Glitter in The Air

 リノリウムの床にかつん、かつんと靴音が響く。人の多い昼間と違って、夜の病院の廊下は音が反響する。岡部はなるべく足音を立てないように歩いたが、もう一人の男にそういった気づかいを求めるのは、今は無理なようだった。一応前を向いて歩いてはいるが、その目はどこかぼんやりとして、焦点が定まっていないように見えた。
「青木、そっちじゃない。こっちだ」
 エレベーターホールの前を通りすぎようとする彼を呼び止める。振り返った青木に、岡部は顎の先でエレベーターを指す。
「こっちだ、青木」
 そう言うと、彼はふらふらと頼りない足取りで戻ってきた。

 エレベーターを待っている間、岡部はチラリと隣の様子を伺った。彼はエレベーターの表示ランプを見上げていたが、それもちゃんと認識しているかは疑わしかった。
 先ほど医師との面会が終わってから、青木はまだ一言も口を聞いていない。里中たちと別れるときも棒立ちしていた。岡部がどんと肩をついて、ようやく頭を下げる有様だった。
 まだ心の整理がついていないのだろう。確かにそう簡単に受け止められることではない。岡部も最初は信じられなくて、何度も聞き間違いかと思ったのだ。当事者であるこの男にとっては、その何倍ものショックを受けたことだろう。自分が父になったなどと。
 父──そう、父親になったのだ、この男は。
 岡部から見れば、彼はまだまだ半人前だ。むろん九州管区を預かるという大役を果たしているし、世間一般の同年代と比べればしっかりしている方だと言えるのかもしれない。しかし、精神面において未熟な部分があると言わざるを得ない。涙もろく、情に弱い。被害者や、時には加害者にまで肩入れしすぎることがある。それがいい方に働くこともあるが、捜査員の資質としてはやはり欠点の方に入るだろう。
 また普段はおとなしいくせに、一度感情を昂らせると、無鉄砲なことをしでかす傾向にある。第九に着任早々、ヘリを強奪し、上司を誘拐しているのだから恐れ入る。しかし彼が今までにしでかしたことの中でも、間違いなく今回の件が断トツだ。
 なんせ岡部の上司を妊娠させてくれたのだから。

 まるでお見合いの仲人のように、里中は「お二人の相性が良かったのでしょう」と言った。

 非常に珍しいことではあるが、薪のような体質の人間は稀に現れるらしい。医師の説明によると、母体の中で兄弟の遺伝子の一部を取り込んで誕生したがために、本来の自分のものとは別に、もう一つの器官を生まれ持つことがあるのだという。そして薪の場合はそれが生殖細胞だったのだ。
 それでもたいていは男性ならば男性の、女性なら女性の、同姓間の遺伝子同士で起こる現象であって、今回のように異性の生殖細胞を獲得するというのはレアケースではあるらしい。
 そもそも男性受胎は二十一世紀の中頃になってから起こるようになった。そういえば昔、そうしたニュースが世間を賑わしたことがあった。まだ岡部が幼い頃で、うっすらとしか覚えていないが、確か北欧のどこかの国で男性同士のカップルに子供が生まれたのだ。岡部も子供ながらに驚いた記憶がある。
 しかしこのセンセーショナルなニュースは、意外にもすぐに立ち消えて聞かなくなった。まあ一度生まれてしまえば、その後いちいち成長記録を報道する必要もないわけだし、そういうものだろうと思っていたのだが、実はそれは恣意的に隠された結果だったそうだ。報道後、当事者家族の生活が脅かされることがあったらしい。そのため、以降同じケースの妊娠が発覚した場合は一般には周知せず、しかるべき範囲に留めるよう取り決められたのだそうだ。
 なんにせよ男性の妊娠は現実的に起こりうる現象であり、これまでにも三例が確認されている。そしてその三例とも、無事に出産がなされた。生まれた後も普通の子供と変わりなく成長し、成人して元気に暮らしているそうだ。なんでもそのうちの一人は、とあるマイナースポーツのプロ選手にまでなったらしい。
「だから今回も絶対に大丈夫だと言いきるわけではありませんが……ええ、お産のことですからね、何があるかは分かりません。ですが、必要以上に不安に感じることはありませんよ。他のご家族と同じように、どうぞ心安らかに、お子さんの誕生を楽しみになさっていてください」
 里中は何も心配ないのだというように、おおらかに構えていた。いつもこうして患者の不安を取り除いているのだろう。対して産科医の東原は鉄面皮だったが、それはそれでこんな風に泰然としているからにはきっと大丈夫なのだろうという、奇妙な安心感を覚えさせた。
 そして彼は無表情のまま口を開いた。
「ですが、一点だけ気を付ける点があります。十月十日で生まれるというのが一般的なお産ですが、男性妊娠の場合は必ず早産になります。女性と男性では骨盤の形状が違うので、子宮の膨らみに骨盤が適応しないのです。またお産の時は必ず帝王切開になります。薪さんのお腹に形成されているのはあくまで疑似子宮のようなものであって、本物の子宮ではありませんから」
 東原はどれぐらいの時期に出産が見込めるか、手術がどんな形式になるのかなどを簡単に説明した。青木は話を聞いている間、まるで自分自身が切られるかのように、痛そうに顔をしかめていた。その気持ちは岡部にもよく分かった。あの細い体にメスが入るなど、想像するだけでも痛ましかった。
「最後に、改めて言わせてください。おめでとうございます、青木さん。私どもも力を尽くしてお二人を支えます。一緒に頑張っていきましょう」
 里中の励ましの言葉に、青木は額を机に擦りつけるようにして深く頭を下げていた。

 病室のある階に辿りつくと、ナースステーションに向かった。医師の計らいで、すでに話が通っている。青木が薪の個室に泊まり込む許可ももらえた。簡易ベッドを貸しだしてもらうことになっている。
 青木の様子が依然頼りないので、岡部が代わりに看護師と話して、諸々の手続きをした。その間、青木は後ろでぼうっと控えているだけだった。彼の胸中を考えれば無理もないことではあったが、岡部は密かに不安を覚えた。
 病室の前まで来ると、岡部は彼を振り返った。
「俺はこれで帰る。明日また来るが、その時何か持ってきてほしいものがあったら連絡しろ。夜中でもいい。遠慮するなよ。薪さんのためだからな」
 すると、青木はようやく口を開いた。
「……色々とありがとうございました、岡部さん。本当に、俺……」
「いいから行け。薪さんが待ってる」
 岡部の素っ気ない言葉に青木は頭を下げ、病室の中に入っていった。
 スライド式のドアが自動で閉まっていく。しかし最後の方で勢いが弱まり、数センチほど開いたままになった。岡部は扉を閉めようとするが、途中で手を止める。扉の隙間から、中の気配が伝わってきたのだ。
 普段の岡部なら、立ち聞きなんて趣味の悪いことは絶対にしない。しかし、この時ばかりはどうしても心配で仕方なかった。
 青木が誠実な人間であることも、彼が薪と真剣に付き合っていることも、岡部は知っている。だが世の多くの男性にとって、突然父になったと宣告されることがどれだけショックが大きいことかも、彼は理解していた。
 不安要素はそれだけではない。青木はずっと心に贖罪を抱えている。本来なら彼は自分の子供を持たないはずだった。姪に自身の生涯を捧げるのだと決意して、そのためにかつて婚約を破棄したほどだった。
 あの男に限って、薪を堕胎させることはないだろう。だが手放しに子供の誕生を喜べるだろうか? 彼にとって、今回のことは姪への誓いを破ることに他ならないのだ。
 薪自身、そんな青木の心情を誰よりも理解しているはずだ。最初に医者から説明を受けたとき、彼はあんなにも蒼褪めて怯えていた。それは子供を産むことへの恐れ以上に、青木に対する懸念があったのだろう。だからもし、ほんの少しでも否定的な思いが顔に出てしまったら、薪はきっと気づいてしまう。
 青木の混乱は分かる。しかしどうかそれを腹の中に納めて、薪の心を、苦悩を受け止めてやってほしい。今、薪が世界中で一番必要としているのは、間違いなく彼なのだから。
 もしそれができずに、不用意な言葉や態度で薪の心を傷つけてしまうようなことがあれば。

 その時は自分がこの扉を開けて、中に入るかもしれない──。

 室内は沈黙のまま、中の張り詰めた空気だけが扉越しに伝わってきた。
 やがて青木の声がした。
「……薪さん」
 岡部には扉の向こうの様子は見えなかったが、薪がどんな風でいるかは手に取るように分かった。顔を蒼白にしながら、青木のことを見つめ返せないで、あの時のように俯いて、小さくなって。
 すると、青木は言った。ごめんなさい、と。
 岡部ははっと息を呑んだ。
 何の疑問もなく、彼が薪に最初にかける言葉は「ありがとう」だろうと思っていた。なのになぜ謝るのだ。薪に対して何を申し訳ないと言うのだ。まさか「妊娠させてごめんなさい」とでも言うつもりなのか? まるで子供ができたことが間違いであるかのように。
 岡部は今にも扉を開けそうになる自分の手をぐっと握りしめた。腹の底からふつふつと湧き上がってくるものがある。だが彼はそれを押さえつけ、息を殺しながら耳を澄ませた。
 やがて、青木はこう続けた。


「こんなときに薪さんを一人ぼっちにして……心細い思いをさせて、ごめんなさい」


 その瞬間、岡部は堅く目をつぶった。ほうと息を吐き出すと、随分と長い一呼吸になってしまった。
 扉の隙間からはすすり泣くような声が漏れ聞こえていた。それがどちらのものかは分からなかったが、岡部にはもうどうでもいいことだった。彼はそっと扉を閉め、病室の前を立ち去った。
 長い廊下を歩いている間に、彼はふと足を止めて、窓を見た。今宵は月夜だった。星はほとんど見えず、明るい月だけがぽっかりと中空に浮かんでいる。
 だが岡部には、その月の輪郭がどういう形をしているかも分からなかった。ともすれば何かが胸の奥からこぼれ落ちそうな衝動に、彼は必死に耐えていた。


END

これにて「おめでた編」終了です。
お付き合い頂き、ありがとうございました。

コメント

あやさん

今更のコメントですみません。
はぁ、私も岡部さんと同じ心境でちょっとハラハラドキドキしてしまいました。
双子で生まれる筈だった場合、片方が成長できずもう一人の体内に取り込まれちゃうことがあるとか。
だとしたらありえますよね。
勿論、青木は喜ぶと思いますが舞ちゃん以外の子供は持たないと雪子に言ったんですものね。
でも、彼女もきっと薪さんに家族ができることを喜ぶでしょう。
岡部さんが本当に原作の岡部さんらしくて嬉しいです。
彼もきっとよろこんでくれる(*´▽`*)

> 今更のコメントですみません。

お気になさらず。お好きなタイミングで読んでやってください^^

> 双子で生まれる筈だった場合、片方が成長できずもう一人の体内に取り込まれちゃうことがあるとか。

そうそう、それです。その実話からヒントを得てこの小説を書きました。
あやさん説明お上手ですね〜。作中の説明より分かりやすいですよ。
いっそ作中に「あやさんのコメント参照」って書いちゃおうかな(笑)。

> でも、彼女もきっと薪さんに家族ができることを喜ぶでしょう。

そうですね。私の中では雪子さん青薪推進派なので(笑)、きっと誰より喜んでくれると思います。
子供の年齢も近いし、薪さんの良きママ友になってくれたらいいな。
や、それはさすがに薪さんが嫌がるかw

> 岡部さんが本当に原作の岡部さんらしくて嬉しいです。

ありがとうございます……! そう言ってもらえるのが一番嬉しいです。
私も岡部が頭の中で勝手に動いてくれて、筆が止まることがありませんでした。
こんな時彼ならどう考えるだろう、どう動くだろうというのが自然に頭に浮かぶんですよね。
それだけ彼が魅力的な人だということなんでしょう。

 

なみたろうさん

あえて言わせて下さい。
おめでとうございます(号泣)

そうか〜。ファンタジーだしって舞ちゃんのこと忘れてましたごめんなさい。
いやでも薪さん自分で舞ちゃんに家族作ってやれとかなんとか言いませんでしたっけ
ユーが作っちゃいなよ!(°▽°)

薪さんが青木の子をはらむ、とゆう設定に謎の萌えを覚えましたが、
やはりここでは娘が懐妊した母親並に活躍する男、ヤスフミがいいですねぇ〜。
薪さんの心と体を気遣って、最愛の娘をはらませた若造にムカつきながら心配して、そして最後感動……
やっぱり薪さん、あなたの彼氏頼りないけど愛だけは負けない。
ヤスフミもカッコいいよ…もうほんとに結婚しろよ…

私からも言わせてください。薪さんおめでとう……!(泣)
薪さんを幸せにしたくて書き始めた話なんですが、私、ちゃんと幸せにできてますかね?

> ユーが作っちゃいなよ!(°▽°)

ナイスアイディアです〜! もうそれしかないですよね★
薪さんもこれでようやく青木と添い遂げる気になったと思います。子供のためにも。

> 薪さんが青木の子をはらむ、とゆう設定に謎の萌えを覚えましたが、

妊娠ネタ大好きなんです……良くないですか?(笑)
私どうしても薪さんに我が子を抱いてほしくて。
でも原作だとありえなさそうだから、せめて二次創作の中だけでもと思って書きました。
特殊嗜好につき合わせちゃってどうもすいません^^;
なみたろうさんがこのお話に萌えて頂けたのなら、布教成功ということで♪

> 薪さんの心と体を気遣って、最愛の娘をはらませた若造にムカつきながら心配して、そして最後感動……

岡部ママならきっとこんな風に二人を見守ってくれるんじゃないかなって思うんです。
そうそう、青木にちょっとムカついてたんですよ(笑)。
岡部って「娘さんをください」って挨拶に来た彼氏に、ガン飛ばすタイプだと思うので。
そして後で一人になってからこっそり泣くと(笑)。

> もうほんとに結婚しろよ…

ほんと結婚してほしいですよね〜。
2060年代ならもう同性婚が可能になってると思うんですけど、どうなんですかね?
清水先生に作中で二人を結婚させようって思って頂くために、現実の法整備を急いでほしいです!

 

しづさん

ひとまず大団円、て、おしまいですか?
やーん、生まれるところまで読みたかったな〜!

最初は、舞ちゃんへの誓いのことまでは考えませんでした。
さすが沈丁花さん、深いなっ。
でも、青木さんも薪さんも、新しい命を受け入れることを決意して・・・
わたしも岡部さんと一緒に泣きます。よかった(;▽;)

> ひとまず大団円、て、おしまいですか?

一応この話の続きも考えてます。
ちょっとテーマが難しくて、どう書こうか悩んでるんですが。
読みたいって言ってもらえたので頑張りますね〜。
また更新に間が空くと思うので、気長にお待ちください。

> 最初は、舞ちゃんへの誓いのことまでは考えませんでした。

この話を本編の延長上の設定で書いたのがそのためなんですよ。
オフィスラブ編だと、青木が「わーい」って能天気に喜ぶだけですから(笑)。

> わたしも岡部さんと一緒に泣きます。よかった(;▽;)

岡部の男泣きは本当にいいですよね。10巻で彼の背中にマジ惚れしました。
涙目で月の輪郭がぼやけてしまったというのを
読み取ってくれてありがとうございます!^^

 

 (無記名可)
 
 レス時引用不可