炎色反応 第七章・51



イーリックにとって、レミーは本当にティスの代わりという意識しかなかったらしい。
本当に驚いているのが手に取るように分かる言い方だった。
それを聞き、耐え切れなくなったのかレミーは両眼からぽろぽろと涙を零し始めた。
風の糸の支配さえなければ、とうの昔にこの場から逃げ去っていたことだろう。
だが哀れな少年は、まるでさらし者のようにされたまま逃げ出す自由さえ許されないのだ。
オルバンらしいと言えばオルバンらしいが、残酷な行為にティスはどうしようもないいたたまれなさを感じてしまう。
いつの間にか起き上がったディアルも顔をしかめている。
だが、グラウスは面白そうに笑っていた。
「おや、気付いていなかったのか。自分のことになると鈍いね、イーリックは」
くすくす笑ってそう言うと、彼はこう続けた。
「でもね、君が好きなのはティスなんだろう? 今のでも分かるだろうけど、オルバンの冷酷さと来たら私以上さ。彼にティスを渡してしまえば、いずれ使い潰されて殺されてしまうのは目に見えている」
グラウス本人の行いを考えれば滑稽とも言える正論だ。
しかしイーリックの顔付きには変化が生じた。
「…………レミーを自由にして、避難させてやって下さい」
ひとまず、レミーについてこれ以上考えるのをやめたいという思いも働いたのだろう。
硬い声で言ったイーリックに、グラウスは快く笑って応じた。
「構わないよ。さあレミー、おとなしくしておいで」
「イーリックさん! っ…………!」
顔色を変え、叫ぶレミーだったが次の瞬間その声は不自然にせき止められてしまった。
「舌はやっぱり、扱うのが面倒くさいね。切り取られるのが嫌ならおとなしくしておいで」
平素と変わらぬ声で言ったグラウスの指で風の石がきらめく。
彼が操る糸により、顔面蒼白になったレミーはやはりごく普通の足取りで室外に歩いて行かされた。
未練の視線すら送ることを出来ない少年が出て行った後、イーリックは厳しい表情でオルバンに向き直った。
オルバンは余裕の表情で小馬鹿にしたような視線を送り返す。
「この間は世話になったな、人間」
一度イーリックに撤退させられたことについて、自ら彼は口火を切った。
しかしその語り口にはいささかの怯みも、ましてや開き直った様子もない。
「あの時は退いてやったが、あれがてめえの実力の成果と勘違いしてもらっちゃ困るぜ。身の程ってものを教えてやろう」
撤退させられた側のはずの言葉なのだが、相変わらずとんでもなく偉そうだ。
またそれが似合うのだが、さすがにイーリックもすぐに切り返してきた。
「…………ふざけるな。ほとんどまともな相手もせずに、すぐに逃げ出したくせに」
その瞳に宿った強い輝きに呼応したように、彼の指先で一度に三つの光が輝き始めた。
風、水、土、三つの力が絡まり合うようにしながら高まっていく。
「ティス、やっぱり君をこんな男の側には置いておけない。今度こそ僕が助けてみせる!」
声高らかに宣言したイーリックの全身から強い魔力が立ち昇った。
土砂を含んだ竜巻が、一度は静かになった室内の空気をかき乱す。
一度立ち上がり、参戦の機会を伺っていたはずのヴィントレッドが再び膝を付かされてしまうような勢いだ。
そこに、更にグラウスまでもにっこり笑って力を使い始めた。
「残念だな、オルバン。君にもう少し殊勝さがあれば、ヴィントレッド程度の地位は与えてやれたと思うんだけどね」
勝利を確信したその声音は、オルバンとは性質の違う傲慢さに溢れている。
「けれどまあ、仕方がないよ。格好を付けて風の石を放棄したことを後悔しているかな? もう遅いけどね」
ふふ、と笑う彼の手元で輝く緑の光が室内の全てを照らす。
壁や天井を軋ませて逆巻く風にディアルも大柄な体をよろめかせているが、オルバンは髪や衣の裾をなびかせているだけだ。
その手がすいと宙に掲げられるところまでは、何とかティスの目にも見えていた。
オルバン様、と強い風に目を開けられないまま叫んだことも覚えている。
次の瞬間、全身がかっと燃え上がったように感じたことも覚えている。
まるで炎に包まれたように。
だが熱い、と口にする前に、ティスは意識を保つことが出来なくなり暗い闇の中に吸い込まれていった。


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