室内は、厳かな空気に包まれている。経を読む声と独特の臭いが部屋に充満し、その煙と香りは自然と悲しみを誘う。黒いワンピースに身を包んだ私は、忘れた涙がまた溢れ出てきそうになって、必死でスカートの裾を掴んで堪えた。
「ありがとうございました」
お坊さんを玄関まで見送った母を見つめた後、私は、空を見上げた。子どもが灰色のクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたみたいな曖昧な色が広がっていた。まるで、私の今の心境を表しているみたいだ。空から落ちてくる雫が、涙を堪えている私の代わりに泣いてくれているようにすら思えた。
一年前のあの日も雨が降っていた。祖父が亡くなってもう一年も経ったのか。月日の早さに切なさを感じてしまう。
「」
母親に名を呼ばれ、私は、意識を現実に戻した。
「何?」
「兄さんたちと食事に行くけど、はどうする?」
「お腹空いてないから、いいよ」
本当は、胸が悲しみでいっぱいなせいで食欲が湧かなかった。もしかしたら、母親も何となくそれに気付いていたのだろうか。じゃあ、お留守番宜しくねと言われたので素直に頷いた。
私は、服を着替えることもせず廊下を歩いた。行き先は一人きりになれる部屋ならどこでもよかった。
宛てもなく歩いてついたところは、高校生の時に一人で泊まったあの部屋だった。とても懐かしい気持ちが沸き起こる。ノブを回すと鍵は掛かっていなかった。それは、鍵を掛ける必要がなくなってしまったからなのだと分かると無性に悲しくなった。
ガチャリと音を立てて、扉を開けた。
「――っ!」
開けたことを後悔した。そこには、先客がいた。上は脱いだのか白い半袖のカッターシャツに身を包んだ背中が見える。
扉を開ける音に気付いたのかその人物が振り返った。そして、私と同じように驚いた顔を浮かべた。けど、それは直ぐに笑みに変わる。
「久しぶりだな。」
「―― りきち、くん」
私が名前を呼ぶと、少し嬉しそうに微笑んだ。
それが、とても痛かった。法要の時に隅に座っているのを見かけたので、来ていることは分かっていた。けれども、どうして一人きりになりたいと思った今この時に会ってしまったのだろうか。
会いたくなかった。
会ったら、私は泣いてしまう。あの時と同じように。
けれども、ギュッと拳を握ってそれを耐えた。今は、そんなこと出来ない。彼に甘えてはいけない。それはよく解ってる。
動けないでいると、彼がこちらに歩み寄ってきた。そのまま私の元まで近寄ってきたので、思わず体が強張った。けど、彼は私の横を通って後ろの扉を閉めただけだった。それに安堵して息を吐こうとした。けれども、カチリと鍵の閉まる音を耳が捉えて顔を後ろに向けた。
扉を背に利吉くんが立っていた。ジッとこちらを見つめている。
その瞳の奥に映る何かに侵されたような色は、どこかで見たことがあるような気がした。
こ わ い
そんな感情が私の体を駆け巡った。退路を絶たれた。逃げられない。自然と足が後退していた。けど、直ぐに机に当たって動きを止められた。
何が怖い? 怖いことなんてない。でも、怖い。怖い怖い怖い。
怖くないよ。だって、利吉くんだよ。昔からずっと一緒にいた人だよ。私の大切な人だよ。
でも、怖い。どうして? どうしてって――
彼の腕がこちらに伸びてきて私の髪に触れた。ビクリと大きく体が震えた。
すると、その手がゆっくりと引っ込められた。
「……ごめん」
静かに利吉くんが謝った。その言葉に私は顔を上げた。
悲しい顔をした彼がいた。それが、あの時と重なった。
どうして、泣きそうなの。どうして、そういう顔をするの。
「好き、なんだ」
切ない声が鼓膜を刺激する。思い出す。耳元で囁いてくれた優しい声を。
けれども、首を横に振った。
「嘘じゃない。私は、今でものことが、好きなんだ」
『やめて!』
脳内に声が木霊する。それは、今の声か過去の声か。どっちもでいい。
思い出すな――何も思い出すな!
雫が畳に落ちた。涙が幾度も零れ落ちる。
お願いだから、こんな私に愛なんて囁かないで。優しくないで。
「」
「っ!?」
抱きしめられた。何もかもが同じだ。あの時から何も変わってない。
あの時の私はただ悲しみに満ちていた。なによりも悲しくて辛くて。だから、誰かに縋りたかった。誰でもいいから頼りたかった。それじゃあ、駄目だと分かっているのに、この気持ちを留める事がどうしても出来なかった。
何故、悲しみがこの世に存在しているのだろうか。胸の奥にぽっかり穴が開いたみたいで、タスケテって心が叫んでた。サミシイって心が求めてた。その隙間を早く埋めてしまいたかった。
けれども―― 私は、選択を誤った。
「が気にすることは何もない」
ねぇ、こんなの間違ってるよ。そんなの辛いだけだよ。
愛していない以上に酷いことなんだよ。
どうして、割り切れるの。どうして、割り切っちゃうの。
どうして―― 愛とか恋なんてものが、この世に存在するんだろう。
それなのに、この手を振り払えない自分がいる。
なんて最低な女だ。
「っ……ご、めん……っ」
私はそう呟いて、利吉くんの服を強く握り締めた。
ねぇ、何も与えないで
お互い、悲しくなるだけだよ。
090425
リッキーと色々あったんだよってお話。