炎色反応 第七章・49
「はは、そうか。君にとっての私はまだカービアンだな」
のんきな顔に戻ったグラウスだが、今更名乗るのも面倒だと思ったのだろう。
自分の正体について言及しないまま、イーリックにこう命じた。
「丁度いいところに来てくれたよ。君の可愛いティスをさらいに、オルバンが来てるんだ」
びくりと反応し、イーリックはグラウスの正面に立つオルバンを見やる。
その顔が見る間に強張っていくのを見てティスは青ざめた。
「だめです!」
今にも構えを取ろうとしているイーリックを見て、思わず叫んでしまう。
「だめ、嫌だやめてイーリックさん! 力をっ……、オルバン様と戦うなんて、だめだ!」
グラウスでさえ予想外の実力を見せつけたオルバンと戦えば、イーリックはこれまでにない程の力を使わざるを得ないだろう。
当然、消耗の度合いも段違いに違いない。
第一イーリックは一度、ティスの決死の命乞いによりオルバンの手から逃れた男なのである。
それが大きな代償と引き換えに力を身に付け、一度はこのオルバンの足すら引かせた。
火の魔法使いであるという自負心が強く、日頃人間を馬鹿にしてはばからない彼に敗北の屈辱を味わわせた罪は重い。
ここでもう一度牙を剥いたりすれば、オルバンは絶対にイーリックを許さない。
「……ティス…………」
中途半端に片手を上げた状態で、イーリックはためらうようにティスを見る。
昨日の夜、泣きながら好きだと訴えた時と同じだ。
悲しそうな、辛そうな表情はティスが覚えている通りの優しい人間の青年のものだった。
するとそれまで黙っていたオルバンが、ゆっくりと口を開いてこう言った。
「お前も懲りないな、ティス。お前のお願いを聞いてやるのはあれが最後だと言わなかったか?」
冷え冷えとした言葉に背筋が凍える。
覚えている限りで最大限にオルバンの怒りをかった、あの時のことを思い出すと喉が詰まったようで声が出なくなってしまった。
ぴんと張り詰めた空気の中、グラウスは面白そうな顔をしながら再度イーリックにささやきかける。
「どうしたんだい、イーリック。何を迷う? 君は何と引き換えにしてもあの子が欲しい、そう言ったんじゃないか」
決意を思い出させるように吹きかけられる声は、悪魔の誘惑だ。
イーリックの表情にあの、ティスが恐れたものが混じり始める。
「ティスを手に入れずに人生を送るより、その半分の時間でもいっしょに過ごせた方がいい。そう言ったのは君だろう? 今オルバンを倒さなければ、彼は可愛い奴隷を君の手の届かないところへ連れて行ってしまうよ」
「……や、やめて下さい…………ッ」
ぶるぶると勝手に震える体を叱咤し、ティスは一歩前に踏み出して声を出した。
「イーリックさんに、イーリックさんにこれ以上力を使わせないで……! この人が死んでもどうでもいいくせにっ……」
「だから、だったら君がイーリックを好きになればいいじゃないか」
分からない子だなあ、とグラウスはくすくす笑う。
無論、ティスがそうは出来ないと知った上で言っているのだ。
「君が可愛い見た目によらずとんでもない淫乱なのは知っているよ。だから二人とも失いたくないなんてわがままを言うんだね」
「ち、ちが……」
おろおろするティスを、グラウスだけでなくオルバンとイーリックも見つめている。
彼らの目を十二分に意識した調子でグラウスはなおも言った。
「でもね、オルバンもイーリックもお互いに君を相手と共有する気はないようなんだ。だから仕方がないじゃないか」
仕方ないで済まないからこんなに苦しんでいるのだ。
それに気付いていないはずもないのに、実験好きの魔法使いはさも楽しそうにこんな提案までして来た。
「いっそこうしたらどうだい? どちらも選べないのなら、二人に戦ってもらえばいい。どっちが残ってもいいじゃないか、きっとどっちでも君を満足させてくれるよ……、おやおや」
何かに勘付いたらしい彼の目が、戸口の辺りで立ちすくんでいるイーリックの更に後ろを見た。
「ティス、聞いたことがあるかな? イーリックがどれだけ君を欲しがっているかの証拠が来るよ」
なるほど、確かに軽い足音が近付いて来る。
一瞬の間を置いてイーリックが悲壮な叫び声を上げた。
「……だめだ、来るな!」
その声に怯えたように足音が止まる。
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