王道的恋愛フラグ
「うー……気持ち悪い」
は、そう呟きながら部室棟への道を歩いていた。綾部の要らない手土産のサイダー攻撃で、服がベタベタなのだ。近場の水道で顔だけは洗えたが、服はどうしようもなかった。
制服に着替えてから体操着を洗う事もできるが、汗と泥塗れの状態で、それもしたくない。
なので、は、草むしりを早めに切り上げて、シャワーを借りる事にした。
「予定よりも随分早いけど、いるかなぁ」
草むしりを始める前に友達にシャワーを貸してもらう約束は取り付けていたのだが、約束よりも一時間も早い。だが、このまま放置したら、服に甘い匂いが染み付いてしまう。何より今は夏だ。こんな甘い香りを体中から漂わせたままでいれば、虫という虫が近寄ってくるかもしれない。それだけは、勘弁願いたい。
ともかく、部室の前まで辿り着いた。後はこの扉を開けて、シャワーの使用許可を貰うだけだ。
は、ドアノブを握り捻った。が、その扉を開く事は叶わなかった。鍵が掛かっていたのだ。
「……不在?」
鍵が掛かっているということは、まだ部活中なのだろう。つまり、直ぐにシャワーを借りる事も出来なくなったという訳だ。
グラウンドまで行って、友人に声をかけて開けて貰おうか。いや、鍵の管理を彼女がしているとは限らないから、鍵を持っている人を探して頼む事になるのかもしれない。
どちらにせよ、時間が掛かる。
「こんなことなら、水道で思いっきり頭から水を被れば良かったかも」
全身びしょぬれは必須だが、ベタベタ感は直ぐに拭われる。
羞恥心? この不快感に比べれば、ブラが透けて見えるくらいどうってこと無い。
暑さ故か怒り故か、の思考が壊れて行っているのだが、突っ込み要因は生憎といない。
「どうかしたの?」
ブツブツと呟いていると、行き成り真横から声が聞こえてきた。
運動部の人だろうか、茶色い髪で面長な人が、不思議そうにこちらを見ている。ジャージの色が青いので、一つ上の先輩のようだ。
ドアノブを掴んだまま、独り言をしている自分の姿に気付いて、慌ててその手を離し彼と向き合った。
「あ、えっと……シャワーを借りようと思いまして」
「シャワー? あ、テニス部の子?」
「いいえ、違います! 友人がテニス部なんです。それで、シャワーを借りようと思ってたんですが、居なくて……」
「そっか、そういえば、テニス部はまだ練習中だったね。それよりも、何か甘い匂いするけど?」
くんくんと鼻を引く付かせて臭われたので、は汗臭さと泥臭さの混じった自分の状態に気付いて、内心で嗅がないでください! と悲鳴の声を上げた。
「こ、これは、サイダーを零してしまって!」
「サイダー? それは、盛大に零しちゃったね」
「……はい」
困った笑みを浮かべて告げた相手に、恥ずかしさと悔しさで頬が赤くなる。
後者の悔しさはもちろん、あの馬鹿綾部に対してだ。
後で絶対あいつに報復してやると、は心の中で決意した。
「……だったら、こっちのシャワー使う?」
「え?」
驚いて顔を上げると、丁度、テニス部の横の部屋の鍵を彼が開けたところだった。
少し顔を上げると、「男子バスケ部」と書かれてある表札が見えた。と言うことは、この先輩はバスケ部の人なのか。
「部室で作業するところだったし、僕以外誰もいないから」
「えと、でも」
流石に、男子の部室に入るのは躊躇われる。それに、知り合いでもない相手を簡単に入れていいのだろうか。後でこの人が怒られるんじゃないだろうか。
「そのままの状態で帰るの困るでしょ? 僕も、放っておくと後で気分悪いし。うん、お互いのメリットの為と思えばいいよ」
さらりとそんな言葉が出てくるなんて、凄い人だな、と思ってしまった。
そこまで言われて断れる人が居たら是非見てみたい。は無意識に頷いて、彼に促されるまま中に入った。
構造は、隣の女子テニス部部室とあまり変わらないようだ。
ただ、棚の配置が大雑把なところが男子っぽいなと思った。
「シャワーはその奥だよ。中から鍵を掛けられるから、安心して」
「あ、はい、ありがとうございます」
少し不安な表情が出ていたのだろうか。彼は優しい口調でそう告げてきた。
彼にそう言われると、不思議と物凄く安心ができる。
は、言葉に甘えてシャワー室へ向かった。言われたとおり、中から鍵を掛ける。
シャワー室の構造も、テニス部の部室で借りた時と同じ造りだったので、使い勝手に困る事もなさそうだ。
は、鞄の中から入浴セットを出すと、早速この不快感を拭う為に、シャワーを浴びる事にした。
◇
「ふぅ、すっきりしたー」
泥と汗と砂糖成分を全て洗い落とし、制服に着替え終わったは、身も心も綺麗になれたような気分だった。これで、虫が寄ってくる事もないだろう。
ついでに、汚れた体操着も洗ってタオルに包んだ。生乾きなのは気になるが、家で洗濯しなおせば無問題だ。
(本当に、あの先輩には大感謝しなきゃ)
お陰で、万時解決できたのだから、感謝しても仕切れない。
そう思いながら、は、鍵を外して扉を開けた。
その音に気付いたのだろう。机に座っていたその人が顔を上げた。
「終わったんだ」
「あ、すいません。長々と利用してしまって!」
「ううん、いいよ。今日はずっと、部室に居る予定だったし」
「……予定表ですか?」
彼の手元にある幾枚もの紙が視界に入って何となくそう告げた。
こんなことまでしなくちゃいけないなんて、運動部も大変だなと思う。
「ああ、うん。来月夏合宿だからね。こういうの、マネージャーの僕の仕事だから」
「え? マネージャーなんですか!? 部長さんだと思ってました!」
彼の言葉に、は、驚きいっぱいの表情を浮かべた。すると、彼は苦笑を浮かべた。
「あはは、3年生はまだ引退してないよ? それに、僕は、人をまとめるの苦手だし、男バスのマネになったのも、友人に無理矢理引っ張られただけだからね」
「そうなんですか……すみません」
「あ、ううん。気にしないで! 僕、この仕事好きだから!」
物凄く新鮮な部類の人だ。否、これが普通という奴なのかもしれない。自分の周りの人間が個性の強い輩ばかり居過ぎるのだ。
平滝夜叉丸とか田村三木ヱ門とか綾部喜八郎とか斉藤タカ丸とか……考えるだけで頭が痛い。
あいつらのおかげで、御淑やかさをどこかに投げ捨て、代わりに逞しさを拾ってしまったくらいなのだ。
「本当にありがとうございました! 後で、ちゃんとお礼しますので!」
ガバリと音がしそうなほど深く腰を折った。すると、相手が慌てて立ち上がる音がした。
「うわ、そういうのやめて!」
肩を掴まれて、思い切り顔を上げさせられた。物凄く困った顔の先輩が間近に映る。
顔近っ! と思ったが、相手は真剣なので言葉を発せなかった。
「僕は、君が困ってたから親切でやったわけだし、そういうのいらないから、ね?」
「……ええと、はい、解りました」
念を押すように言われて、素直に頷いてしまった。さっきから、この人の言い分に逆らえていない自分がいるような気がする。なんなんだ、この人、変な魔法でも使ってるんじゃないだろうか。と、なんともアホらしい考えが浮かんでしまった。
「おーい、雷蔵。コールドスプレーが切れ……」
タイミングの神様は、余所見でもしたのだろうか。丁度、室内に誰かが入ってきた。
私たちの状況を視界に入れて、言葉が途中で止まる。動作もだ。
パチパチと幾度か瞬きをした後、その人は、指で頬を掻きながらあらぬ方向に視線をやった。
「あー……わりぃ! じゃ、ごゆっくり!」
そして、そのまま部屋を飛び出していった。ドアも開けっ放しだ。
「うわぁぁぁ! はちざえもーん待ってー! それ誤解だからーー!!」
そして、先輩は誤解を解くためか慌てて彼を追って出ていってしまった。
必然的にその場に残されたは、赤くなったその頬を押さえながら、出て行った彼らを見つめていた。
誰もいないこの部室から出るに出られなくなった自分は、一体どうすればいいのか。
そんな問題に気付くのは、そのすぐ後のことだった。