この数ヶ月の出来事が嘘だったかのように平穏な日々が続いた。
けれども、いつもの日常とは違った。なぜなら、先輩たちからの連絡がパタリと止まったのだ。花乃子ともなぜかあれから顔を合わせる機会がない。
忙しい時期と重なっただけだろうと言い聞かせながらも、その急な変化に戸惑いがあったのも確かだった。
「ここらへんに来るのは初めてかも」
呟きながら辺りを見回す。学内だと言うのに見覚えのない場所に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。この大学は、マンモスと言われるくらい広い。学科が違うといかない場所だって出てくる。
私は、その行かない場所に足を運んでみることにしたのだ。
気分転換もあったけれども、今の自分の気持ちの整理もしたかったのだ。
結局、利吉くんとの婚約話は、私が成人するまで保留と言う事になった。
その結論に安堵したけれども、同時に別の不安が湧き上がってきた。
例の話は一体どこまで進んだのだろうか。友人から詰問がないということは、誰にも悟られることなく進んでいるのだろう。
でも、私の耳に何も入ってこないと言うのが逆に不安を煽った。
「ああもう」
私は軽く首を横に振った。考えれば考えるほど気持ちに沈んでいくのだから、これ以上は考えない方がいい。どう足掻いても、結果は見えているのだ。
「?」
その呼びかけに私は顔を上げた。
「――――!?」
私は、手にしていた鞄を地面に落としたことも気付けないくらいに驚いた。
そんなまさか、彼がこんなところにいるはずがない。
相手の驚いた表情がありありと見て取れる。私も同じような表情を浮かべているのだろうか。
「――そういうことか」
「っ……!」
その声色があの時と重なって背筋が凍った。逃げろと言う警報が鳴り響いて、私は咄嗟に彼に背を向けて駆け出した。
「!」
背後で呼び止める彼の声が聞こえるけれども、止まるな追いつかれるぞと脳内で声が聞こえて、私は必死でその場から逃げた。
(どうして!? なんで!?)
疑問符ばかりが頭を過ぎる。彼はこの大学の生徒ではない。だから、ここにいるはずがない。現に、彼は私がこの大学に在籍していることすら知らなかった。否、ここにいることを故意に知らせなかったのだ。だって、それは、私があの人たちに『彼と接触できないようにしたい』と頼んだことだ。
だから、彼がここに来たのは恐らく偶然なのだろう。
なんという恐ろしい偶然だ。
どうしよう、彼にここにいることを悟られてしまった。どうしたらいい。どうしたら逃げられる。どうしたら――
「――っ!?」
闇雲に走っていたら突然目の前に壁が出来た。ぶつかると思って次に来る痛みに耐える為に目を瞑った。
けれども、その壁は私の肩を掴んだ。だが、勢いを抑えきえずにその壁に突っ込んだ。ふわりと香った匂いは落ち着くものだったけれども、今の混乱した私の思考では上手く処理が仕切れなかった。
「……っ、はぁ……はぁ、げほっ」
多くの酸素を取り込むためか荒い息が己の口から何度も吐かれるがうまく呼吸が出来ずに咳き込む。すると、壁となった人物が私の背中を優しく撫ぜた。その優しい手つきに感謝しながらも、私の脳裏は未だに恐怖で支配されていた。
恐怖を拭うように目の前にあった相手の上着の胸元辺りをギュッと握る。
「大丈夫か」
けれども、聞こえてきた覚えのある声に私の思考が冷えた。瞬時にその握った手を離した。
下げていた視線を徐にあげる。眉根を少し寄せて心配そうな表情を浮かべた鉢屋先輩がいた。
ああ。どうして、この人にこんな醜態を晒してしまったのだろうか。これは、一番してはいけないことだった。私は、恐怖心を無理やり飲み込んで笑みを浮かべた。
「だいじょうぶ、です」
まだ少しだけ息苦しいので、声がかすれてしまった。それでも、近距離にいる彼には十分聞こえる声量だ。
「ちょっと急いでいただけですから、大丈夫です」
今度ははっきりとした声で告げた。納得がいかなそうな顔をしていたけれども、こういう時の鉢屋先輩は深くは追求してこない。それを分かっていて敢えて笑みを浮かべて拒絶にも似た言葉を発した。
鉢屋先輩は眉根を寄せて口を一度開いた。けれども、直ぐにそれは閉じられる。恐らく触れてほしくないと言う私の気持ちを察しての行動だろう。だから、私はそれに則って挨拶をして別れよう。
恒久的な安心感、
「」
そう思っていたのに、逃げたはずの恐怖が背後に立っていた。
そして絶望