Lovers

 マンションを出ると、空は雲一つなく晴れ上がっていた。鈴木は深呼吸をして、朝の冷たい空気を吸い込んだ。そして軽い足取りで、エントランス前の短い階段を駆け下りる。
「よっと」
 最後の三段を飛んで歩道に降り立った時、背後から声をかけられた。
「遅かったわね」
 鈴木が驚いて振り向くと、マンションの入り口横に彼女がいた。腕組みして壁に凭れかかっている。
「ゆ、雪子……」
 さすがにこの事態は想定していなかった。鈴木が固まっていると、雪子は呆れたように「何、その顔」と言った。そして組んでいた腕を解いて、こちらに向かって歩いてくる。鈴木は一瞬身構えそうになったが、彼女はそのまま彼の傍を通り過ぎた。
「えっ?」
 肩透かしを食らった鈴木を置いて、彼女はすたすたと歩き去って行く。どうやら駅の方角に向かっているようだ。もう電車は動いているから、歩いて帰るよりも確かにその方が早いだろう。鈴木は慌てて彼女のあとを追いかけた。

 早朝の住宅街に人影は殆ど見えなかった。もし今他に人がいたら、自分たちはどういう風に見られるのだろう。休日の朝に少し離れて歩く二人の男女とは、いかにも意味深だ。朝帰りの途中と取られるか、それとも夜を徹しての別れ話が終わった所と取られるか。それは前を歩く雪子の表情次第なのかもしれない。
 彼女の背中を見つめながら、鈴木はふと思う。この後駅に着いたら、彼女はどちらの方面の電車に乗るのだろうか。何の疑問もなく一緒に帰るのだと思っていたが、もしかしたら彼女は自分の家に帰るつもりなのかもしれない。「じゃあね」と言って、反対側のホームに回る彼女の姿が容易に想像できてしまい、鈴木は慌てふためく。
 もしこのまま別れてしまったら、二人の間にしこりが残ってしまうだろう。それはなんとか避けたい。彼女を失うことだけはしたくなかった。
「雪子」
 鈴木が呼びかけると、彼女は足を止めて、ちらりとこちらを見た。
「何」
「あんな風に家を飛びだしたりして、心配させたよな。ほんとごめん」
「別に? そんなに心配してなかったわよ。どうせつよし君の所にいるんだろうなって思ってたから。実際当たってたわけだしね」
 意外にも雪子は平然としていたが、鈴木は帰る前にきちんと話をしておきたかった。
 ちょうど近くに児童公園があったので、二人でそこに寄ることにした。

 ベンチには一組の先客がいた。帽子を被った老夫婦が腰かけていたので、彼らは遊具スペースの方に行った。雪子がブランコの一つに座ったので、鈴木は前の柵に腰掛ける。
 鈴木はまず、昨夜の喧嘩について話すことにした。
「あのさ、昨日の話なんだけど……途中で俺が無言になったろ? あれさ、ふてくされてたわけじゃなくて……その、俺が今までずっと煮え切らない態度取ってたせいで、雪子を不安にさせてたんじゃないかと思って。何を言えばいいのか分からなかったんだ」
「ああ、そのことなら大丈夫。克洋君がどんなふうに考えてたかは薄々分かってたし、そんなに気にしてなかったから」
「けど、俺のことで家からも色々言われたりしてたんだろう?」
 すると、彼女は肩をすくめた。
「そりゃ親だもの、口を挟まずにはいられないわよ。けど本当に気にすることないわ。もういい年の大人なんだから、自分のことは自分で決められる。それより私が心配してるのは克洋君の方よ」
「俺?」
「ええ。今だって色々大変なんでしょう、仕事」
「それは、まあ……」
 鈴木は言い淀む。仕事柄、職務内容を部外者に話すわけにはいかない。それは同じ研究機関に務めている彼女でも同様だった。だから鈴木はこれまで雪子に、仕事の話を殆どしたことがなかった。たとえどんなささいな愚痴であろうと。
 彼の内面を察したように、雪子がふっと微笑む。
「二年もブランクがあるんだもの。前と色々状況が変わるのは仕方ないわ。だから焦らないで、今はゆっくり前に進んでいけばいいじゃない。つよし君だって支えてくれる。せっかく同じ職場に友達がいるんだから、利用しなきゃ損よ」
「……ああ、そうだな」
「私のことも気に病まないで。私は私のことであなたに重荷に感じてほしくない、それだけ」
 てっきり怒られるだろうと思っていたので、雪子の言葉に鈴木は虚を突かれる。彼が抱えていた不安を、彼女はとっくに知っていたのだ。そうと分かると、これまで一人で悩んでいたことが無駄なことのように思える。自分は何を思い煩っていたのだろう。
 鈴木は空を仰ぎ見て、ほうと息を吐いた。
「なんだ……もっと早くに雪子に話しておけば良かったな、一人でくよくよしてないで。馬鹿みたいだ」
「ええ、本当にそうね」
 雪子が遠慮せずはっきりと肯定するので、鈴木はかえって肩の力が抜けていくような気がした。いつも彼女はこうして自分に力をくれる。なぜこんな大事なことを今まで忘れていたのだろう。
 改めて雪子を正面から見つめ直す。そして鈴木は素直な気持ちで、もう一度彼女に謝った。
「昨日は本当にごめん。当てつけみたいなことして……別にお前のことが嫌だとか、顔も見たくないとか、そういうつもりで出て行ったわけじゃないんだ。ただ……」
「分かってるわよ、頭冷やしたかったんでしょ? 確かにあのまま顔を合わせてたら、大喧嘩に発展してたかもしれないから、いいガス抜きになったんじゃない? 今こうして冷静に話ができてるわけだし」
 彼女は気にしていないように言うが、それが本心であるはずがなかった。夜中に恋人に置き去りにされて、傷つかないわけがない。しかも雪子は過去に鈴木を失いかけた経験がある。今でもたまに不安そうに自分を見てくることもある。そんな彼女に対して、自分がした仕打ちは酷でしかなかった。
「怒られて当然のことをしたって思ってる。ごめんな、本当に」
 鈴木が謝罪の言葉を繰り返すと、彼女は困ったように小首を傾げた。切り揃えられた髪が、肩先でさらりと揺れる。
「そうね。怒ってないと言えば嘘になるけど……多分克洋君誤解してる」
「誤解?」
「ええ、私が何に対して怒ってるか、本当に分かってる?」
「何に対してって……俺が出て行ったことじゃないのか?」
「そういうことじゃなくて……」
 雪子は俯いて黙り込んだ。彼女の表情は言おうか言うまいかと悩んでいるようだった。
 そして二人の間でしばらく無言の状態が続いたが、やがて彼女はぽつりと言った。

「……どうしてつよし君の所に行ったの?」

 鈴木にとってその問いは今更でしかなかったので、彼は深く考えずに答えた。
「そりゃあの時は財布も持ってなかったし、行ける所があいつの家しかなかったからだよ」
 すると雪子は苦笑した。
「そういうことを言ってるんじゃないの」
「じゃあどういう……」
 その時鈴木は彼女の様子に気づいた。悄然と肩を落として、悲しそうな目をしている。さっきマンション前で会った時から、ずっと気丈に振る舞っていたのに、ここにきてどういうわけか落ち込んでいるようだ。
 鈴木は柵から腰を上げた。そして地面に膝をついて、彼女の前にしゃがみ込む。至近距離から見た彼女の目には、うっすらと涙がにじんでいた。
 雪子は鈴木の視線に気づくと、目尻を拭った。
「どうしたんだ、雪子。なんでそんなに……薪のことが気に障ったのか?」
 雪子は首を横に振る。そして彼女は悲しげに微笑んだ。

「あの時と……二年前と一緒だなって思って」

 その瞬間、鈴木は頭をガンと殴られたような気がした。
 彼女の言う二年前とは、自分が撃たれた日のことを指しているのだろう。あの時自分は精神を病んで自宅療養中だった。
 一方で、鈴木は一人残された薪のことをひどく心配していた。そこである程度回復したと自己判断すると、鈴木は彼女の目を盗んで職場に向かったのだ。その結果、彼は二年間仕事を離れることになった──。
「克洋君、あの時とちっとも変わってないんだなって思った。つよし君がどうこうじゃないの。問題はあなたが私に向き合おうとしないってこと」
「雪子……」
「仕事のことを知りたいんじゃない。ただあなたが何を考えているのかは、ちゃんと話してほしい。それが私たち二人にとって都合の悪いことでも構わないから。私から逃げようとしないで。じゃないと……」
 雪子は口を噤んだ。そして小声で囁くように問いかける。

「……私は何度あなたに置いて行かれたらいいの?」

 鈴木は何も言い返すことができなかった。彼はようやく彼女がどんな思いでいたかを理解した。
 彼は黙って手を伸ばし、彼女の肩を抱き寄せた。雪子はゆっくりと鈴木の肩にもたれかかる。首筋に当たった彼女の頭の感触が、無性に愛おしかった。
「ごめん、雪子……本当にすまなかった」
「……うん」
 雪子が小さく頷く。
 鈴木は彼女を腕に抱きながら、今ここにこうしていられることの幸せを今更に噛みしめた。

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