「ちょっと散らかってるけど、どうぞ」
「お、お邪魔します」

初めて不破先輩の御宅にお邪魔した。その事実に少し緊張しながら出されたスリッパに足を通して中に入った。

「クッションしかないんだけど、これに座って」
「あ、お構いなく」

赤いクッションを引っ張り出して不破先輩は、床に置いた。私は、そう告げながら促されるままそこに座った。
手持ち無沙汰に周りに視線を向ける。散らかっているというけど、それほど酷い状態ではなかった。けど、所々大雑把に仕舞ってある所が不破先輩らしくて少し笑みが漏れた。

「あったあった。はい、これ」

冷蔵庫を漁っていた不破先輩が戻ってきて冷やすものを手渡してくれたので、慌てて視線をそちらに戻した。

「ありがとうございます」

もともと目を冷やすもののようでアイマスクの形をしていた。両端に耳をかけるゴムがついていた。それを手にとって目に当てる。よく冷やされていたみたいで冷たい。

「…………理由、聞いてもいいかな?」

視界を遮られた今、不破先輩の声がよく聞こえてくる。
先輩が聞きたい理由とは、私が泣いたことだろう。
けれども、素直に言えるはずもなかった。

「ごめん。言いたくないことだったらいいんだ」

私の沈黙に不破先輩は、少しだけ悲しい声でそう告げた。
そんな風に悲しませてしまったのだと思うと自己嫌悪に陥る。

「……ごめんなさい」
「謝らなくていいんだよ! 誰にだって言えないことくらいあるもんだからさ!」

先輩の慌てた声が聞こえて、その表情も慌てたものになっているんだろうなと思うと自然と口角が上がった。

「ありがとうございます」
「う、うん」

不破先輩は優しい人だ。傍にいるだけで温かい気持ちをくれる。だから、全てを打ち明けてしまいたくなる。そんなことしてはいけない。それでは、何も変わっていない。私は、誰にも頼らずに生きていけるようにならなければならない。そうしなければ――。

さん?」
「はい?」

その呼びかけに下げていた顔を上げた。目隠しの状態なので先輩の表情は見えない。

「あ、ごめん。黙っちゃったから寝ちゃったのかと思って」

右側から不破先輩の声が聞こえたので、すぐ近くにいるのだろう。

「いいえ。それじゃあ、何か話しでもしますか?」
「んーと……何の話をしようか?」

私の提案に悩む声が聞こえてきた。そう言えば、不破先輩は極度の悩み癖があることを思い出した。こうなると中々決まらないだろう。そう思った私は自分から話題を提供しようと口を開いた。

「不破先輩は、お付き合いしている女性はいないんですか?」
「……え?」
「あっ、素朴な疑問なので深い意味はありませんよ?」

空気が固まったことに気付いて慌てて言葉を続けた。

「そっか……うん、いないよ」
「そうなんですか?」

現に鉢屋先輩には彼女がいる。竹谷先輩は過去形だけど、いた。不破先輩にもいても不思議はないと思っていたのだが、その答えに少し拍子抜けした。

「今は、そういう気分じゃないから」
「久々知先輩も同じ事言ってましたよ」
「兵助にも聞いたの?」
「はい。先輩たち高校時代にも人気があったから、付き合ってる人いても可笑しくないかと思って」
「誰でも良いって訳じゃないし」
「え?」
「あ、なんでもない」
「?」

聞き返すと慌てたように誤魔化された。その意味が気になったけれども、深く追求する気もなかったので聞き返すのは止めた。

「そうだ。何か食べて帰る? 簡単なものしかないけど」
「いえ、そこまでお世話になるわけにもいきません」
「今から帰ると夕食の時間過ぎちゃうでしょう? だったら、ここで食べていけばいいよ」

今がどのくらいの時間か分からないが、本屋を出たときは五時を過ぎていたような気がする。友人の家に行くということを伝えていたし、帰りも遅くなるかもしれないから夕食は必要ないと事前に伝えていたから問題はない。けれども、押しかけたのはこちらだし、夕食までご馳走になるのは申し訳がたたない。

「外で適当に食べて帰るんで、お構いなく!」
「遠慮しなくていいって。招いたのは僕なんだから家主の僕に従うのがお客様でしょ」
「遠慮じゃなくて本当に……わっ!」

台所に行こうとする気配に気付いて慌てて立ち上がったのがいけなかった。
そう言えば自分はまだアイマスクをした状態だったのだ。足元の障害物に気付かず、それに足をとられた。急な出来事に支えきれなかった体が勢いよく傾いだ。

ドテッ

激しい音が室内に響いた。

「いたた……」

思い切り転んでしまった。打ち付けた顔が少し痛い。
けれども、思ったよりも衝撃は少なかった。それに、顔に当たる床は少し暖かかった。
床暖房だろうか。冬でもないのにそんなはずがない。

そんなことを思いながら、私は一先ず視界を回復させようと床に片手を着いてもう片方でアイマスクを外した。



「――え」

そして、目の前に広がる景色に目を見開かせた。
床だと思っていたそれは床ではなかったのだ。

暖色系の布地に英語でなにやらプリントがされていた。先輩が着ているシャツと同じものだった。視線を少し上に上げると不破先輩と視線が合う。
つまり、先輩がクッション代わりになってくれたのだ。

「ふ、不破先輩、大丈夫ですか?」

仰向けになっているので後頭部でも打っていないだろうかと、恐る恐る声をかけた。
すると、先輩の目が少しだけ細められた。

さん」
「は、いっ……!?」

返事をする間も無く腕を引っ張られた。支えを失った体は勿論その下にあった不破先輩の胸の中にダイブした。突然のことに思考が追いついていないところで先輩は素早く私の背に腕を回して立ち上がるのを阻止した。

(こ、こんなこと前にもあった気が……!)

いや、あった。あれは、三年前の合宿の時だ。不破先輩が熱中症で倒れたときも同じように抱きしめられた。もしかして、実は先輩は熱があったのだろうか。いや、でも、さっきまで普通に話していたはずだ。
ならば何故抱きしめられているのか。そんな前振りらしいものは全くなかったはずだ。

「ふ、不破先輩、あの」

何とか声を発したけれども、先輩の腕は緩まない。

「……

(え?)

その言葉に動きを止めてしまった。

「ずっと、呼んでみたかったんだ」

先輩の声が続く。けれども、その声は今まで聞いたどれとも違う。声はとても穏やかなのに何かが違う。
けど、背に回されていた手がゆっくりと腰の方へ下がっていったその瞬間、ドクンと心臓が脈打った。トキメキじゃない。そんな温かいものじゃない。
冷水を浴びせられたような――これは恐怖だ。


「っ、やだ!」

そう告げて私は思い切り身を捩った。
先輩は私の声に腕の力を緩めたのか拘束は直ぐに解けた。先輩から離れて私は後退った。
背中に壁が当たった感触を感じる。

先輩は上半身を起こして驚いたような表情でこちらを見ていた。

その様子に自分がいま何をしたのか理解した。先輩を拒絶したのだ。
先輩のことが怖かった。先ほどまで優しいと思っていたはずのその人のことが怖く思えた。先輩が怖い事をするはずがないと分かっているのに体が勝手に動いてしまったのだ。

嗚呼、どうしよう。嫌われてしまったかもしれない。

「ごめ、」
「ごめん!!」
「え」

私が謝罪の言葉を述べるよりも先に先輩が謝罪の言葉を発した。しかも、土下座までしていた。

「そんなつもりで部屋に呼んだわけじゃなかったのに、僕、サイテーなことをっ……ごめん!」

パチパチと瞬きを繰り返した。けれども、目の前の光景は変わらない。
先輩が土下座で謝罪している。悪いのは私のほうじゃないだろうか。なのに、先輩に先に謝られてしまった。
先ほどの恐怖は薄れ、代わりに焦燥の気持ちが沸き起こってきた。

「先輩、頭を上げてください!」

私は慌ててそう告げた。その言葉に不破先輩が顔を上げた。その表情は泣きそうなほど歪められていた。

「私こそ、ごめんなさい。吃驚して、その……だから」

何と言えばいいのか良く分からない。でも、先輩のそんな表情は見ていたくない。

「怒って、ないの?」

不破先輩の言葉に首を縦に振った。

「……よ、よかった」

息を吐くのと同時に先輩は言葉を漏らした。表情は先ほどとは違って安堵のものに変わっていた。私もそこで、ようやく無意識に詰めていた息を吐いた。

「……えっと、あの、ご飯どうする?」
「え?」
「あ、大丈夫! もう何もしないって誓うから!!」

聞き返した私に不破先輩は慌てて両手を振った。その様子がいつもと変わらぬ不破先輩で、私は自然と笑みが浮かんだ。

「お邪魔じゃなければ、ご馳走になります」
「……うん! 直ぐ用意するから!」
「あ、あの!」

立ち上がった先輩を慌てて呼び止めた。先輩はその声に足を止めて振り返った。

「手伝います」
「え、いいよいいよ、座ってて」

不破先輩の遠慮の声に私は首を横に振った。

「いえ、迷惑を掛けたお詫びに手伝わせてください」

しっかりと目を合わせてお願いの言葉を吐くと、先輩がきょとんとした表情を浮かべた後、苦笑した。

「それ、僕が言う台詞のような気がするんだけどなぁ」
「え?」
「ううん。じゃあ、お願いしようかな」
「はい!」

その言葉に、私は笑みを浮かべて返事をした。



不完全防備なあなたの心




110704
ベタベタな展開にしてみました。