職員から少し話を聞いて資料を貰った私は、土井先生がいるであろう休憩コーナーに向かおうと視線を上げた。
「
、
?」
戸惑いを含んだその呼びかけに、私は訝しげな気持ちで視線をそちらへ向けた。
「っ!」
相手を視界に入れて私は息を飲んだ。私の驚きに確信を得たのか相手の表情が破顔した。 こちらに歩み寄り、軽くハグされる。
「ああ、よかった。
だった!」
「リー、さん」
リーは密着した体を離すと少し拗ねた表情を浮かべた。
「いきなり連絡取れない、酷いよ?」
その言葉に、私はなんとも言えない表情を浮かべた。すると、リーは微苦笑を浮かべて口を開いた。
「うん、分かってるよ。事情、聞いた。
悪くない。勘違いしたの彼だよ。彼、謝りたい言ってたよ?」
「……いえ、もう彼とは会わないと決めています」
「どうして?
悪くないよ?」
すると、リーは私の両手を優しく掴んだ。
「
は、彼のこと嫌い?」
「……」
その問いかけに私は答える事が出来なかった。嫌いではない。はっきりとした答えは出ているけれども、事実を口にしたところで現状が変わるわけではないと分かっているから、口にはしない。
「彼、恨んでない。
のこと好きだよ? だから、会いたい言ってた。私、彼に連絡できる」
「やめてください」
はっきりとした拒絶の言葉にリーは驚きに目を瞠った。その表情を見て罪悪感が生まれたがそれでも、是とは言えない。
「連絡しないでください。私と彼はもう関係ないんです……お願いします」
縋りつくような視線を向けるとリーの表情が困惑したのが分かった。恐らく私の発言の意図が分からないからだろう。そんなリーを差し置いて、私はそっと重ねられた相手の手を離した。
「
」
「リーさんにお会いできて嬉しかったです……ごめんなさい」
「待って、
! ……っ!?」
を呼び止めるために伸びてきた手が、誰かに捕まえられた。私は急なことに驚き、それを為した相手へ視線を向けた。
「土井、せんせい」
リーの腕を掴んでいたのは、土井先生だった。
「誰?」
「君こそ誰だ。彼女に何のようだ」
いつもより硬い声が土井先生から発せられた。リーもそのことが分かったようで眉間に皺が寄った。
「理由言わなければいけない? あなた、関係ない」
「……彼女が嫌がってるじゃないか」
「あなた、
のボーイフレンド? だったら――」
「リー!」
その先を言わせまいと、リーの名前を呼んだ。突然の声にリーは驚き顔でこちらを見る。
「
、なぜとめる?」
「……彼は関係ない。お願いだから、帰って」
そう告げて私は土井先生の腕を掴むと、その場を慌てて去った。
◇
「
ちゃん!」
「っ!」
夢中で歩いていた私は、その呼びかけに我に返り足を止めた。
無意識に休憩ホールまできていたようで、周囲に誰もいないことを確認して安堵した。
けど、運動不足の体にはきつかったようだ、息が切れて苦しい。
そんな様子の私に土井先生が背中に手を添えて摩ってくれた。
こういうところに気配りができるのは、先生のもって生まれた優しさなのだろうか。それとも、きり丸君のバイトの子守の手伝いで鍛えられたものだろうか。
「すみ、ません」
なんとか息を整えて顔を上げた。土井先生が困った笑みを浮かべた。
「気にしなくていいよ。それよりも疲れただろう。何か飲むかい?」
先生がどこまで聞いていたかは分からないけれども、先ほどの私たちの様子は傍から見れば異常だっただろう。
なのに、先生はかわらずの態度を示してくれた。
「……聞かないんですか」
それに甘えようかと思ったけれども、あまりにも平然とした態度をとられたので無意識に疑問が言葉に出た。
けれども、その言葉を発して後悔した。
聞きたいと言われて応えられるわけがなかった。耳を塞ぐ代わりに、ぎゅっと拳を握った。
「そうだね、知りたいと言ったら?」
「…………」
静かな声が鼓膜を震わせた。それは、当然のことだ。誰だって知りたくなるものだ。それでも、話せない。怖い。心がこんなに痛い。なんと身勝手な心臓だ。
「どちらかと言うと、私は悲しいよ」
「え?」
その言葉に顔を上げると、真剣な表情をした土井先生が視界に映った。
「そんなに私は―― いや、なんでもない」
「……?」
質問の意図がわからず戸惑いの視線を向けると、本当に何でもないんだと苦笑混じりに述べられた。
「大丈夫。私は無理やり聞き出そうとはしないよ。君が話したいと思った時に話してくれ」
「あ、ありがとう、ございます」
次に浮かべた笑みは昔から良く見る土井先生の顔だった。
しかし、先ほど何を言いたかったのだろうか。その答えを聞きたいのに、頭では聞かない方が良いと告げているような気がして、私は知らない振りをした。
「けど、本当に困ったときは、周りに頼りなさい」
「……はい」
その言葉に小さく肯定の言葉を述べた。
けれども、おそらく、私は誰にもこの話をすることはないだろう。
避けてばかりいても何の解決にもならないと分かっている。それでも、一つを解けば全てが解けてしまう恐怖は拭えない。私は、今を失うのが怖いのだ。
「あ、いたいた」
通路の向こうから声が聞こえて、顔を上げた。きり丸君だ。
「探してたんすよ、勝手に居なくならないでください」
「というか、お前たちが先にいなくなったんだろうが」
プクリと頬を膨らませたきり丸君に、土井先生が引き攣った笑みを浮かべた。
このやり取りも昔から変わっていなくて、ホッと安心してしまった。
「
さん、どうかしたんすか?」
「え?」
「土井先生に何かされたんでしたら、慰謝料ふんだくってやりますよ!」
「え、ち、違うよ!」
親指と人差し指で円を作ったきり丸君に、慌てて否定の言葉を述べた。
「本当っすかぁ〜?」
「本当だよ。もう、きり丸君は疑い深い!」
「でも、何かあったら言ってくださいね、俺が
さんを守りますから!」
その純粋な言葉に沈んだ心が少しだけ浮上した。は組の子達は、やんちゃだけど、人の気持ちを温かくさせる子達ばかりだ。だから、落ち着くのだろう。
「ありがとう」
私は、笑みを浮かべて、お礼の言葉を述べた。
蜩が鳴いた、夏の終わり
130731
土井先生フラグ。