炎色反応 第七章・52



***

柔らかく、少し冷たい何かが全身をそっとくるんだのを感じる。
見上げると、心配そうなレイネの憔悴しながらも美しい顔があった。
「レイネ様……?…………」
部屋の奥で意識のないままの状態だった彼だが、ティスと入れ替わりに目を覚ましたらしい。
気付けのために水の魔法を使ってくれたようだ。
ぼろぼろになった床に横たわり、まだ少しおぼろげな口調で名を呼んだティスの額に当てていた指をどけ、レイネは無言で部屋の中央を指した。
そこにはティスが気を失う前と同じく、オルバン、グラウス、それにイーリックがいる。
立っているのは前者二名だけ。
イーリックは床に膝を付き、荒い息を吐いていた。
「………、…こんな………………」
見た目上の外傷は全くない。
にも関わらず、一瞬でレイネよりなおひどい顔色になったイーリックは座り込んだ状態でいるのがやっとのようだった。
よく見ると彼の体のあちこちから、かすかな黒煙が上がっている。
「紅炎灰陣(こうえんかいじん)、か……」
その隣、オルバンと向かい合う格好で立っているグラウスの口から心底感嘆した声が漏れた。
「すごいな…………この術が使えるとはね。いや……、ちょっと違うな。もしかすると君が作ったのか……?」
自問自答をする彼の全身を形作る輪郭がゆらゆらとぶれ始める。
「独自に術を組めるような魔法使いは、人間の増えすぎたこの世界にはもう生まれないって話だったけど…………ふふ、そうか、いや、惜しいな……」
にっこりと、グラウスは笑った。
意図してとぼけているわけでもなさそうな奇妙に晴れやかな笑み。
おそらくは初めて見せる、彼の心からの笑み。
「恐怖、焦り…………自分のものは久々に味わったよ…………残念だな……、もっとたくさん、試してみたいことがあったのに……」
揺らいでいた輪郭が瓦解していく。
一瞬で黒い灰で作られた像と化したグラウスの体は、短く息を呑んだイーリックのズボンの裾に一部を飛び散らせながら崩れ床に小さな山を作った。
細かな灰の塊へと、オルバンは気のない素振りで手をかざす。
小さな火花が指先から飛んで、グラウスだった灰の山を吹き散らした。
「ふん」
多少は乱れた黒髪にさらりとその指を通して整え、オルバンはイーリックへと視線を移す。
びくっと震えた彼を見て、黒衣の魔法使いは人の悪い笑みを浮かべた。
「どうだ。いい加減力の差ってものがよく分かっただろう? 人間」
さすがにイーリックも何も言い返せないようだ。
無理もないだろう。
あのグラウスを、人を魔法使いに変える能力を持った最強の風の魔法使いを、オルバンは内側から燃やし尽くして灰の塊に変えてしまったのだ。
なまじ魔法使いとなったイーリックだからこそ、彼のやってのけた行為の恐ろしさは骨身に染みるはず。
かなわない。
それを、まざまざと思い知らされる。
「チッ…………」
低い舌打ちの声が部屋の隅から漏れた。
「ヴィントレッド!」
今まで言葉を失っていたザザの声に彼の視線の先を見れば、ヴィントレッドが風靴により大きな体を宙に浮かせたところだった。
「なんだ、ご主人様がやられて逃げるか?」
面白そうに笑うオルバンに、ヴィントレッドは鼻を鳴らす。
「オレは負け戦に興味はねえよ。グラウスと今のイーリックをやっちまうような奴、相手に出来るか」
だが彼の瞳には、依然として火の魔法使い特有の強い光があった。
「でもな、このままじゃ済まさねえ。オレは火、それに風の力を極めてお前より強くなってやる」
風の石を砕いてみせたオルバンに対する対抗心だろうか。
あえて風を使うと明言した、赤い瞳がティスの方に向く。
ぎくっとしたティスに、ヴィントレッドは懲りない好色な笑みを浮かべてみせた。
「そして淫乱兎ちゃんの飼い主になってみせるさ。そっちの方もたっぷり修行を積んでくるぜ、楽しみにしていな」
火の魔法使いという者たちは、ある意味非常に脳天気なのかもしれない。
親玉がやられ、第二の実力者と思われていたイーリックがこの有様なのに、ヴィントレッドの声音に弱気は全くなかった。
「おま、この、おい、どうする気なんだよこれから!」


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