の横を見ても…そこには誰もいなかった。そこにはただ、シーツの上に映し出される縞模様があるだけだった。
よく見ると、足元の方で何かがモゾモゾと動いている。それに気付いた瞬間、すごい快感が体中を駆け巡った。
圭太だ。ヘアーのあたりに彼の手の感触がある。そして大きく膨らんだ俺の先端に、彼の温かい舌の感触がある。
それを意識した瞬間、体に電気が走った。俺は再び目を閉じて、体中に染み渡る快感を受け入れた。
彼はキスがヘタクソだけど…これだけは最高に上手だった。
「ちょっと…待って」
なんとか声を絞り出したけど、彼は恐らく行為に夢中で俺の声なんか聞いてやしない。
あっという間に限界が近づいてくる。あっという間に頂点が近づいてくる。
悪あがきしてこみ上げてくるものを必死に抑えているのに…彼はそれを許さないと言いたげに手と舌を使って
俺を攻撃し続けた。
毎朝こんなふうに目を覚ます事ができたなら…俺はどんなに幸せだろう。
抜け殻になった俺が放心していると、圭太がふとんの中から顔を出した。
彼はとても健康的な笑顔を浮かべ、俺の手をぎゅっと握り締めて おいしかった、と一言言い…それから枕に顔を埋めて
スースーと眠ってしまった。
俺は呆気に取られてうつ伏せで眠る彼を見つめた。彼の特技は、枕に頭を乗せるとすぐに眠ってしまえる事のようだ。
彼を起こさないようにそっとベッドを抜け出すと、ベージュのカーペットの上でひっくり返っている彼の靴を見つけた。
俺は床の上にしゃがんでその薄汚れた黒い革靴を手に取ってみた。
彼の靴はもうかかとが磨り減って、つま先の方はかなり傷が付いていた。
緩く結ばれた黒い紐も、埃を吸って黄土色に変わりつつある。
俺は靴を揃えてベッドの下に置き、枕に顔を埋める彼の白い背中を見下ろした。
すると彼が本物の裕也に見えてきて、胸がズキンと痛んだ。
裕也は今頃どこにいるんだろう。ちゃんとメシは食っているだろうか。
彼は時々新しい靴を買えるぐらい余裕のある暮らしをしているだろうか…