(三郎視点)
「もしもし」
『三郎、今どこにいるの?』

兵助の部屋を出て、階段の踊り場まで進んでから電話に出た。
受話器を耳に当てると馴染みの女の声が鼓膜を刺激した。

「大学の友達の部屋。飲んでるとこ」
『友達って……』
「久々知と竹谷。水果(みか)も知ってるだろ?」
『えぇ、もちろん。けど、抜け出せないの?』
「なんで?」
『言わなくても分かるでしょう?』

その言葉に、三郎は盛大に眉根を寄せた。
時刻は既に十時を回っている。その時間に会うということは、朝まで付き合えということだ。彼女なのだから何の躊躇いもない。そのはずだが、今の三郎には、そんな気持ちは微塵も起きなかった。

「飲酒運転は法律で禁止されてるって知ってるか?」
『ふふっ、三郎が真面目な事を言うなんて珍しい』
「私だって、まだ捕まりたくないんだよ。悪いけど明日にしてくれ」
『……分かったわ。明日、絶対に会いに来てよ?』
「分かった」

そう告げて、私は早々に会話を終了させた。
ピッと切ボタンを押して切れたディスプレイを見つめる。

「本当は、まだ飲んでないんだけどな」

八左ヱ門の話を聞くことに集中していて、まだプルタブを起した缶に口をつけていなかったのだ。だから、飲酒運転にはならない。けれども、今は本当にそんな気分になれない。八左ヱ門の話を聞いた後だからこそ余計にそう思ってしまったのかもしれない。

閉じた携帯電話をポケットに仕舞った。

「三郎は、いつか絶対、女の人に刺されるよ」

その言葉が背後から聞こえて、私は振り返った。
自分と雰囲気の似た、けれども全く性格は似ていない男が階段の中腹に立っていた。

「雷蔵、盗み聞きはよくないぞ」

階下にいた雷蔵は、困った笑みを浮かべたまま私の前まで上ってきた。

「階段を上がってたら聞こえてきたんだから、不可抗力だよ」

その言い分は確かだが、先ほどの刺されるという発言は全く笑えない。
なので、私は仏頂面を崩さなかった。すると、雷蔵は先ほどの笑みを消して真剣な面持ちでこちらを見てきた。

「三郎が誰と付き合おうと構わない。けど、自分が後悔する様なことは止めておいたほうがいい」
「…………」

警告だろうか。いや、雷蔵のことだ。私の気持ちを悟った上での優しい忠告なのだろう。本当に、雷蔵は人が良すぎる。

「けど、私は、既に勝負から降りた人間だ」

雷蔵ほど強くはない。だから、早々に諦めた。手当たり次第に女と付き合った。私にはそれが一番似合っている。

「嘘吐き」

私の言葉を雷蔵はばっさりと切り捨てた。いつもならば、そこで微苦笑を浮かべてそれ以上の追求をしてこない雷蔵の意外な姿勢に、私は内心で驚いた。

「じゃあ、どうして、あの時、さんにキスしようとしてたの?」
「それは、冗談だって言っただろ?」
「三郎は、さんにだけは冗談でも手を出したりしないってことくらい、見ていれば分かるよ」

この時ほど仲の良さを悔いたことはなかった。
けれども、言える筈がない。彼氏がいると聞かされた時のあの絶望感。腹の底から込み上げて来るどす黒い感情。彼女を誰かに渡してなるものか。そう思ってしまった自分に愕然としたことなど。

自分は、既に敗者だ。諦めた者だ。今更そのような感情を抱いて何になる。
けれども、思考と感情は別物であるのか、彼女を見れば見るほど気持ちは膨れ上がっていく。止めることなどできなかった。
けれども、そんなものは今の自分には不要だ。

「私には既に別の彼女がいる。意味くらい分かっているだろう?」

笑みを浮かべて告げると、雷蔵の表情が曇った。
私が云わんとしている意味に気付いているのだろう。

「兵助たちが待ってる。行こう」

雷蔵の無言の様子に、これ以上の会話は無駄だと悟った私は、一声かけて階上へ向かう為に段へと足をかけた。


「……三郎は、莫迦だよ」

ポツリと呟くような声が背後から聞こえたが、私は聞こえない振りをした。




莫迦なお前

バカなのは、お前の方だよ、雷蔵



100920