バタンと扉の閉まる音が響いた。
玄関から近いので、ここからよく聞こえるみたいだ。誰かが帰ってきたようだと思いながら、カップから口を離して入り口に視線を向けた。
「誰だ女連れて来てんのは! 禁止だっつった――!?」
怒鳴り声を発しながら扉を開けたその人物は、私と目が合うと口を開けたままの状態で止まった。
「潮江先輩、お邪魔してます」
「あ、ああ……」
軽く頭を下げてそう告げると、先輩はばつが悪そうな表情を浮かべて視線を逸らした。
しかし、ここの下宿所は、女人禁制のルールでもあるのだろうか。だとしたら、長居するのはやめておいたほうがいいのかもしれない。
「これ飲み終わったら、直ぐに帰りますね」
「「「え!?」」」
私が告げると、先輩たちが驚いた顔と声を発した。しかも、潮江先輩まで。
「なんで!? まだ居てよ!」
「それに、服だって乾いてないんだから!」
「そういえば、なんで伊作の服着てんだ! 脱げ!」
「文次郎、それセクハラ! 雨で濡れたから貸してあげてるだけだよ!」
一気に言われたので、よく聞き取れなかった。ニュアンスから考えると帰宅を反対されているということだけは掴み取れた。
「女性は入れちゃいけないって先ほど潮江先輩が言っていたので、私も居ちゃ駄目なのかと思ったんですけど、違うんですか?」
「お前はいいんだよ!」
「へ?」
私が理由を告げると、潮江先輩が慌てて訂正の言葉を述べた。だが、言われた意味が分からず、首を傾げる。すると、隣に伊作先輩の瞳が半眼した。潮江先輩を睨みつけている。
「文次郎、えこ贔屓だー」
「う、うっせぇ! ともかく気にするな!」
「は、はぁ」
とりあえず、長居しても問題はないようなので、私は素直に頷いた。
それに、服が乾かないと帰れないのだ。暫くは、我慢してもらうしかない。
すると、潮江先輩は、空いた席にドカリと座った。コーヒーと告げると、長次先輩が自分で入れろと突っ込んでいた。仕方なく氷を入れてポットを手にして自分で入れてる。砂糖もミルクも入れずに、そのまま飲み始めた。潮江先輩は、ブラック派のようだ。想像通りだった。むしろ、砂糖とミルクをいれて飲んでたら違和感があるような気もする。でも、それはそれで先輩の意外な一面が見れて得した気分になっていたかもしれない。
「で、は、なんでここに居るんだ?」
「フラフラしていたところを長次が拾ってきたらしいよ」
「はぁ? なんで、こんなところでフラフラしてんだ。ここ大学からは近いが、駅からは遠いぞ?」
そう言われても何とも言えない。なぜならば、どこに向かうわけでもなく歩いていたからだ。大学付近まで来てたとは、結構歩いたみたいだ。
でも、気まずい場面を見てしまったから逃げ出してきたなどと素直に言えるはずもない。
だから、苦い笑みを浮かべ返した。
「……さては、迷ってたな」
「え!? い、いえ、そんなことは――」
ないとは言い切れない。だって、どこを歩いたかなんて覚えてないのだから、帰り道だって覚えているはずがない。
「な、ないようなあるような?」
同じように苦い笑みを浮かべたら呆れた表情を浮かべられた。
「ったく、そんなんじゃ、そのうち危険な目に遭うぞ」
「すみません」
言われて見れば、世間は先輩たちみたいに優しい人ばかりではないのだ。女が一人で傘も差さずにフラフラしているなど好んで危険を呼び寄せているとしか言いようがなかった。
「あー! 文次郎がちゃん苛めたー!」
「ば、バカタレ、小平太何を言うか! 俺は苛めてねぇ! 忠告してやったんだ!」
なにやら急に言い争いが始まった。
「お前たち騒がしいぞ。部屋まで丸聞こえだ」
自分が原因なので止めなければと口を開こうとしたのだが、別の声が入り口から聞こえてきたので、視線をそちらへ向けた。
「あ、仙蔵先輩」
「? なぜ、お前がここに?」
「あ、えっと、雨で濡れてしまったんです」
「ああ、だから、そんな格好なのか……しかし、煩いな」
こちらまで近寄ってきてくれた仙蔵先輩は、穏やかな笑みを浮かべた後、隣を見て眉を顰めた。キャンキャンとさっきから言い争っている先輩たちは、仙蔵先輩の存在にまだ気付いていないようだ。
すると、仙蔵先輩は、傍にあった雑誌を手にして丸めた。
ボコン!
そして、振り上げたそれを相手の頭に一発入れた。
「いってぇ! 仙蔵、何しやがる!」
「これくらいで痛がるとは、お前も大した事ないな」
「本の角が当たれば誰でも痛いわ!」
「あぁ、それはわざとだ」
「てめぇなぁ!」
今度は、潮江先輩と仙蔵先輩のいい争いが始まりそうだ。
昔からそうだけど、先輩たちが集まると騒がしくなる。仲が良いのか悪いのか。本当に良く分からない。
「がお前たちが騒がしいのを迷惑がっていたから止めてやったんだ。感謝しろ」
「えっ!?」
先輩、それは責任転嫁じゃないですか。
喧嘩に困ってはいたけど、迷惑とまでは思っていない。
「ちゃん、ごめん! だから、嫌いにならないでぇぇ!」
すると、小平太先輩が頭を下げて謝ってきた。
あまりにも大げさな展開にこっちが慌ててしまう。
「え、あ、いえ、き、嫌いにはなりませんよっ!?」
「本当!?」
「は、はい!」
「良かったぁー!」
復活の早い先輩だ。私の肯定の言葉に両手を上げて本気で喜んでいた。
「!」
「は、はい!」
すると、今度は反対方向から大きな声で名前を呼ばれたので、肩を揺らしながらも、なんとか返事をして顔をそちらに向けた。
眉間に皺を寄せた潮江先輩がいた。何を言われるのだろうかと緊張した面持ちで、相手の言葉を待った。
「わ、悪かったな!」
「へ? あ、はい?」
謝られた。さっきの事に関しての謝罪なのだろう。ということは、これは、怒っているのではなくて、おそらく謝るのが恥ずかしくて顰め面になっているのだろう。本当に潮江先輩って分かり辛い人だ。
その不器用さに思わず笑みが漏れてしまう。
「……あ、ちゃん、やっと笑った」
「え?」
嬉しそうな顔で告げた伊作先輩の言葉に、きょとんとした表情を浮かべた。
「だって、ここに来てからずっと浮かない顔してたでしょ?」
「そう、ですか?」
私の弱った心は、そんなに顔に出ていたのだろうか。不安になって頬に手を添えてみた。
「やっぱり、何かあった?」
「な、何もないですよ」
笑みを浮かべて否定したけれども、先輩は、納得してくれなかったようで眉間に皺が寄せられた。
「さっきの話もいつもだったらしないような事ばっかりだったし」
内心でギクリとなったが、それが表に出ないように表情を固定させた。
けど、既にバレているのか伊作先輩に微苦笑を浮かべられた。
「何の話だ?」
先ほどの会話を知らない潮江先輩と仙蔵先輩は、不思議そうな表情を浮かべた。
何も今このときにあの話題を出さなくてもいいのに。流石にさっきの会話は恥ずかしいものがあったので、これ以上他の人の耳に入れて欲しくないのが本音だった。
「聞きたくないんだけど……もしかして、ちゃん、彼氏でも出来た?」
「「な、何!?」」
潮江先輩と仙蔵先輩が声を揃えて一斉にこちらを見た。
さすが元クラスメイト、息が合ってる。
「嘘だーー!! 私は認めないぞ!!」
「ひゃっ! ちょ、小平太先輩、く、くるしっ!」
泣きそうな顔をして、思いきり抱きつかれた。しかも、加減なしなので重いし痛いし息苦しい。
「小平太。が潰れる」
「え!? ちゃん、大丈夫!?」
長次先輩の一言で、腕が緩められた。
すぅと大きく息を吸う。危なかった。一瞬、花畑が見えたような気がする。
「な、なんとか……」
「それよりも、彼氏が出来たとは一体どういうことだ。そういうことは、きちんと連絡してこいと言ったはずだろう!」
「はぁ!? 仙蔵、お前そんなことまで、こいつに強要してたのか!?」
「何か悪いか?」
その一言に呆れた表情を浮かべた潮江先輩は、けれども、不思議そうな表情で応えた仙蔵先輩の告げた言葉に絶句したようで、もういいと返答をしていた。
「で、相手は誰だ。今すぐそいつに時限爆弾を送ってやる」
「それ、犯罪ですから!!」
けろっと、とんでもない事を言った仙蔵先輩に、私は突っ込まずには居られなかった。涼しい顔をして怖い人だ。
「仙蔵! 男なら拳で語るもんだろ!」
「小平太の言うとおりだ! 真剣勝負で勝ってこそ男だろうが!」
「……それだと証拠が残る」
「んー、足がついたらやばいしなぁ。じゃあ、心理作戦?」
「そうだな。ここは相手の精神をジワジワと削っていくような作戦をした方がいいだろう」
「彼氏なんていませんっ!!」
過激発言が飛び交っている中、大声でそう叫んで主張した。
こうでもしないと収集が付かないような気がしたからだ。
私の大声に、漸く周りの動きが止まった。五人の視線がこっちに突き刺さってくる。
「よ、良かったーー!」
「それは真か?」
「…………安心した」
「い、いねぇのか? 吃驚させるな!」
「……いないの?」
そして、最後に伊作先輩が、吃驚した顔でこちらを見つめた後で言葉を発した。
「どうして、私に彼氏が出来たなんて思うんですかぁ」
「だって、ちゃん、最近、急に綺麗になったから」
「…………」
「でも、いないのかぁ。それはそれで、安心した!」
満面の笑みでそう告げた伊作先輩に、私の顔が赤くなったのは言うまでもない。
君のかち
この人、天然過ぎる。
090621
教訓:六年を敵に回してはいけません。