「」
呼ばれた声に対して、私は振り返ることが出来なかった。振り返ったら最後、涙腺が壊れると思ったからだ。それに、彼に合わせる顔がない。
「?」
彼が再度私の名前を呼んだ。少しだけ戸惑いを含んだそれに私の心臓が痛む。
けれども、ずっとこのままでいる事も出来ない。どうしようと、悩み始めた時だった。
「彼女に何の用ですか?」
上から声が響いた。そこで漸く目の前に鉢屋先輩がいること思い出した。
慌てて顔を上げる。けれども、鉢屋先輩の視線は私の後方へ向いていて目が合うことは無かった。
「っ…………鞄、落としたから」
彼がポツリと呟いた。その言葉に、自分が鞄を落としたまま逃げてきたことに気付いた。彼はわざわざそれを届けにきてくれたのだろか。優しさの片鱗が見えて、胸がギュッと痛くなった。
鞄を受け取らないわけにもいかない。
意を決して振り返ろうとしたところで、肩に手を置かれてそれを阻止された。
「どうも」
私が何か言う前に鉢屋先輩が私の鞄を受け取った。
そして、背後の彼が躊躇いながらも踵を返し、足音が遠ざかっていったのを確認したところで漸く息を吐いた。
「誰?」
頭上から降ってきた低い声に驚いて弾みで顔を上げると、冷たい表情を浮かべた鉢屋先輩と目が合った。その表情に無意識に肩が揺れた。それは、肩に置いたままの鉢屋先輩の手にも伝わったようで、その手が離される。それと同時に少しだけ私は距離をとった。
「……鞄」
「ありがとう、ございます」
少しの沈黙の後、先輩がこちらに鞄を渡してきたので、ぎこちない動作でそれを受け取った。
本来ならば事情を説明するところなのだろう。けれども、私は、それを話す気にはなれなかった。
「じゃ、じゃあ、用事がありますので、これで」
「」
言葉を遮るように名を呼ばれた。視線を向ける。
「何か隠していないか?」
言われた言葉に内心で心臓が跳ねたけれども、努めて平静でいようと笑みを浮かべた。
「何も隠していませんよ」
「嘘をつくな」
いつもなら、これでやり過ごせるはずだ。鉢屋先輩は、無理に人の隠し事を暴こうとはしない。それなのに、今日はやたらと食い下がってくる。
「さっきの男は、お前のなんだ?」
私が触れて欲しくないと思っていることも感づいているはずだ。それなのに、なぜ、こんなに詰め寄られなければならないのだろうか。
私だって、前触れもない彼との再会に頭の中が混乱しているのだ。落ち着いて考えたいのだ。
「どうして先輩に言わなきゃならないんですか?」
「っ」
「私にも私なりの人間関係があるんです。素直に話せるはずないじゃないですか……放って置いてください」
私は冷たく告げて、先輩の前から逃げるように足早でその場を去った。
握り締めた体裁