いつまでも一緒に
非常に、まずい状態だった。
今の私の心境を喩えるならば、高層ビルの間で綱渡りをさせられた状態だ。つまり、いっぱいっぱいだった。
私は、リビングのソファに体育座りの状態で、考え込んでいた。
こんな時に限っておば様たちは、空気を読んだのか朝からどこかに出かけていない。
むしろ、それは、空気を読めていないとすら思ってしまった。
おかげさまで、重苦しい朝食タイムを味わされたのだ。
利吉くんは、一言も喋らないし、話しかけるなというオーラを感じて、何も話せなかった。ご飯の味も分からなくなるくらい重い沈黙が部屋に充満してて、本当に怖かった。
(本気で怒らせるようなこと、しちゃったのかな)
先輩たちの時のように無意識に何か不快なことをやってしまったのかもしれない。
謝らなくてはいけない。けれども、理由が全く思い浮かばない。
昨晩、勝手にベッドを取ってしまったことだろうか。でも、それは、利吉くんも承知のことだ。これが原因のはずがない。
(ってことは、やっぱり、昨日のことかな)
あれが原因かもしれない。ならば尚更、理由が分からない。
なぜ、利吉くんは、あれほどまでに怒っていたのだろうか。
私が、何も解っていないから?
つまり、私が何を解っていないのか自覚しないと、利吉くんの機嫌も直らないだろう。
(利吉くんが言ってたこと――って、何にも解んないよ!)
そもそも解っていたら、初めからこんなに悩んでいない。
自分は、この間からずっと悩みっぱなしだ。なんの試練なのだこれは!
折角つけたテレビの内容なんて全く頭に入ってこない。ただの雑音として響いているだけだ。けど、朝食の時のように張り詰めた空間にいるよりは、マシだった。
(早く、帰りたい)
そんな風に思ってしまうなんて、どうかしている。
けれども、誰でもいいからこの空気を打ち破って欲しかった。
(きっと、愛想尽かされちゃったんだ)
今まで散々迷惑かけてきて、今もずっと迷惑をかけているから、とうとう利吉くんの怒髪天をついてしまったのだ。そうに違いない。だから、怒っているのだ。
(謝らなきゃ……ごめんなさいって、もう迷惑かけませんって、顔が見たくないから見せないから、それでいいからって――)
「やだ」
自分が思ったことに、瞬時に言葉を発してしまった。
会えなくなるのは嫌だ。だって、彼は、いとこだ。小さな頃から、一緒に過ごしてきた人。大切な家族だ。最近は、会う回数が減って、年に数回会えたら良いくらいの頻度の少なさになってしまったけど、それでも、この先もずっとこの関係は崩れないものだと思っていた。
だから、これからもずっと仲良くありたい。
(……子どもっぽいかな)
自分の思考に自嘲の笑みを漏らした。あまりにも都合が良すぎる願いだ。
利吉くんには利吉くんの道がある。その内に利吉くんには新しい彼女が出来て、その人と結婚して、子どもができる頃には、私もまた別の道を歩んでいる事だろう。
いずれ、別たれる道なのだ。それが遅いか早いかだけの話。
いつまでも同じ関係で居続ける事の困難さを多少なりとも理解しているくせに、こういう時にだけ子どもぶろうなんて、甘ったるいにもほどがある。
(分かってるけど、でも……もう訳わかんない!!)
目頭が熱い。そこから溢れ出た水滴は、幾度も頬を伝って、膝を濡らした。
それでも、堰を切ったかのように溢れたそれは、止まりそうにない。
けれども、それを止める気もなかった。ここには、自分一人しかいないのだ。今の内に思う存分泣いてしまいたかった。
だから、私は、テレビの音をBGMに、そのまま涙を零し続けた。
◇
ティッシュを引っ張って、鼻をすすった。
思いっきり泣いた。頭が痛い。でも、ちょっとだけスッキリしたような気もしないでもない。けれども、心の重さは、まだ取れていなかった。
「はぁ」
ため息と共に、この重さも吐き出せたらいいのに。
どうして、気持ちは消えてくれないのだろうか。
「気が済んだか?」
「!?」
いきなり背後から声が聞こえて、吃驚して振り返った。
「――り、きち、くん?」
扉に背を預けていた彼は、ゆっくりと体を起こし、こちらに近づいてきた。
「また、いらん事を考えて泣いたんだろう。そうやって、誰もいない時にこっそり泣く癖だけは、直ってないんだな」
「…………利吉くん?」
瞬きを繰り返しながら、視界に映る相手の名を呼んだ。
目の前にいる彼は、朝の雰囲気と全く違うものだったので、夢の中なのかもしれないと思ってしまったのだ。
「どうした?」
すると不思議そうに首を傾げながらも、言葉を返してくれた。
私の問いかけに、きちんと応えてくれたのだ。
「ふぇ、り、り、りき、ち、ち、く、」
「へ? 何でまた泣くんだ!?」
止まっていたはずの涙がぼろぼろと零れ始めた。あれだけ泣いたのにまだ涙が出るなんて、涙の泉は深いようだ。
「だ、だって……はな、はなしかけてくれたぁ〜!」
愛想つかされて嫌われて、もう二度と会ってくれないと思っていたからこそ、あまりにも普通の対応をされて、気が緩んだのだ。
「おいおい、それくらいで泣くな」
利吉くんは慌てて、宥める為に頭を撫でてくれたけど、逆効果だ。
余計に涙が出るではないか!
「きら、きらわれた、って、お、おも、った!」
「あぁもう、だから泣くなって! 嫌ってなんかいないから!」
「ひっく……ほん、とう?」
「ああ……今朝は、苛々してたんだ。私も大人げなかった、悪かったよ」
バツが悪そうな表情を浮かべている利吉くんは、それでも、いつもの利吉くんだった。
謝ってくれたと言う事は、もう怒ってないんだ。嫌われてないんだ。いつもと同じように、接してくれるんだ。
「――た」
「?」
「よかったぁ」
嗚呼、嬉しい。良かった。本当に、良かった。嬉しい。
利吉くんと、これからも変わらず仲良くしていけるんだ。
すごく、安堵した。
「りきち、くん?」
これは、どういうことなのだろうか。
どうして、私は、彼に抱きしめられているのだろう。
し、親類の抱擁だ! そうだ、私があまりにも泣くから落ち着かせる為にそうしているんだ!
友達が年の離れた弟にそうやって慰めているのを見たことがある。って、私はそんな小さな子じゃないぞ!
(でも、不思議と落ち着く)
耳を伝って聞こえる心臓の音が、心地よい。
温もりが、とても気持ち良い。先ほどまで落ち込んでいた心が、次第に落ち着いていくのが分かる。
(……りきち……くん)
自然と瞼が落ちていった。