炎色反応 第三章・8
「イーリックさん、違うんです。オレ、ちゃんと話しをして、あなたに村に帰ってもらおうと思って戻って来たんです」
一度は明るくなったイーリックの表情が再び曇る。
「どうして? ティス。君は村に帰りたくないのか?」
オルバンのことを説明するより先に自分の気持ちについて聞かれ、ティスは口ごもってしまった。
「そういう、わけじゃ……」
「じゃあなんで。オルバンっていう魔法使いが、強力な力を持つ残忍な男だっていうことはあちこちでよく聞いたよ」
そのよく聞いた、がどれぐらいのことまでなのかずっと気になっているティスだ。
しかしイーリックは今度もそれについては深く言わず、ティスの肩に両手を置いて悲しそうな顔をする。
「ティス………僕は君が心配なんだ。僕にとって君は、本当の弟みたいに大事な存在だよ。その君が、魔法使いに連れ回されて怖い目に遭ってるなんて放っておけるはずがない」
真剣な言葉を聞くとティスの胸に暖かなものが満ちた。
オルバンの奴隷と化して以来、同情の目を向けられたことは何度もある。
だが誰もが火の魔法使いを恐れ、はっきりとした慰めなどかけてもらった覚えはない。
せいぜいかわいそうにな、という顔をされるばかりだった。
あるいは先日の酒場の男たちや、今いる宿の人間たちのように好色な視線でなめ回すかのどちらかだ。
久し振りにまともな人間扱いしてもらえた気がして嬉しいが、彼のような人だからこそこれ以上ここにいてもらうわけにはいかない。
「イーリックさん」
ティスは切ない瞳で彼を見上げた。
「イーリックさん。来てくれて、本当に嬉しいんです。オレも、あなたのことを本当の兄さんみたいに思ってるから」
先の彼の台詞をなぞるようにそう言ってからでも、と続ける。
「イーリックさん、あのね、オレの……ご主人様は本当に恐ろしい人なんです。オレが知ってるだけでもう十人ぐらい、火の魔法で簡単に殺しちゃったんだ」
死んでいった者たちの残像がまぶたの裏に蘇り、水色の目の中に暗い色が宿る。
「噂なんかじゃあの人の、本当の怖さは分からない。オレ、イーリックさんのこと大好きです。だから、あなたがあんな風に殺されるのは見たくないんです」
ティスはまだ肩の上にあるイーリックの手にそっと触れた。
「お願いだからもう村に帰って。イーリックさんのご両親だって心配してます。オレの父さんと母さんにも、オレのことは……」
さっき別れた時と同じ台詞を口にしようとした時だった。
ふわりと体が浮く。
イーリックは軽々とティスを抱え上げ、林の奥に向かって走り始めた。
「なっ……イーリックさん、だめ!」
「放っておけないって言っただろう!」
優しげな外見からは想像出来ない力強さでティスを抱いて、イーリックは腐葉土を踏み締め走り続ける。
「ティス、話は村に帰ってから聞く。もうあの魔法使いのことなんか忘れてしまえ!」
忘れられるものならティスだって忘れたいのだ。
全てなかったことにして、イーリックといっしょに元の日常に戻りたいのだ。
だけどそれは出来ない。
「イーリックさん、下ろして、だめ! オルバン様が来る…!」
叫び、暴れようとしたティスをもっと強く抱き締めてイーリックは苦しそうにつぶやいた。
「ティス、もうあいつのことは考えるな。大丈夫だ、僕が守るから」
ティスも彼の剣の腕はよく知っている。
時折村に忍び込んで来ようとする盗賊などを、彼は何人も切り伏せてきた。
村が属していた国の騎士団から誘いがかかるほどの腕前を持つ、イーリックの「守る」には確かな重みがある。
信じたかった。
この人さえいてくれれば大丈夫だと。
だが悲しいことに、今のティスはただの人間の出せる力の限界を知っている。
自分の持ち物に手を出されたオルバンが、相手に対して何をするかも。
「下ろして、お願い! オレ、イーリックさんに死んで欲しくない…!」
「オレもそいつを殺す気はない」
暖かな腕の中でティスの体は凍り付いた。
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