「ちゃん、おはよう。休日にメールしたんだけど、見なかった?」
「え? う、うん、実は知り合いの家に忘れてきちゃって、暫らく携帯ナシなの」
友人の言葉に内心でダラダラと汗をかきながら、そんな言い訳の言葉を発した。
私の言葉に友人はさして気にも留めず、「ちゃんらしいー」と笑いながら椅子に座ってテキストを鞄から出し始めていた。その様子に、安堵した。
あれから、数日経った。あの日、帰宅した私に母親は、何事もなく、むしろ逆に微笑ましい視線で出迎えてくれた。それにホッとしていいのかどうかは凄く複雑だ。
そして、いつもの日常が始まったかのように思えた。
(なんで、携帯電話を忘れてきちゃったんだろう)
ドレスのポケットに入れていたはずなのだが、いつの間にか落としてしまったらしい。翌朝、クリーニングに出すという母の言葉にポケットを探った時に、中に何もなかった時の衝撃といったら、計り知れないものがあった。
直ぐに利吉くんに電話して確認したら、床に落ちていたと告げられてホッと安堵したのは言うまでもない。けれども、暫らくはあの携帯は利吉くんの家にお世話になることになるだろう。
自分の手元にない不安は、どうしても拭えない。
「ちゃん?」
「な、なに?」
「百面相してたから、何か忘れものでもしたの?」
「え、ううん、大丈夫。なんでもない」
いけない。ここは教室だった。私は慌てて思考を中断させた。
直線迷路
「ちょっと、体育館裏に来なさい」
「…………」
ああ、忘れていた。どうあっても誤魔化せない人が一人いた。
高校時代から頭の上がらない花乃子嬢その人が、笑みを浮かべてそうの給った。その言葉に私は無言で頷いた。
体育館裏は人気が少なくて二人きりになるにはもってこいの場所だ。カップルの穴場なんていわれていたような気がする。
今日は先客もいなかったようだ。どこかの学科がスポーツでもしているのか遠くから騒がしい声が反響している。
「携帯を何処に忘れたのか十文字以内に述べなさい」
なにそのテスト問題的な言い方は。そう思ったけれども今の彼女に突っ込んでも冷たい目線しか返ってこないと思ったので、その言葉は飲み込んだ。
「えっと、家です」
「自宅じゃないわよね?」
「あ、えっと、うん」
花乃子って実は名探偵なんじゃないだろうか。なんか既に分かっているような口振りで問いかけて来る。それが余計に怖い。
「相手の名前を言いなさい。今すぐ葬って来るから」
「……え!?」
殺気めいたものが彼女の背後から感じられて、私は青褪めた。
花乃子さん本気だ!
「鉢屋先輩だとしたら絞める。 それとも、立花先輩? それとも、タカ丸さん? まさか、後輩? だとすれば、次屋辺りが怪しいわね、あいつ意外と早そうだし。それとも、意外にむっつりっぽい不破先輩ってこともありえるかしら?」
「さらっと失礼な発言してるんだけど!?」
慌てて止めると、花乃子は不機嫌な表情を隠すことなく言葉を止めた後、こちらに視線を向け直した。
「それで、誰なの?」
「……利吉くん」
「彼に会ったの?」
その言葉に頷いた。けど直ぐに両手を横に振った。
「お、親がね、無理やり食事会を開いたの、それで、」
「それって、もしかして……」
「……うん」
私が頷くと、花乃子は眉根を寄せた後、はぁと息を吐いた。
「まさか、こんなに早くに婚約の話を持ってくるとは思わなかったわ」
やっぱり花乃子は名探偵なのかもしれない。ちゃんと全て分かっている。
一年前、利吉くんは私に「家族になろう」と言ってくれた。
それが告白で求婚でもあったことは勿論、理解していた。だけど、あの時の私は答えに窮した。嬉しいと思う気持ちがあったけれども、私は利吉くんに愛情を抱いていなかったのだ。
結局、有耶無耶のまま終わったはずだった。
彼が諦めていないと分かったのは今夏の法要の時だ。その後に何かあるだろうと思ってはいた。でも、まさか親ぐるみで婚約という話にまで膨れ上がっていたなんて思いもしなかった。
その話をされたとき、私は頭が真っ白になった。目の前で話す母の言葉が何も聞こえなくなって周りの微笑みも耐えられなくて、その場から逃げてしまったのだ。
逃げたのは、私が彼の気持ちを受け入れる覚悟がなかったせいだ。でも、嫌われたくなかった。だから、抱かれてもいいと思ってしまったのかもしれない。そんな事をしても幸せになんてなれないのに愚かな考えだった。
結果、私は彼を傷つけることしか出来なかった。このネックレスを捨てられずに身につけているのは、贖罪のつもりなのだろうか。
「それで、は、どうしたいの?」
「…………」
答えは出てこなかった。利吉くんとの婚約は承諾できない。でも、きっぱりと断ることも出来なかった。彼と結婚することで何もかも清算することが出来るんじゃないかって、そんな風に思ってしまったから答えが出てくれなかった。やっぱり私って酷いのかもしれない。
「私は、が好きよ。大切な親友だと思っているわ」
「うん」
「だからこそ、言わせて貰う。いい加減にしなさい。あんたのその優柔不断さがどれだけ周りの迷惑になっているのか分かっているの?」
きっぱりとした口調が鼓膜を刺激した。
私は、親友である彼女に告げてもらいたかったのかもしれない。
「ねぇ、――」
カランと乾いた音が響いて花乃子の台詞が遮られた。音の発したそれは、からからと音を立てて私たち二人の足元まで転がってきた。よく見るとカラーコーンだった。転がってきた方向に視線を向けて私は目を見開いた。
「こ、へいた先輩」
こちらを凝視したまま固まっている小平太先輩がそこにいたのだ。
その様子から先ほどの会話を聞かれてしまったのかもしれない。
「あ、先輩!?」
声をかけた途端、固まっていた先輩が我に返った。しかし、瞬きを数回した後、その表情を歪ませて先輩は踵を返して走り去ってしまったのだ。
「追いかけてやりなさい」
「え、でもっ」
花乃子の冷静な声が聞こえた。追いかけて誤解を解きたい。でも、花乃子との話はまだ終わっていないのだ。
「話の続きは、また今度」
私の迷いを瞬時に感じ取ったのか花乃子は笑みを浮かべてそう告げてくれた。その言葉に、私は、一度だけごめんと呟いて先輩を追いかけるために走り去った。
140825