「……はぁ」

重いため息を漏らしたのは、これで何度目だろう。
あれから、タカ丸と連絡が途絶えた。いつもなら、しつこいと怒る位あるメールもない。あの出来事が原因なのは、一目瞭然だった。

(嫌われたかな)

タカ丸のことが怖くて泣いた。けれども、タカ丸自身が怖いというわけではない。あの雰囲気が怖かったのだ。普段が真綿のような温かさなら、あれは暗い海の底にいるような冷たさを感じた。
私の態度は、さぞや最低なものだっただろう。泣いて拒絶したのだ。
あの後、家に着くまで無言だったのがいい証拠である。

自業自得の結果なのに嫌われたと思うと胸が痛くなるのだから、私は随分と都合の良すぎる人間だ。

「レポート出して帰ろう」

それ目的でわざわざ大学まで足を運んだのだから、目的を達成させなければ来た意味がない。
沈んだ気持ちは、この間買ったばかりの本でも読んで紛らわせよう。



受付にレポートを提出し受取書を貰った。これで、前期の課程は全て終了だ。今から長い夏休みが始まる。

「良く考えれば、先輩たちと全く会えなかったな」

漸く無視せずに済むと思っていたけど、こっちが夏休みに入ってしまえば必然的に会わない。このまま後期が始まるまでお別れだろうか。それも寂しいような気もする。

「先輩たちってどこのアパートに住んでるって言ってたっけなぁ?」

以前聞いたけれど一回も行ったことがない。
今度こっそり行ってみようか。驚く先輩たちの顔を見るのも楽しいかもしれない。

そう思うと、少しだけ気持ちが浮上できた。
んーと伸びをしていると、鞄に入れていた携帯が音を立てた。

それに吃驚しながら、恐る恐る携帯を取り出す。
ディスプレイに表示された名前が、考えていた人とは違っていたことに少し安堵しながらも、かかってきた人物の名前が久しぶりに目にした相手だったので、何の用だろうと緊張しつつ受話ボタンを押した。

『もしもし、?』
「鉢屋先輩? お久しぶりです」
『いま、どこ?』
「学校ですよ」
『そっか、丁度いいや。図書館にいるから、こっちに来て』
「へ? あ、はい、分かりました」
『じゃあ、待ってる』

そう告げて切れた。
鉢屋先輩が図書館にいるのは珍しい。何か調べ物だろうか。
けれども、まさかすぐに会えるとは思わなかった。噂をすればなんとやらとはこの事を言うのだろう。
避けていた後に会うのは、すごく勇気がいることだ。けれども、誤解は晴れたので堂々と会っても問題はないだろう。

図書館の扉をくぐると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
丁度良い温度にクーラーが効いていて掻いた汗が冷えていく。

折角だから何か読んで帰ろうかなと思いながら、鉢屋先輩の姿を探した。
先輩はすぐに見つかった。待っていたのか入り口のすぐ傍に立っていたのだ。
久しぶりに見たその姿に私の頬は自然と緩んだ。

「鉢屋先輩」

近寄って声をかけた。すると、先輩は既に私の姿を捉えていたようで、軽く視線を向けて奥に行こうと指をさした。なので、私は頷いて先輩の後についていった。

学内の図書館は、結構広い。横にも広いが縦にも広い。なんせ五階まであるのだ。だから、エレベーターまで付いている。学部が多いので、それらの専門書を用意する為に必要な大きさだったのかもしれない。それ以外に雑誌や小説など多種類のものがあるので、在学中に全て把握するのは無理だろう。
しかも、第二図書館まであるらしいのだ。そちらは院生向けの専門書ばかりらしい。これだけ考えても、うちの大学が如何に広いか実感してしまう。

そんなことを考えながら進んでいくと、いつの間にか最奥の棚まで行ってしまったようだ。あまり目にしたことのない専門用語が背表紙を飾っている。先輩は、こういうのを習っているのだろうか。さっぱり分からない。




「鉢屋先輩?」

こちらに背を向けたまま一言も話さない先輩を不思議に思って声をかけた。
すると、先輩はゆっくりと振り返った。

「……彼氏がいるって本当か?」
「え?」

彼氏なんているはずがない。笑って応えようとしたところで、私は動きを止めた。
先輩は何故、今頃になってそんな話題を持ち出してきたのだろうか。聞かれたことがないわけではないが、入学してからは一度も聞いて来たことなどなかったのだ。
それに、前置きもなくいきなり話題に出すのは、変だ。

つまり、つい最近、誰かにそれに関係した話を聞いたのだ。誰と聞かずとも一人しかいない。鉢屋先輩の彼女だ。

頭に手を置きたくなった。あの人は、何という事をしてくれたのだ。
その話を鉢屋先輩にすれば、私と接触があったことを暴露する結果になるのは、明らかだ。私に牽制を掛けたことがバレれば自分の首を絞める結果になるかもしれないことくらい分からないのだろうか。

先輩と彼女の間に波風を立たせない為に、私は先輩たちにばれないように避けていたのに、努力が全て無駄に終わった。私の努力を今すぐに返して欲しい。こんな事なら避けずにさっさと先輩に相談すればよかった。

今から正直に話してしまおうか。先輩たちの結末がどうなるかなど私が知ったことではない。

「わっ」

決意を胸に顔を上げれば、すぐ近くに先輩の顔があって、吃驚して後退した。けど、背が棚にぶつかって後退を遮られた。小さな衝動だったので本が倒れてくることはなかったけど、先輩は私の顔の直ぐ横に両手を付いて、私の退路を断った。

「金髪の馬鹿っぽい笑いの男。それって、タカ丸さん?」
「ば、馬鹿っぽいって」

いや、確かにその通りだけど、なんというか身も蓋もない発言だ。
苦い笑みを浮かべて告げる。けれども、先輩の目は全く笑っていなかった。

「先輩?」
「付き合ってんの?」
「ど、どうしたんですか? なんか変ですよ?」
「私は、いつも通りだよ?」

そう告げるけど、滲み出てくる雰囲気が、いつもと違う。そうだ。この間のタカ丸と似ている。
そう思うと途端に怖くなった。あの時と同じ恐怖が這い上がってくる。見ていたくなくて出来るだけ視線を下げた。

「なぁ、まだ答えてないぞ? 私は質問しているんだ。タカ丸さんと付き合ってるのか?」
「つっ、つき、あって、ま、せん」

この恐怖を拭いたくて必死で否定の言葉を述べた。

「本当に? 嘘じゃないの?」
「ほんとう、です。だから、」

早く離れてください。
そう告げたくて顔を上げたら、本当に近くに先輩の顔があって目を見開かせた。

「はちや、せんぱ、い?」

なんとか喉の奥から搾り出した声に、目の前の瞳が細められた。するりと頬に手が添えられた。冷房に当てられたのか、その指先はとても冷たくてピクリと瞼が震えた。それを宥めるように優しく親指の腹で頬を撫でられる。

外から響いてくる蝉の鳴き声が消えた。周りの景色は色を失い、ただ目の前の先輩の姿だけが鮮明に色付いている。まるで、ここだけ世界から置き去りにされたみたいだ。

私は瞬きも出来ずに、ゆっくりと近づいてくる顔を見つめた。







「――三郎」


まるでそれが合図であったかのように一斉に外界の音が戻ってきた。ミンミンと蝉が鳴く声。外で騒ぐ誰かの声。モノクロの世界に色がついていく。一気に現実に引き戻された。

いまのは、なんだったの? 先輩が、顔を近づけて、何をしようとした――?
けど、上手く思考が纏まらない。いや、考えたくないのかもしれない。

「何してるの」

真横から聞こえてくる硬い声に、私の意識は更にはっきりとしたものになっていく。
そこには、鉢屋先輩の肩を掴んだ不破先輩がいた。口は一文字に閉じられて、その瞳は鉢屋先輩を睨んでいた。

「ちょっと、からかっただけだって」

鉢屋先輩は、私から離れると降参のポーズを取りながら、いつもと同じ明るい声でそう告げた。

「…………」
「ほら、最近会ってなくて苛め足りなかったからさ!」
「はぁ……そういう苛めはしちゃ駄目だよ」
「分かってるって」

いつもの先輩たちが、そこにいた。さっきの雰囲気は、全部夢だったのかとすら思えるほどだ。

さん。三郎の奴が、ごめんね」
「え、は、はい」

呆然と見つめていると、困った笑みを浮かべた不破先輩が謝罪してきたので、私は慌てて返事をした。すると先輩は、もう一度謝って、ポンと私の頭に手を置いた。

「それと、久しぶりだね」

その笑顔に、凄く安堵した。何に安堵したのか考えようとしたけど、深く考えてはいけないとどこかで警鐘が鳴っていたので、奥深くに閉じ込めた。

「はい、お久しぶりです」

私は、今度こそ、笑みを浮かべて答えた。





名前のない夜闇の先




090105
別名、三郎プチ暴走の段。細かい描写を書くのは、難しいですね。