いつもより速いペースでラテを飲みきり、あの店を出た。
前払いだったのは良かった。会計が後だったら、レジの店員と気まずい雰囲気になっていたに違いない。それに、彼女のコーヒー代まで支払う羽目にならなくてすんだのも幸いだ。もしかしたら、それを見越してあの店に入ったのだろうか。だとすれば凄く計算高い人だ。
(とりあえず、公園で冷やしてから帰ろうかな)
腫れた頬のまま電車に乗るのも躊躇われた。たしか、この近くにあったはずだ。そう思いながら足を向けた。
それが、悪かった。
「ちゃーん!」
「うわっ!」
いきなり後ろから、重みが圧し掛かった。重さに耐え切れず前のめりになる。
こんなことをするのは一人しかいない。
「……小平太先輩」
よりにもよって、なんでここでこの先輩に出会ってしまうのだろうか。
「公園でサッカーしてたんだ! そうしたらちゃんが見えたから嬉しくて走ってきちゃった!」
疑問を尋ねる前に律儀に答えてくれた。
解説はありがたいが、いい加減に離れてもらいたい。暑いし汗臭いし、なにより重い。
その心境を悟ってくれたのか告げる前に珍しく先輩が先に離れてくれた。
ふぅと息を吐いて顔を合わせたけれども、先輩の顔はさっきとは打って変わって真剣なものだった。なので首を傾げる。
「それ、どうしたの」
「え? ……あ」
しまった。ここに来たのは、ハンカチを濡らすためだったんだ。
真正面なので腫れた頬を隠せなかった。
「ええと、と、友達と喧嘩してしまって……」
苦い笑みを浮かべてそう告げると、先輩の表情が悲しげなものに変わった。もしかして、嘘がばれたのではないかと内心バクバクだ。そもそも、なんで私はこんな嘘を付いているのだろうか。良く考えれば、彼女を庇っても何の得にもならない。けれども、咄嗟についた言い訳を直ぐに覆せるはずもなく、私は曖昧な笑みを浮かべた。
「痛いよね」
「え、あ、はい」
先輩が痛いわけでもないのに泣きそうな声と顔で言われてしまったので、戸惑うことしか出来なかった。いつも笑顔を浮かべている先輩に、急にこんな風な態度を取られると困惑してしまう。
「小平太先輩! 勝手にどっか行っちゃわないでくださいよ!」
そう叫びながらこちらに駆けてくる人物の声に聞き覚えがあって、視線をそちらへ向けた。
思わず内心で苦虫を噛み潰した。
どうして、ややこしい時にこうややこしい人が増えてしまうのだろうか。
「?」
「滝夜叉丸、おひさー」
ちょっと引き攣った笑みになってしまったかもしれないが、何とか笑みを浮かべて挨拶を告げた。すると、滝夜叉丸は眉間に皺を寄せた。
「その頬、どうした」
「え、ええと、友達と喧嘩して、ね」
彼にも気付かれてしまったようだ。だから、先ほど先輩に言った言い訳を繰り返して告げた。すると、はぁとため息を吐いた後、彼は先輩に視線を向けた。
「小平太先輩、確か持ってきた救急箱に冷やすものありましたよね? 持ってきてくれませんか?」
「ああ! そうだな、早く冷やさないと! 分かった、超特急で持ってくるぞ!」
滝夜叉丸の言葉に、小平太先輩は我に返って去っていった。
救急箱を常備してする遊びってどれだけ危険なんだと突っ込むべきか。それとも、ちゃっかり小平太先輩を駒に使った滝夜叉丸の度胸に感服すべきだろうか。
「……嘘だな」
「え?」
滝夜叉丸の言葉に視線をそちらに向けた。真剣な瞳とかち合う。なんだか嫌な予感がしたが、外せなかった。
「その頬のことだ。お前の友達が、喧嘩したからといって腫れるほど強く叩くものか」
「…………」
さすが自称とはいえ頭脳明晰と言っているだけある。観察力がある。
確かに私の友達の中でこんな酷い事をする人はいないだろう。
「誰にやられたんだ」
「……誰にも言わない?」
私がそう告げるとまたもや眉間に皺が寄った。
なぜ相手のことを庇うような発言をするのか疑問に思ったのだろう。別に私は彼女を庇うつもりはない。私が庇っているのは自分自身だ。竹谷先輩に知られたくない。先輩のことだから自分のせいでこうなったと知れば、己を責めるだろう。そういうのは、してもらいたくない。これは、私の発言が招いたことなのだ。ここで全て終わりにしておきたい。
「分かった。誰にも言わなければいいんだろう?」
「ありがとう」
こういう時、彼は本当に相手の事を考えてくれる。だから、滝夜叉丸は好きだ。
「竹谷先輩の元カノにやられた」
「……竹谷先輩って、一つ上のあの先輩? あの人、彼女がいたのか」
コクリと頷くと、滝夜叉丸も初耳だったみたいで驚いた声をあげた。
「先輩も女を見る目がなかったわけか、それとも……」
「なに?」
ジッとこっちを見てきたので首をかしげて疑問を尋ねると、滝夜叉丸は、こっちの話しだと呟いて首を横に振った。
意味が分からない。最近のみんなは、意味不明な行動と思考ばかりしている。傍にいればいるほど彼らのことが分からなくなっていくなんて、可笑しな話だ。
「先輩大丈夫ですかー!?」
パタパタとこちらに近づいてくる複数の足音に気付いて、視線をそちらに向けた。
懐かしい顔が勢揃いしていた。
「金吾君に四郎兵衛君と、三之助君!」
小平太先輩に背負われつつ両手に救急箱を抱えた金吾君と、その横に三之助君の手を引いてやってくる四郎兵衛君が視界に映った。
元体育委員のメンバーだ。卒業しても集まるなんて仲がいい。それとも、小平太先輩の命令に必然的に集まる習慣でもついてしまったのだろうか。
しかし、無事かと言いたいのはこちらの方だ。彼らの方がぼろぼろだ。
そう言えば、滝夜叉丸も泥まみれだった。きっと、サッカーとやらは殺人的な競技だったに違いない。
苦い笑みを浮かべながら彼等がここに来るのを待った。
「先輩、頬凄く腫れてますよー」
「はやく冷やさなきゃいけません!」
平然とした面持ちで告げる三之助君とは反対に、金吾君は慌てた様子で救急箱の中を漁った。
「先輩、痛くないですか?」
四郎兵衛君が泣きそうな表情を浮かべて尋ねて来たので、安心させるように笑みを浮かべた。
「はい、ちょっと冷たいかもしれませんけど効き目は十分なので!」
救急箱から湿布のようなものを出した金吾君の台詞には物凄い説得力があった。たぶん経験者に違いない。
座ってくださいと力強く言われたので、自分で貼ると言い難くて素直にベンチに座った。
接着部のビニールをめくり、頬にゆっくりと貼られた。急激な冷たさに思わず肩がすくんだが、火照った頬を冷やすにはちょうどいい冷たさだ。ジンとした痛みが少しマシになったような気がする。
「ありがとう」
お礼を告げると、金吾君は首を横に振った後、早く治るといいですねと告げて、救急箱の蓋を閉じた。保健委員ほどではないにしても、その仕草は手馴れている。
「ちゃん」
「あ、小平太先輩、ありがとうございました」
わざわざ救急箱を持って(というか、人物ごと担いで)きてくれたのだ。
本当に助かった。
すると、先輩は思いきり首を横に振った。目を回さないんだろうかというほどに高速だった。
「ちゃん、泣いていいんだよ?」
「え?」
「だって、すっごい痛そうなのに泣かないから」
胸が詰まった。私の心を読まれたのかと思った。
けど、泣かない。泣きたくない。今泣けば、私の今までが簡単に崩れてしまう気がして。もう戻せない気がして。たぶん、これは意地なのだろう。
私は首を横に振った。
「今は、とっても嬉しいんです」
「え?」
「私を心配してくれる人が、こんなにいる。それが凄く嬉しいんです」
交流したのは短い期間だったのに、これだけみんなが心配してくれている。
それが、どれだけ嬉しいか。どれだけの励みになるか。みんなは、分かっていないかもしれないけど私にとっては、今日の悔しさを忘れられるほどの嬉しさだった。
「っ! ちゃ〜ん!!」
「ひゃっ!? こ、小平太先輩!?」
すると、いきなり抱きつかれた。突然のことにあたふたしながら視線を滝夜叉丸に向けた。ヘルプの合図だ。
「小平太先輩、公衆の面前ですよ」
「大丈夫だ!」
「何が大丈夫なんですか……」
全くと呆れた表情で告げた後、私に視線を向け、諦めろと告げた。放置なのかと滝夜叉丸を凝視すると、彼は笑みを浮かべた後、私の頭を軽く撫でた。意味が分からない。
「小平太先輩、ずるいです! 僕も!」
「え、ちょ、金吾君まで!?」
今度は、金吾君に腰に抱きつかれた。
「じゃあ、僕も」
「俺も、便乗しよーっと」
「え、無理無理無理!!」
これは、なんちゅう羞恥プレイだ。拷問だ!
私が彼らに解放されたのは、それから10分後のことだった。
ふわり、ふわりと
090412
体育委員で癒されてみた。