(三郎視点)
「先に帰る」

床に落ちていた皺のついたシャツを拾い上げ腕を通して前ボタンを留めていると、後ろから首に腕を回された。汗に混じって甘い香りが鼻腔を擽る。

「泊まっていってよ」

甘えた声が耳元で囁かれる。だが、その声に私の心が揺さぶられたことはない。
求められれば求めるままに抱く。しかし、それ以上の要求は呑まない。心は決して誰にも渡さない。それが、鉢屋三郎の彼女である人間に課された規則である。

水果もそれを承知の上で付き合ったはずだ。
だが、最近の彼女はそれ以上を求めるようになった。原因に心当たりはある。いや、気付いたというべきだろう。あの夏の一件を教えてくれたのは彼女なのだから。

斉藤タカ丸とが付き合っている。
その話を私にするには、まず私がと知り合いであることを知っている必要がある。そして、水果が二人の交際の情報を知るには、斉藤タカ丸かのどちらかと接触していなければ知りえない。
そして、窮めつけは、と付き合いが悪くなったことだ。

パズルのピースが集まれば答えを組み立てることは簡単だった。

まず、水果はと接触して牽制をかけた。そして、タカ丸さんという彼氏の存在を表にあげることで、私からの興味を削ごうとした。全ては、水果の策略だったのだ。
だが、それは逆効果であったことを水果は知らない。私が厳重に閉まって置いたものを抉じ開ける結果になったことなど何も知らないで傍で笑っているのだ。

しかし、それを言及しようとは思わない。
今更この気持ちを取り戻しても、どうにも出来る問題でもない。
私は、あいつらみたいな我慢強さを持っていなかった。そんな意気地なしの私が彼女を想う権利なんて初めからないようなものだ。
それに、私がを好きだという感情が本物であると誰が証明できる。


「悪い。今日はそんな気分じゃないんだ」

その腕をやんわりと外しながら告げた。その表情に笑みを貼り付けて。
私の言葉に水果は少し寂しげな表情を浮かべたけれども、首を縦に振った。

「じゃあ、キスして」
「……ああ」

目を閉じた彼女の顔に己の顔を近づかせた。





との衝撃の再会を果たした私は八左ヱ門たちと別れた後、ゆっくりとした足取りで自室に続く階段を上っていた。

先ほどの光景が脳裏に浮かぶ。最初は幻を見ているのではないかと思った。けれども、瞬きをしても消えることはなくて本物であると理解した後の数分が、ひどく長く感じられた。

彼女に声を掛けようと思った。笑う振りをするのは、とても簡単だ。けれども、先ほどまで自分が何をしていたのか思い出して視線を合わせることすらできなかった。今の自分が彼女に触れるにはあまりにもこの手は汚れていた。

なのに、未だに鼓動が騒がしい。心が熱かった。なんて、贅沢な心臓だ。

「あ、三郎?」
「兵助?」

そういえば、彼女を全員で送っていくと八左ヱ門が言っていたな。兵助の表情もどことなく嬉しそうに綻んでいるのが読み取れる。
しかし、その表情が私を見て少し歪んだ。

「三郎、臭い」
「出会い頭にその発言は酷くないか?」

兵助の言葉に微苦笑を浮かべて告げると、兵助の表情が少しだけムッとしたものに変わった。

「香水の匂いがする。三郎のじゃないやつ」

服に水果の香水が付いたのだろうか。たぶん、兵助は私が誰と会っていたのか分かっているのだろう。責めているのだろうか。恋人に会いに行っただけなのに、おかしな話だ。


「何があったんだ?」
「何の話しだ?」

兵助の脈絡のない問いかけに軽く首を傾げる。

と何かあったんだろ?」
「何も、ないさ」

時折、兵助は核心を突いてくることがある。黙っていても感じ取ってしまうのが兵助のいいところでもあり悪いところでもある思う。

「じゃあ、なんで避けてるんだ?」
「気のせいだろ。今までだって会えないことはたくさん会ったじゃないか。それに、私は水果とのデートに忙しい。だから他への交流が減るのは当然だろ?」

笑みを浮かべてそう告げるけれども、兵助は釈然としない表情だった。

「ほら、早く行けよ。あいつら待たせてるんじゃないのか?」

なので私は無理やりその話を終わらせた。直ぐにでも一人になりたかったのだ。

「三郎なんか豆腐の角で頭ぶつければいいんだ」
「は?」

兵助はぼそりと呟いて階下へ降りていった。

「……こんな時まで豆腐かよ」

その言葉に微苦笑を浮かべたけれども、直ぐに表情を戻して自室に向かって足を動かした。

鍵を取り出してドアを開ける。シャワーを浴びるのも億劫で疲れた体をベッドに投げ出した。

「はぁ、疲れた」

何に対しての疲労かは発した自分でもよく分かっていなかった。
瞼を閉じて大きく息を吐いた。



いつまでも残る君の横顔





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