「!?」
考えながら歩いていると、いきなり誰かに腕を掴まれた。驚きで体が大きく揺れた。
「」
小さく囁かれたその声に、私は顔を上げた。
「長次、先輩?」
彼が、そこにいた。何故こんなところにいるのだろうと首を傾げると、彼がゆっくりと天を指差した。視線の先を追うと雨傘に雨粒が当たるのが見えた。そこで初めて雨が降っていることに気付いた。道理でさっきから冷たいと思った。
けど、今はその雨は私の顔に降って来ない。長次先輩が傘を差してくれたからだ。
「すみません」
私が謝ると先輩の眉が下がった。間違った解答をしてしまったのだろうか。そう思っていると、先輩はさっきから掴んだままだった腕を引っ張り足を進め始めた。必然的に私もそれについて行かざるを得ない。
「せんぱい?」
声を掛けたけれども返答はない。もしかしたら、何か言っているのかもしれないけど、元々無口な人なので話していても聞き取り辛い。それに今は雨の音にかき消されて尚更に聞こえなかった。
暫く歩くと一つの館に辿り着いた。そこで漸く手が離された。先輩は、傘を閉じると扉を開けた。軽く肩を押されたので、そのまま中に入る。
先輩は、直ぐ傍の傘立てに自分の傘を立てかけた。その光景をジッと見つめながらも、私は、どうすればいいのか分からず、ぼうっと突っ立っていた。
「大雨降ってたみたいだけど、大丈夫だったー? ――って、ちゃん!?」
すると、近くの扉が開いて、そこから見覚えのある顔が出てきた。視線が合うと目が見開かれた。伊作先輩だった。
「ちゃんが来てるの!?」
その背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。前に公園で出会ったきり会っていなかった小平太先輩だ。
「うわ。ちょ、痛っ!」
小平太先輩に押しやられた伊作先輩は扉で頭をぶつけていた。相変わらずの不運だ。
「ちゃー……って、長次、何で遮るんだ!?」
いつものように私に抱きつこうとしてきた小平太先輩の前に長次先輩が立ちはだかったのだ。
「……濡れる」
「え?」
「あ、ちゃん、びしょ濡れじゃないか!」
おでこを抑えながらやってきた伊作先輩が私の姿を見て驚きの声を発した。そして、有無を言わせぬまま引っ張られたので、私は慌てて靴を脱いだ。
「脱衣所、脱衣所」
そう呟きながら引っ張っていく。行き先はそこなのだろう。突き当たりの扉を開けた。
直ぐ傍にあった木製の棚からタオルを出し思い切り私の頭に被せた。
反論する間もなくわしゃわしゃと頭を拭かれた。
「もう! 今日は、雨が降るって言ってたんだから、ちゃんと傘持ち歩いてないと駄目だよ!」
「……す、すみません」
そのまま家を飛び出したわけだから天気予報なんて見ているはずもない。
けど、あまりにも真剣に言われたので思わず謝ってしまった。
「あ、ごめん。怒ってるわけじゃないんだよ。風邪引いたら大変だから言ってるんだ」
こういうところは、元保健委員長だなって思うと懐かしさが滲み出てくる。
同時に切ないものがこみ上げてくる。昔に戻れたらいいのに。
なんと下らないことを考えてしまったのだろう。
「あと、シャワー使って。ピンクのボトルのが僕のだから勝手に使っていいよ。あ、そうだ。ええと、着替えは僕のでもいいかな?」
先輩は、棚からバスタオルと一枚のシャツを取り出した。少し厚めなので透ける事もないだろう。
「じゃあ、僕は出てるね。外にいるから終わったら呼んでね」
「はい」
伊作先輩はそう告げて出て行ったので、私は、濡れた上着とズボンを脱いだ。随分水分を含んでいるようで、水の音が響く。傍にあった洗面所で絞って、とりあえず床に置いた。下着は少し湿っているけど、こればかりは流石に先輩に渡すわけにも行かない。なので、少しでも乾くように広げて籠の中に置いた。
そして、私は少し冷えた体を温める為にシャワーを浴びることにした。
◇
出来るだけ早く終わらせて風呂場から出た私は、下着を身に付けると先ほど借りたシャツを腕に通す。
予想通り大きかったが、元から裾が長いのか膝まで隠れるのがありがたい。
「伊作先輩」
扉を開けて声を掛けた。先輩は言葉通り直ぐ近くで待っていてくれたようだ。
直ぐにこちらに顔を出した。けど、直ぐにその表情が固まった。
「濡れた服は、どうしたらいいですか?」
「え、あ、うん。か、貸して。乾かしておくから」
先輩の瞳が凄く泳いでいるのが分かった。
私も好きで足を出しているわけではないのだが、この格好は不味かっただろうか。
「お見苦しくて、すみません」
「え!? ううん、そういう意味じゃないんだ!」
「?」
「あ、えと、き、気にしないで! あ、えと、髪乾かすよね?」
では、どういう意味なのだろうかと首を傾げると、先輩は微苦笑を浮かべて首を横に振った。そして、手に持っていたドライヤーを軽く持ち上げて首を傾げた。
「自分で出来ますよ」
「いいよいいよ、折角だからやらせて」
伊作先輩は、嬉しそうに笑みを浮かべて告げる。何がそれほど楽しいのか分からないが、その様子がまるでタカ丸みたいに思えて少しだけ胸が痛いんだ。
「ちゃん?」
「あ、いえ。よろしくお願いします」
そう告げて髪を乾かしてもらうことにした。
◇
「はい、終わったよ」
耳元で響いていた風の音が瞬時に消えた。
少しだけぼんやりとしていた私はその声に意識を戻した。
「ありがとうございます」
「ううん。僕はこれ片付けてくるから先に居間に行っててくれる?」
「あ、はい」
言われたとおりに私は脱衣所を出て指の指された方向に歩いた。
一軒家みたいに見えたけど伊作先輩だけでなく小平太先輩や長次先輩がいるという事は、ここは先輩たちの下宿所なのだろう。
ここであっているかなと思いながら、恐る恐る扉を開いて中に入った。コーヒー特有の香りが鼻腔を擽った。
椅子に座っていた小平太先輩とちょうどコーヒーを入れていた長次先輩がこちらに気付いた。けれども、二人とも吃驚した顔をしている。長次先輩は分かりにくいけど手が止まってるので、たぶん驚いているのだと思う。
「ちゃん!」
「ひゃっ!」
立ち上がった小平太先輩が勢いよく抱きついてきた。お、重い。この先輩は、どうして、一々会うたびに抱きついてくるのだろうか。
「その格好、誘ってんのっ!?」
「……は?」
「だったら、人前でしちゃ駄目だ。私の前だけにしてくれ!」
「ち、違います! 雨で服が濡れてて、仕方なく伊作先輩の服を借りただけです!!」
言われた言葉の意味に気付いて、頬が赤く染まる。だから、さっき伊作先輩も顔が赤かったんだ! それなら、その時に素直に言ってくれればいいのに!
「伊作だけズルイ! 私も着せたい!」
「なんでそうなるんですか、もう離れてくださいっ!」
ギギギと腕を突っぱねるけど、ビクリともしない。
「小平太、やりすぎると嫌われる」
「え!? それは困る!」
長次先輩の言葉に、やっと小平太先輩の腕が離れた。
ホッと安堵の息を吐いていると、長次先輩がカップを目の前に差し出してきた。
アイスコーヒーのようだ。豆をちゃんと挽いて抽出したのか良い香りがする。
「飲め」
「あ、ありがとうございます」
慌てて受け取ってお礼を告げると先輩の表情が和らいだような気がした。
壁泉から溢れ出した煌き
090519
6年生のターン。