情火の予兆
スヤスヤと腕の中で寝息を立てているの髪を、利吉は優しく撫でた。
泣き疲れて眠ってしまうところも、昔から変わっていない。
自分の記憶に残るの姿が消えていないことを、少し嬉しく思った。
けれども、それが己と彼女との縮まらない距離を示しているようで、苦笑いが浮かんだ。
「……全く、私も情けないな」
忘れると決めた途端に決心が揺らがされてしまった。否、粉々に砕かれてしまったのだ。
本当は、この気まずさを利用して、疎遠になってしまおうと思っていた。それが、自分にとっては、一番いい事だ。親の策略からも逃れられる。
そう思っていたのに――こうして、こっそり泣かれるとは思わなかった。
まるで、自分が悪者になったかのような気分にさせられたのだ。見なければよかった。そう思っても、目を閉じてもそれが網膜に焼き付いているのか、離れてくれなかった。
(参った)
自分は、思ったより非道になれないようだった。
何より、昔からの涙には弱かったのだ。しかも、影で誰にもばれないように泣く癖があるからこそ、昔から利吉は、そんな彼女を見つけるのが得意になってしまったのだ。なぜなら、その慰め役の大抵が利吉であったからだ。
それも、彼女が小学生までの話しだが、それでも、利吉にとっては遠くない記憶だ。
それに、泣いている理由が自分のことだからこそ、尚更に心が痛んだ。
こんな姿を見たまま別れるなんて後味が悪い。一生、その泣き顔が頭にこびりついてしまう事だろう。
(本当に、私は馬鹿だな)
入り口でその姿を見たときに去れば良かったのだ。しかし、足が動かなかったのが何よりも証拠だった。
耐え切れなくて声をかけてしまったのは、これ以上一人にさせたくないと思ってしまったからだ。
それに、先ほどの笑顔は反則だった。
心底嬉しそうに笑う彼女を間近で見てしまえば、理性なんて、どこかに消えてしまっていた。
抱きしめたのは、これが初めてではないけれども、改めて彼女が女性であることを自覚させられた。
愛おしい気持ちが溢れて止まりそうにもなかった。
ここで、眠ってくれたのは、幸いだったのかもしれない。
「認めるしかないのかもな」
こうなったら認めてしまったほうが、楽かもしれない。
それに、あの写真は今も利吉の手帳に挟まっているのだ。
初めから、完敗だったのだ。
「……好きだよ」
利吉は、眠る彼女にそっと囁いた。
己の感情を、受け入れる覚悟と共に。