小さな恋のメロディ

 それが先週の木曜日のこと。それから週を跨いで今日、田中がこんなことを言いだしたそうだ。彼の友達にもチョコをやってくれないか、と。
「それで引き受けちゃったのか」
「うん。断る理由が思いつかなくて、つい……」
 舞は悄然と肩を落としている。
 自分に対して気のあるそぶりを見せていた男子が、他の男子との橋渡しのようなことをしてきたのだ。彼女が混乱するのも無理はない。
「ちなみにその渡辺君って子とは、舞は親しいの?」
「うーん、朝に会ったらおはようとかは言うけど……」
 特別仲がいいわけではないらしい。
「ねえ、マキちゃん。私どうしたらいいかなあ?」
「さあ、どうだろうね。僕には分からない」
「マキちゃんでも分からないの?」
「うん。だってそれは舞の問題だからね」
「……そっか」
 舞は憂鬱そうにため息をつく。その声の響きがいつもより大人びて聞こえて、薪はこっそりと笑みを漏らす。
 いつか彼女も年頃になって、本当の恋に思い悩む日が来るのだろう。これはその予行演習なのかもしれない。その時まではまだ、薪の小さな舞でいてほしいのだが。
「舞はどうしたいんだい?」
「分かんない」
「でもね、今正しい答えを知ってるのは舞だけなんだよ。舞が本当に尋ねるべき相手は僕じゃない。自分自身に対してなんだ」
「自分に……?」
 薪に言われて、舞は顔を俯かせる。真剣に考えているようだ。薪は黙って彼女の横顔を見守る。
 やがて結論が出たようで、彼女は自信なさげに口を開いた。
「田中君とは約束したからちゃんとお菓子あげるけど……渡辺君にはあげたくないかも」
「うん、それでいいと思うよ」
 薪は彼女の目を見て頷く。それでも舞は不安そうにしている。
「文句言われないかなあ」
「そうしたらこう言えばいいんだ。前日にいきなり言われたから、材料が足りなくて一人分しか用意できなかった。渡辺君にどうしてもあげたいのなら、田中君の分をあげてって。それから先は彼の領分だ。もらったクッキーを渡辺君に渡すのか、それとも断って自分のものにするのかは彼次第」
「えっ、でも、嘘ついてもいいの?」
 舞は驚いたように言う。「人に親切にする」と「嘘をつかない」が、青木家の二大家訓なのだ。
 薪は肩をすくめる。
「嘘も何も、材料はこないだお店で買ったきりだろう? それから買い足してないんだから、当初の予定通り八人分しかないよ。チョコチップなんて元々そんなに量がなかったしね」
「あ、そっかあ……」
 舞はほっとした顔になる。正当な口実を得て、気が楽になったのだろう。「物は言いよう」で逃げるやり方を彼女はまだ知らない。
 彼女は薪の膝の上にぱたりと倒れてきた。そして両手で顔を覆い、足をじたばたとさせる。薪には彼女の行動論理は分からなかったが、黙ってやりたいようにさせてやった。
 やがて舞は、指の隙間からちらりとこちらを見上げた。
「……あのねえ、マキちゃん」
「なに?」
「もしかしたらね、そういうことかなって思ったの。田中君に私のチョコがほしいって言われて、田中君、舞のことが好きなのかなって。でも勘違いだったのかもって思ったら、急に恥ずかしくなっちゃった」
「そう」
 相槌を打ちながら、膝の上でぐちゃぐちゃになった彼女の髪をそっと整えてやる。子供の細い髪の毛はさらさらして、癖もなくすぐに直った。
「でも、そう決めつけてしまうのもどうだろう。田中君がどういうつもりで舞にチョコをくれと言ったのか、またどういうつもりで友達にもやってくれと言ったのかは、やっぱり彼本人に聞かないと分からないことだよ」
「いちがいに言えないんだよね?」
「そう、一概には言えない」
 薪がオウム返しに言うと、舞は満足そうににこりと笑った。そしてぴょこんと跳ね起きて、ソファから立ち上がった。
「今からクッキー作るね。時間がないから早くしなくちゃ。マキちゃん手伝ってくれる?」
「もちろん」
「ありがとう」
 ようやくいつもの元気が戻ったようだ。薪は彼女に手を引かれて台所に行き、一緒に準備を始める。
 舞がこの日のために買ったハートの型抜きを、嬉しそうに引き出しから取り出す。その姿を見て薪は目元を緩ませる。彼女にはいつも幸せそうに笑っていてほしい。心からそう願う。
 それから舞のエプロンの紐を結んでいるときだった。彼女がこんなことを言いだした。
「ねえ、マキちゃん。聞いてもいい?」
「何?」
「行ちゃんのこと、どうして好きになったの?」
「……おっと、しまった」
 うっかり紐を引っ張りすぎて、ちょうちょ結びが片結びになってしまった。薪は紐をほどいて、もう一度結び直す。
「さあ、どうしてだったかな。昔のことだから、もう忘れちゃったな。よし、できた。お腹は苦しくない?」
「お願い、教えて。行ちゃんには絶対言わないから」
 困った。舞はごまかされてくれるつもりがないらしい。薪の腰に後ろから抱き着いて「ねえ、ねえ」とせがんでくる。こうなると、薪は弱いのだ。彼そっくりの目でお願いされたら、断ることができなくなってしまう。
 薪はのらりくらりと回答を逃げたが、舞は一切容赦してくれず、とうとう「そのうち思い出したら話す」と約束させられてしまった。
「なんでそんなことが知りたいんだ……」
 薪が困惑げに呟くと、舞はこう答えた。
「人を好きになるのってどんな感じかなって知りたくて」
「それは……」
「あのね、舞ね、田中君にチョコあげるのは嫌じゃなかったの。お菓子の本を読んだり、ラッピングを考えたりしてる間、すごくワクワクしたの」
「うん」
「それで、もしかしたら田中君のこと好きなのかなって思ったの。でも田中君に他の子にもチョコあげてって言われた時……なんか……なんか……」
「がっかりした?」
「ううん」
 舞は首を振って、こう言った。
「なんか、どうでもよくなっちゃった」
 彼女のあっけらかんとした口ぶりに、薪は吹き出しそうになった。右手を丸めて口元を隠すと、舞が「そう、それ!」と叫んで、こちらを指さした。
「それって何が?」
「田中君が考えるときの仕草がマキちゃんと一緒だったの。それで勘違いしちゃったのかも」
「勘違いしたって、僕と彼を?」
「うん」
「そうか、それは光栄だな」
「えへへ」
 舞が照れくさそうに笑う。つられて、薪も少し笑った。あまり笑顔は得意ではないのに、どうも青木家の笑顔は薪に伝染してしまう性質を持っているらしい。
 そのうちに、風呂から青木が戻ってきた。彼は息子を腕に抱きかかえていた。湯船の中で寝てしまったのだそうだ。
 青木の手から息子を受け取ると、体がほかほかして、熱いほどだった。
「ゆき」
 薪がゆすって話しかけても、息子はぐずって起きようとしない。
 いつもの寝る時間には少し早かったが仕方がない。夜中に起きる羽目にならなければいいが。息子を寝かしつける役目を青木に任せ、薪は舞の手伝いに戻った。

コメント

なみたろうさん

うあああん、薪ママがチラッと…感動です( ;∀;)
きっと優しい優しい顔するんだろうなぁ〜。
青木なんかもう息子と嫁にデレデレなんだろうなぁ〜。
舞ちゃんの真っ直ぐさと薪さん大好きが青木DNAで可愛いです!!
そしてふたりの子供を分け隔てなく大切にしてる薪さんにも…(泣)

私、子供は嫌いなんですけどね、薪さんもそんなに得意じゃないと思うんですよ。
でも「子供が好き」とか「嫌い」とかって単に人間を種類で括って言ってるだけで、
結局個人のことじゃなくて、実際私は甥っ子が大好きです。
薪さんも青木と同じ真っ直ぐな目をした舞ちゃんが好きですよね?
同じ理由で愛する人と自分の子供が愛しいですよね?
ああ幸せだぁ…

舞ちゃんの恋の行方と共に薪さんの気持ちがあらわにされそうで楽しみです。
またそんな真顔でうろたえちゃって。

> そしてふたりの子供を分け隔てなく大切にしてる薪さんにも…(泣)

やーでも、初めのうちはやっぱり気を使ってたと思うんですよ。
舞が疎外感を覚えないように〜とか、やりすぎると逆に違和感が出るからなるべく自然に〜とか。
その点青木は気楽なもんです。自分の好きなものに囲まれて、
「薪さん好き好き♡」「舞好き好き♡」「ゆき好き好き♡」って言ってたらいいだけなんですから(笑)。
でもそういう風に楽しそうにしてる彼を見て、薪さんも肩の力が抜けたんでしょうね。
ああ、こうすればいいのか〜、自然体ってこういうことか〜って。

> 薪さんもそんなに得意じゃないと思うんですよ。

同感でーす。
子供って言葉が通じなくて、ちょっと動物的な所があるじゃないですか。
理論派の薪さんには相性悪そうですよね。
子供を育てていく間で、いろんな発見や驚きがあっただろうな〜。
「そうか、赤ん坊はこういう時こう反応をするのか……」って学習したのに、
次の時には違う反応されて、「こないだとは違うじゃないか!」って憤慨したり(笑)。

> 薪さんも青木と同じ真っ直ぐな目をした舞ちゃんが好きですよね?

もう毎日メロメロです♡
でも最初から順調だったわけでもなくて、薪さんは舞に対して遠慮があっただろうし、
舞も舞で「行ちゃんのお嫁さん」に対してどう接すればいいのか、
彼が自分にとってどういう存在に当たるのか分からなくて、戸惑ってたと思うんです。
そういう山あり谷ありを乗り越えて、ようやく安心して甘えられる関係になれたんだと思います。

> またそんな真顔でうろたえちゃって。

もうなみたろうさんには、私の頭の中の情景がまんま伝わってるんですね。さすがです!
薪さんが息子を呼んだ時の声も、もしかしたら聞こえたんじゃないですか?
前にアクセントを置きながら、ゆっくりめに、一音一音切るようにして問いかけるイメージなんですが、
そんな風に聞こえたでしょうか?

 

 (無記名可)
 
 レス時引用不可